【 1970年代後半、欧州強豪、ケルンを紹介します。】


1970年代後半、ドイツ・ブンデスリーガは、「欧州最高のリーグ」だった。
(注: UEFAリーグ・ランキングで、1976~84年までずっと1位だった)。
1977-78シーズン、ケルンは、国内リーグ、ドイツ・カップに優勝して、「2冠」を達成した。
20世紀、ドイツでは「2冠達成」は難しく、今より偉業とされた。
ケルンは、ドイツ史上3チーム目だった。
2冠達成チームは、20世紀中では、僅か4チームしかない。ケルンの2冠は、1937年、シャルケ、1969年、バイエルンに次ぎ、3チーム目だった。他は、1986年のバイエルンのみです。
現在まで、2冠達成チームは、リーグ史、84年で15チームある [ 2019年現在 ] 。
しかし、2000年以降の19年間で、11チームも生まれた。現代の方が、2冠を達成し易くなっています。   

当時、ケルンは、「稀な成功」を達成した訳だが、日本のサッカー・ファンはどんなメンバーだったのか顔触を、ご存じでない方が多いだろう。
故に、私が、その時代のケルンを、皆さんにご紹介、致します。


[  ケルン 1977-78 ] 


4-2-3-1システム。
 
            ミュラー
 
ファン・ホール  ノイマン  奥寺康彦
 
   クルマン      フローエ
 
ツィマーマン シュトラック  ゲルバー コノプカ
 
         シューマッハ 



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【写真解説】    
ケルンのセンターフォワード、ディーター・ミュラー。
「1977、78年、2年連続、ブンデスリーガ得点王」。
  
ミュラーは、リーグ通算177得点 [ 当時、歴代4位 ] で引退した。
(2019年現在で、まだ歴代8位です)。
ドイツ代表では、「ユーロ1976」大会、得点王になった。
 彼は、1970年代後半、「世界屈指のセンターフォワード」だった。 


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【写真解説】 ケルンでシュートを撃つ、ミュラー。


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【写真解説】 
1976年6月17日。 写真、左、ミュラー。

「ユーロ1976準決勝、ドイツ 対 ユーゴスラビア」戦で、ヘディング・シュートを撃つ、FW、ディーター・ミュラー(ドイツ代表、22才)。
この試合、ドイツは、4-2で勝利した。
ミュラーは、3得点を決め、ハットトリックを達成した。
その後、ドイツは「準優勝」の成績で、大会を終えた。
決勝戦で、ドイツはチェコスロバキアと対戦した。2-2の同点で、その後、延長戦で決着がつかず、PK戦を行った。ドイツは、PK戦で敗れた。
ちなみに、ミュラーは、決勝戦でも1得点を挙げた。 


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【写真解説】
「ユーロ1976準決勝、ドイツ 対 ユーゴスラビア」(写真、2枚目)
写真、右が ヘディング・シュートを撃つ、ディーター・ミューラー。


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【写真解説】 
1978年 6月21日。
「W杯1978、2次リーグ、ドイツ 対 オーストリア」。
写真、右が FW、ミュラー(ドイツ代表、24才)。
左が DF、ブルーノ・ペッツァイ(オーストリア代表、23才)。
ドイツは、2-3で敗れた。
W杯1978で、ミュラーは、「4試合2得点」という成績で終えた。



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【写真解説】  
FW、トニー・ウッドコック(イングランド代表)。

1979-80シーズン序盤、FW、ロジャー・ファン・ホール(ベルギー代表)が大怪我をして戦列を離れた。その為、ケルンは、急遽、ノッティンガム・フォレスト(ENG)から、ウッドコックを獲得した。
ドイツ・クラブ史上、最高額の移籍金」で獲得した。
先シーズン、欧州チャンピオンズ・カップで、ノッティンガム・フォレストは優勝していた。欧州2連覇を達成した。ウッドコックは、「欧州王者チームのフォワード」だった。


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【写真解説】 
   1980年3月8日。
ブンデスリーガ、1979-80シーズン、
第24節、「ケルン 対 シャルケ」。
右、FW、ウッドコック。
左、DF、ベルント・ティーレ(シャルケ所属)。
試合は、1-1、引き分けで終った。

        

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【写真解説】 
中央、ケルンでボールをキープする、ウッドコック。



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【写真解説】
左、FW、ウッドコック(ケルン所属、イングランド代表)。
右、
FW、ゲビン・キーガン(ハンブルガー所属、イングランド代表)。
この当時、キーガンは、「2年連続、バロンドール受賞」(1978、79年)していた。欧州最高の選手だった。
当時、ブンデスリーガで、イングランド代表のスター2人がプレイした。
この時代、ブンデスリーガは、「欧州最高のリーグ」だったので、名選手にとって、レベル面でも魅力のあるリーグだった。
それ故、彼らは、ドイツ挑戦をした。

   

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【写真解説】 
ウィング、奥寺康彦。

奥寺は、ケルン2冠達成シーズンの終盤は、「残り3試合を3試合連続ゴール」して、優勝決定の立役者となった。
彼は、「アジア人初、欧州プロリーグ挑戦した選手」で、しかも入団1年目だったが、優勝を決める大事な試合で活躍をした。


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【写真解説】 
ケルン時代、ヘルタ・ベルリン戦、ドリブルする、奥寺康彦。


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【写真解説】 
1980年、ケルン外国人助っ人3人の集合写真
。(試合出場は2人のみ)。
番右(選手)イングランド代表FW、トニー・ウッドコック(24才)。 
イングランド代表で、42試合16得点。
ケルンで130試合39得点。アーセナルで131試合56得点。
中央がスイス代表主将、司令塔ミッドフィルダー、ルネ・ボッテロン(25才)。
番左が、奥寺(28才)。 
一番右は、ヘダゴット監督。



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【写真解説】 
ウィング、ロジャー・ファン・ホール(ベルギー代表)。
1976年、「ドイツ史上、外国人選手、最高額の移籍金」で、ケルンに入団をした。 
先シーズン、クラブ・ブルッヘで、「UEFAカップ準優勝」をして活躍した。
ケルンが、その活躍を見て獲得をした。
彼は、入団1年目(1977年)、ドイツ杯、優勝に貢献した。
2年目(1978年)は、ケルンの2冠達成(リーグ、ドイツ杯優勝)に貢献をした。 

    

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【写真解説】 
1976年、ケルンでプレイする、ファン・ホール
(26才)。

ファン・ホールは、とても優れたウィングだったが、1979-80シーズン、第4節(1979年9月1日)、シュツットガルト戦で、大怪我をした。この後、シーズン全休した。
そして、このシーズンを最後に、ケルンを退団した。
彼は、怪我以来、全盛期のレベルを見せる事ができなくなった。彼は、日本では有名でないが、素晴らしいウィングである。
1970年代後半、奥寺と共に、2人は、ケルンの「両ウィング」で活躍をした。


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【写真解説】 
1978年。 ケルンの仲間と共に、インタビューを受ける、中央(選手)FW、ファン・ホール。
一番左(選手)が FW、ディーター・ミュラー。
一番右が MF、クルマン。



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【写真解説】 
司令塔MF、ヘアバート・ノイマン。
1977年5月、名手、ウォルフガング・オベラート(W杯1974で、ドイツ代表の司令塔を務めて優勝をした)が引退してケルンを去った。
その翌シーズン、ノイマンは、ケルンの新司令塔として活躍をした。「2冠優勝」に貢献をした。
ノイマンは、1972年、19才の時、ケルンでデビューした。そして、1980年、27才まで8年在籍した。ケルンで、250試合に出場をした。


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【写真解説】 
1978年、ドイツ代表のユニフォームを着る、ノイマン(25才)。
ドイツ代表キャップ数は、僅か1試合だった。
ノイマンは、W杯1978に出場する予定だった。しかし、膝の故障で辞退した。私は、この話は、奥寺氏がテレビ番組で話していて知りました。


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写真解説】 ケルンでプレイする、ノイマン。



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【写真解説】 
ボランチ、ハインツ・フローエ(ドイツ代表)。
フローエは、W杯1974で優勝をした。
ユーロ1976では、準優勝をした。 
W杯1978では、ベスト8で終わった。
彼は、ドイツ代表でも活躍をした、名ボランチだった。


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【写真解説】 
写真、中央奥、白いユニフォームが、フローエ(背番号10番)。
W杯1978、2次リーグ。ドイツ代表で、イタリアと対戦中。
0-0で、引き分けた。

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【写真解説】 1976年、ケルンでのフローエ。


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【写真解説】
1977-78シーズン、ドイツ・カップ優勝して、スタジアムでファンに挨拶している。
左、 MF、フローエ
(30才)。
右、 FW、ディーター・ミュラー
(24才)。


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【写真解説】
1978年、ドイツ杯トロフィーを掲げる、フローエ。(写真、2枚目)。


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【写真解説】 
ケルン時代、
右が MF、フローエ。 
左が GK、  ハラルト・シューマッハ(ドイツ代表)。


W杯1978年開催時、フランツ・ベッケンバウアーは、「フローエは、ドイツで一番優れた選手だ」と称賛した。
奥寺は当時、ドイツ最高の選手とチームメイトだった。


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【写真解説】 
右奥、 ハインツ・フローエの銅像。
フローエは、ケルンで唯一、銅像が立てられる程、人気と実力があった選手だ。

 写真一番左は、クラブ副会長(2019年、現在)、 名ゴールキーパーだったハラルト・シューマッハ


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【写真解説】
ボランチ、 ベルンハルト・クルマン。
クルマンは、1970年、ケルンで20才でプロ・デビューした。
その後、1983年、33才まで、ケルン一筋で引退した選手である。
ケルンで、341試合に出場をした。
また彼は、ドイツ代表でも活躍した。W杯1974、ユーロ1980で優勝をした。
彼は、W杯1978にも参加した。


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【写真解説】
ケルンでプレイする、MF、クルマン。


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【写真解説】 
ドイツ代表でプレイする、クルマン(写真、左)




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【写真解説】 
ボランチ、ベルント・シュスター。
シュスターは、サッカー史に残る、名選手である。「1980年代を代表する、名ミッドフィルダー」である。
彼は、19才で、既に強豪ケルンの司令塔で、「20才で、バロンドールで2位になった」という天才ミッドフィルダーである。
シュスターは、10代で活躍していたので、スペインのビッグ・クラブ・バルセロナに目を付けられた。そして、20才で移籍してしまった。
彼は、ケルンで18才でデビューしたが、僅か2年しか在籍しなかった。
ちなみに、シュスターは、バルセロナ、レアル・マドリード、アトレチコ・マドリードの「スペイン3大クラブ、全てで司令塔を務めた」という、唯一無二の選手である。


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【写真解説】
ケルンでプレイする、シュスター。
1978-79シーズン、まだ19才だったが、ケルンの司令塔を務め、
欧州チャンピオンズ・カップで、ベスト4進出」に貢献をした。
奥寺は、彼のパスを受け、攻撃をしていた。
また翌1980年は、奥寺と共に、ドイツ杯、準優勝をした。


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【写真解説】 
1980年5月13日。
中央、ドイツ代表での、シュスター(20才)。
右が クルマン(30才。ドイツ代表、MF、ケルン所属)。
左は、ドイツ代表コーチ。

1980年、ドイツ代表で、シュスターとクルマンの2人は、「ユーロ1980」で優勝をした。
シュスターは、20才で、既にドイツの司令塔だった。



【 守備陣、紹介。 】

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【写真解説】
CB、ゲルハルト・シュトラック。
彼は、長身(身長186センチ)のセンターバックだった。
1980年代前半は、ケルンの主将を務めた。また、ドイツ代表にも選ばれた。


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【写真解説】   
ケルンでプレイする、シュトラック。


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【写真解説】
CB、ローランド・ゲルバー。
2冠達成シーズン、先発で活躍をした。
リーグ戦、全34試合に先発をした。


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【写真解説】
CB、ディーター・プレスティン。
1979年、ゲルバーからポジションを奪い、センターバックのレギュラーとなった。
彼は、1976年、20才でケルンでデビューすると、1989年、32才までケルン一筋でプレイした。
プレスティンは、ケルンで、計316試合に出場をした。


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【写真解説】
右サイドバック、ハラルド・コノプカ。 
コノプカは、1971年から12年、ケルンに在籍して、451試合に出場をした。  
彼は、ケルンのレジェンドである。


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【写真解説】
左、コノプカ。 ケルンで、センタリングを上げている。


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【写真解説】
ドイツ代表でプレイする、コノプカ
(25才)。
コノプカは、W杯1978に参加して、1試合(イタリア代表戦)に出場をした。
注: 彼は、ドイツ代表キャップ数は、僅か2試合で少ない。


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【写真解説】
左サイドバック、ヘアバート・ツィマーマン。
ツィマーマンは、1974年、20才の時から、1984年、30才まで、ケルンで10シーズン、プレイした。
彼は、ケルンで、266試合に出場をした。  


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【写真解説】
ケルンでプレイする、ツィマーマン。


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【写真解説】
試合終了後、 ケルンのメンバー。

中央が、SB、 ツィマーマン(24才)。
左が  FW、奥寺康彦  (26才)。
右端奥が SB、 コノプカ (25才)。


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【写真解説】
ドイツ代表での、ツィマーマン。
ツィマーマンは、ドイツ代表で、W杯1978に出場をした。
ユーロ1980にも参加したが、試合出場はできなかった。
しかし、ケルンのチームメイト、クルマン、シュスター、シューマッハと共に、一応、優勝メンバーである。
ちなみに、彼のドイツ代表キャップ数は、14試合である。


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【写真解説】
GK、ハラルト・シューマッハ。
シューマッハは、サッカー史に残る、名ゴール・キーパーである。

彼は、ケルンで大活躍したが、ドイツ代表でも大活躍をした。
彼はドイツ代表で、 ユーロ1980優勝。 W杯1982準優勝、W杯1986準優勝。
「ユーロ1984最優秀GK」。
 「W杯1986、シルバー・ボール賞」[ 大会最優秀選手、次点の賞] 。

MF、ディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン代表)に次いで、2位という素晴らしい活躍をした。
シューマッハは、「1980年代を代表する 名ゴールキーパー」だった。


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【写真解説】 ドイツ代表での、シューマッハ。


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【写真解説】
ドイツ代表での、シューマッハ。(写真、2枚目)。


1977-78シーズン終了後、開催されたワールドカップ1978には、ケルンから、ドイツ代表に5人選ばれた。
(注: 「*」 印は、W杯1978参加選手
橙色
は、1970年代後半、代表選手。

[ ケルン 1977-78 ] (2冠達成、欧州最高得点率、2.5)。


  4-2-3-1システム。
 
            *ミュラー
 
ファン・ホール  ノイマン  奥寺康彦(26才)
 
   *クルマン      *フローエ
 
ツィマーマン シュトラック  ゲルバー *コノプカ
 
         シューマッハ 


ケルン  1978-79 ] (欧州チャンピオンズ・カップ、ベスト4)
 

4ー2-3-1 システム
 
         ミュラー
 
ファン・ホール  ノイマン  グロバツ(奥寺康彦、27才)
              
   シュスター(フローエ) クルマン
 
ツィマーマン  シュトラック  ゲルバー   コノプカ
 
         シューマッハ


[ ケルン1979-80] (得点率、欧州5位、2.2)、(ドイツ杯、準優勝)(リーグ戦、順位5位)。
 
4-4-2 システム
 
     ウッドコック (ノイマン)  ミュラー
 
     奥寺康彦(28才) リトバルスキー
 
     シュスター   クルマン
 
ツィマーマン プレスティン シュトラック コノプカ
                   
         シューマッハ   
 
【 解説 】   
このシーズンのケルンは、凄いメンバーだと思います。
奥寺氏は、「リーグ戦34試合中、28試合に先発した」。
完全に「レギュラー」と呼んで良い成績だと思います。
リーグ戦は5位でしたが、メンバーが凄いせいか、得点率は「2.2」でした。欧州5大リーグで、得点率は、5位でした(全94チーム中、5位)。


【 おまけ。準レギュラー 紹介。 】

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写真解説】 MF、ピエール・リトバルスキー。
リトバルスキーは、ドリブルが得意な選手だった。
彼は、クラブのレジェンドである。ケルンで、計14シーズンもプレイした。
リトバルスキーは、1978年、18才でケルンでデビューした。
翌1979-80シーズンは、奥寺氏と共に、レギュラーで活躍をした。
彼は、プロ駆け出しの頃、奥寺とチームメイトだった。
その後、彼は、成長して「1980年代、ケルンのエース」となった。
リトバルスキーは、ドイツ代表でも活躍して、W杯1982は、準優勝。W杯1990では、優勝をした。

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【写真解説】  
ケルンでドリブルする、リトバルスキー。


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【写真解説】 
W杯1982、準決勝フランス戦で、ドリブルするリトバルスキー(写真、右)。
彼は、W杯1982で、準優勝をした。


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写真解説】 
W杯1990でプレイする、リトバルスキー。
W杯1990で、彼は優勝をした。


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写真解説】
DF、ホルガー・ビルマ―。
ビルマーは、1977年、ケルンで19才でデビューした。
彼は、ケルンで活躍した後、
1984年、25才の時、ビッグ・クラブ、バイエルン・ミュンヘンに移籍をした。
バイエルンで、3シーズン、活躍をした。


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【写真解説】 
右ウィング。ユルゲン・グロバツ
。(元々は、右サイドハーフでミッドフィルダーです)。
グロバツは、1971年、ケルンで18才で、デビュー以来、活躍していた。
しかし、1977年、奥寺入団を機に控えが増えたので、ブレーメンにレンタル移籍した。
そして、翌1978年シーズン、ケルンに帰って来た。
彼は欧州チャンピオンズ・カップでは、奥寺とのポジション争いに勝ち、先発を務めた。
1978-79シーズン、国内リーグ戦で、グロバツと奥寺の2人は、共に、23試合先発した。同じ試合出場数だった。ちなみに、2人共、27才で、同い年だった。
しかし、欧州チャンピオンズ・カップでは、バイスバイラー監督は、グロバツの先発起用を選び、奥寺を控えにした。
奥寺氏が、欧州チャンピオンズ・カップでの出場数が、たった2試合と少ないのは、この年、グロバツとの争いに敗れたからである。
しかし、シーズン後、なぜかバイスバイラーは、グロバツを放出した。ちなみに、グロバツは、レバークーゼンに移籍した。
そして、バイスバイラー監督は、再び、1979年からは、奥寺氏をレギュラーで起用した。
バイスバイラー監督は、グロバツを評価していたので、普通、放出されるのは、奥寺氏になるはずだ。
しかし、なぜかグロバツが放出され、格下のチームへ移籍した。


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【写真解説】 
グロバツ、全身写真。
グロバツは、その後、レバークーゼンで3シーズン過ごして、30才の若さで引退した。
恐らく、怪我等が原因で、引退したと思われる。 


【 更に、おまけ。監督紹介。 】


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【写真解説】
ヘネス・バイスバイラー監督。
この素晴らしいチームを作り上げたバイスバイラー監督です。彼は、「名将」と評価されています。
1970年代、ブンデスリーガで、4回も優勝しました。
(1970、71、75、78)。
彼は、ボルシアMGの監督を務め、3回優勝をしました。
その後、1978年にケルンで優勝をしました。
  

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【写真解説】 
1977-78シーズン、ケルン2冠優勝、記念写真。
この年のケルンは、ドイツで「歴史的チーム」と評価されている。

中段右から2人目が、FW、奥寺康彦。
その隣(右端)が、FW、ディーター・ミュラー。
(2年連続リーグ得点王。ユーロ1976年大会、得点王)。
中段左から2人目が MF   クルマン、後段右端が MF フローエ。
(2人はボランチで、W杯1974年優勝メンバー)。
中段左端が 司令塔MF     ノイマン。
前列左端が     FW、  ロジャー・ファン・ホール(ベルギー代表FW)。
前列左から2人目、CB、 プレスティン。
前列中央、     GK、  シューマッハ(ドイツ代表正GK)。
前列左から4番目、CB、 ゲルバー。
前列右端が    CB  シュトラック。 
後段左端、     DF、  ツィマーマン。
後段左から2番目、 DF、  コノプカ。


以上が主力メンバーで、リーグ最多得点、86得点(34試合)、欧州最高得点率 (2.5点)で優勝した。ボルシアMGと並んで、得点率1位でした。
ケルンは、欧州5大リーグ、94チーム中、1位の得点率でした。
他国の得点率1位との比較は、以下だ。             
1978年 ケルンボルシアMG(2.5)。
R. マドリード(2.3)、モナコ(2.1)、エバートン(1.8)、ビチェンツァ(1.5)より上。
ちなみに、バルセロは(1.4)だった。


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【写真解説】 
1978年、ケルン「2冠優勝」祝賀会。
写真、左、ドイツ杯トロフィーを持ち上げているのが、FW、奥寺康彦。
 

 
 以上です。

   それでは、皆さん、さようなら。