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2019年07月


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【写真解説】 
1978年、「ケルン2冠優勝、祝賀会」 での奥寺康彦。

写真左、ドイツ杯のトロフィーを持っているのが、奥寺氏(26才)。 
写真中央、リーグ優勝トロフィーを持つ眼鏡のDF、ヘアバート・ツィマーマン(23才)の右肩後ろに顔だけ写る高齢の眼鏡の人物が、ヘネス・バイスバイラー監督(68才)。


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【写真解説】
1978年、2冠優勝して、サポーターに挨拶する奥寺とケルンのメンバー。
写真、
左奥が、奥寺康彦(日本代表FW、26才)。
 右、  額が広い選手は、ロジャー・ファン・ホール(ベルギー代表FW、27才)。 

奥寺氏、ファン・ホールの2人は、ケルンの両ウィングだった。


【ヘネス・バイスバイラー監督の慧眼。】

ヘネス・バイスバイラー監督というのは、「ダイヤの原石」を見つける才能があったそうだ。
「名選手、発掘エピソード」が幾つか残っている。
20才でバロンドール(欧州最優秀選手賞)で2位になった名ミッドフィルダー、ベルント・シュスター(ドイツ代表 & ケルン所属)が、好例だ。
バイスバイラー(当時、ケルン監督)は回って、シュスターを見つけて来たそうだ。
彼はシュスターをケルンに入団させた。
また1972年当時、ボルシアMGの監督を務めていたバイスバイラーは、アラン・シモンセン(ベイレBK所属、デンマーク代表)にオファーを出して、彼をチームに入団させた。
その5年後、1977年にバロンドールを受賞したアラン・シモンセン(デンマーク代表)は、身長165センチと小柄で、しかも足は細かった。
その為、シモンセン(20才)がボルシアMGに入団した当時、誰も将来、彼が「バロンドールを受賞する名選手になる」とは、つゆ程にも想像をしなかったそうだ。
試合中のプレイぶりは、ひょろひょろとしていて、「そんな事は、想像できない」という状態だったそうだ。
しかし、バイスバイラー監督の指導の下、成長し、5年後にはバロンドールを受賞してしまった訳である。
注: シモンセンがバロンドールを受賞した1977年時、バイスバイラーはボルシアMGの監督ではなかった。
また、レアル・マドリードで活躍した名ディフェンダー、ウリ・シュティーリケ(ドイツ代表)も、18才の時、バイスバイラー監督の勧誘を受けて、ボルシアMGに入団したそうだ。

そして、日本人、奥寺康彦である。
これもバイスバイラー監督がテストの末、奥寺を入団させた。
ドイツでは、「なんで日本人を獲得したんだ。なんで起用するんだ」という疑問があったらしい。
実際、当時の映像では、ドイツ人記者が直接、バイスバイラー監督に「なぜ日本人を起用するんだ?」と質問している映像が残っている。
これは失礼な質問だが、当時の時代背景を考えると当然かも知れない。
バイスバイラーは、欧州最高のリーグの強豪チームだったケルンに(前年にはドイツ杯を優勝していた)、プロ・リーグのない国で、尚且つ、遠く離れた日本から「無名の外国人助っ人」を入団させて起用していたのである。
奥寺は、最近まで「会社員」だった。しかも25才で、結構、いい年になっていた。18才の選手を将来性を見込んで入団させた訳ではなかった。
これは、現在のサッカー界なら考えられない話だろう。
奥寺氏以降、サッカー界でこんな移籍はあっただろうか? ないのではないか?

奥寺氏の話によると、ドイツ・メディアに限らず、ケルン入団当初のチームメイトも、
「こいつ(日本人)、サッカーできんのか?」というレベルの雰囲気だったそうだ。
それぐらい見下げられていた訳である。
しかし、バイスバイラー監督の指導の下、最終的に奥寺氏は、「ブンデスリーガを代表する外国人助っ人」になってしまった。そして、誰よりも長く生き残ってしまった。
ブンデスリーガ、最高齢助っ人(34才)」となった。しかも優勝争いする強豪チームの助っ人を務めていた。
ここでもバイスバイラーの「才能を見抜く力」が、いかに凄いモノだったかが分かる。

奥寺氏の話によると、年下の歴史的名手がケルンの1軍に上がって来た当時について、
「シュスターもリトバルスキーも最初はそんなうまくなかった。でも、数年経つと、凄い選手になっていた」
と語っている。
私は、「シュスターとリトバルスキーが上手くなかったなんてわけないでしょう。元から凄かったんじゃないの?」
と疑問を感じた。
しかし、それ程に、バイスバイラーは、「ダイヤの原石」のように他の人間ではよく気づかない才能について、きちんと見抜く事ができた。そして、一流選手のレベルまで伸ばす指導力があった監督だそうだ。


【 30代で、強豪クラブの助っ人だった奥寺氏の凄さ。実はアジア人では、奥寺氏だけだ。 】

最近、岡崎慎司(33才) が、マラガ(スペイン2部)に移籍が決まった。
奥寺康彦氏は、34才でブンデスリーガ1部、ブレーメンで優勝争いをしていた。もう少しで優勝する所であった。
岡崎を引き合いに出し比較するのも何だが、日本人サッカー選手で、奥寺氏ほど高齢になっても余裕でトップ・レベルで活躍していた選手はいないだろう。
なぜか日本人は、その点に関して、奥寺氏を称賛する事がないように思う。
日本人は、長谷部誠のようにレベル低下したブンデスリーガ(欧州3位、4位のリーグ)の中堅クラブ辺りでプレイするのが限界だろう。
長谷部は欧州最高のリーグや、欧州2位リーグ辺りの優勝争いするチームの主力ではない。
日本人は、30才を過ぎれば、香川真司のようにトルコに行ったり、中田英寿のように30才前で通用しなくなり引退というのが常識だろう。
韓国人もパク・チソンは、マンチェスター・ユナイテッドでは、半分くらいしか試合に出れず、30才になると、全く通用しなくなった。退団した。その後、彼は、他のクラブに移籍しても活躍できず、33才で引退した。
韓国では、1980年代、名フォワード、チャ・ボングンが居た。彼は、レバークーゼンという中堅クラブに居た。
チャ・ボングンは、「アジア史上最高の選手」として有名である。そして、「UEFAカップに2回優勝」した事でも有名である。
彼は、35才の時、レバークーゼンで「UEFAカップ1988年」に優勝した。
しかし、レバークーゼンは、国内リーグで優勝争いする力はなかった。
大体、彼の所属チームは毎年、6~10位ぐらいの成績で終っていた。
「チャ・ボングンは10年もドイツに居たが、ブンデスリーガで優勝争いをした経験は一度もなく、キャリアを終えた」。
(注: ドイツ杯では1回、優勝した)。
一方、奥寺氏の所属チームは、「欧州9年中、5回」は優勝争いを演じた。
2部時代ヘルタでも、奥寺康彦は優勝争いをした。だから、正確に書くと、奥寺氏は、「欧州9年中6年」は、優勝争いに加わった。
しかも 奥寺氏は、「ブンデスリーガで6位より下のシーズンがないのだ」。
凄過ぎる。
優勝争いしなかった年でも、5位か6位という好成績で終えていたのだ。
これは凄い話である。
 
つまり、「30才を超して、優勝争いする強豪クラブで主力で活躍していたアジア人」というのは、今まで奥寺康彦氏以外、誰も居ないという事だ。
日本人は、ほぼ100%、この事実を理解していないだろう。
 
私は、これから先も、奥寺氏のような選手は、恐らく出て来ないと思う。
34才で欧州のトップ・レベルで助っ人をこなす」というのは難しい事である。
つまり、奥寺氏の実力は、際立っているという事だ。

 それでは、皆さん、さようなら。

【 奥寺康彦氏のドイツ時代のシーズンごとの布陣を紹介。】
          &
【 奥寺、欧州チャンピオンズカップ出場減少の理由。】


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【写真解説】 
1978年のケルン、メンバー。 右から2人目が奥寺康彦(26才)。

 
一番右端が、ディーター・ミュラー(24才。センターフォワード。ドイツ代表)。
2年連続  [1977、78年]、ブンデスリーガ得点王。 ユーロ1976大会、得点王 。

右から2人目が    奥寺康彦(26才。ウィング。日本代表)。
右から3人目が ロジャー・ファン・ホール(28才。ウィング。ベルギー代表)。
右から4人目が ハラルド・コノプカ(25才。右サイドバック)。
右から5人目が ヘアバート・ツィマーマン(23才。左サイドバック。ドイツ代表)。
右から6人目が ローランド・ゲルバー(27才。CB)。

一番左端が ハインツ・フローエ  (30才。守備的MF、ドイツ代表)。
 
左から2人目が ハラルト・シューマッハ (24才。 GK、 ドイツ代表)。
ドイツ代表、GK。  ユーロ1980優勝。 W杯1982準優勝、W杯1986準優勝。 
 「ユーロ1984最優秀GK」。
 「W杯1986、シルバー・ボール賞」大会最優秀選手の次点だった。
   MF、ディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン代表)に次いで、2位だった。

左から3人目が    ゲルト・シュトラック (22才。 CB)。
左から4人目が  ベルンハルト・クルマン (28才。 守備的MF、ドイツ代表)。
左から5人目が  ヘアバート・ノイマン(24才。 司令塔MF)。


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【写真解説】  
上の写真を左方向から撮ったモノ。
ドイツ・人気サッカー誌 『キッカー』の付録ポスター。
右から2人目、奥寺康彦 (26才。 ウィング)。

一番左から順に、DM フローエ、GK シューマッハ、CB シュトラック、DM クルマン、
司令塔ノイマン、CBゲルバー、左SB ツィマーマン、右SB コノプカ、WG ファン・ホール、WG 奥寺、 CF ディーター・ミュラー。


ケルン  1978-79 ] (欧州チャンピオンズ・カップ、ベスト4)。

 
4ー2-3-1 システム
 
         ミュラー
 
ファン・ホール  ノイマン  グロバツ(奥寺康彦、27才)
              
   シュスター(フローエ) クルマン
 
ツィマーマン シュトラック  ゲルバー コノプカ
 
         シューマッハ

【解説】 
奥寺氏は、MF、ユルゲン・グロバツとのポジション争いに敗れ、
欧州チャンピオンズ・カップ出場機会を大きく失った。 
しかし、なぜかシーズン終了後、グロバツは放出された。
 
奥寺氏は、1978-79シーズンは、国内リーグでは34試合中、23試合に先発した。
昨年、2冠達成シーズンで、奥寺氏はレギュラーで活躍した。しかし、この年は、出場機会が減った。
理由は、この年、加入した右サイドハーフ(右ウィングもできる)、MFユルゲン・グロバツ(27才。奥寺氏と同い年)とポジション争いをしたからである。
グロバツは、リーグ戦では、奥寺氏と同じく「23試合」に先発した。
しかし、ヘネス・バイスバイラー監督は、欧州チャンピオンズ・カップでは、グロバツだけを先発起用する事を選んだ。奥寺氏を控えにした。
その結果、欧州チャンピオンズ・カップで、奥寺氏は「先発ゼロで、途中出場2回」で終った。
しかし、準決勝で1ゴールを決めた。これは、「アジア人、初ゴール」だった。
バイスバイラー監督の意図は分からない。
グロバツの方がよりミッドフィルダー・タイプである。一方、奥寺氏の方がフォワード的である。奥寺氏の方が得点能力が高い。
グロバツは、リーグ戦で、計29試合(6試合途中出場)をして、たった2得点のみだった。
私は、欧州チャンピオンズ・カップという大会の特性からグロバツの方を起用したのか、何が理由でグロバツが選ばれたのか分からない。
過去の話なので、奥寺氏に質問するぐらいしかもう知る手掛かりはない。
とにかく、バイスバイラーはリーグ戦と違い、欧州チャンピオンズカップでは、グロバツだけを先発で起用して、奥寺氏は最後まで「控え扱い」にした。
そして、これから先、更に意味不明なのは、バイスバイラーは、グロバツを奥寺氏より重宝したにも関わらず、シーズン後、彼を放出したのである。
グロバツは、レバークーゼンへ移籍した。
グロバツを奥寺氏より評価していたならば、普通、放出されるのは奥寺氏の方だろう。更に、この2人は同い年なのだ。奥寺氏がグロバツよりかなり若く、将来性が大きいという訳ではなかったのである。
しかし、グロバツは、ケルンより格下のレバークーゼンへ放出された。
私には、意味が分からない。
その後、グロバツは、レバークーゼンでそれ程、活躍できず、3年後、30才で引退をした。
30才で引退と言うのは、怪我でもしたのだろうか? 分からない。
私の結論としては、バイスバイラー監督が、「欧州チャンピオンズ・カップで、奥寺氏を先発起用しなかった事」は、非常に残念である。
グロバツが出場するより、奥寺氏が先発した方が、得点可能性は大きかったのではと思う。


[ ケルン、1979-80] (得点率、欧州5位、2.2)、(ドイツ杯、準優勝)(リーグ戦、順位5位)。
 
4-4-2 システム
 
   ウッドコック (ノイマン)   ミュラー
 
   奥寺康彦(28才)  リトバルスキー
 
   シュスター    クルマン
 
ツィマーマン プレスティン シュトラック コノプカ
                   
        シューマッハ   
 
【解説】   
このシーズンのケルンは、凄いメンバーだと思いますね。
奥寺氏は、「リーグ戦34試合中、28試合に先発しました」。完全に「レギュラー」と呼んで良い成績だったと思います。
ケルンは、リーグ戦は5位でしたが、メンバーが凄いせいか得点率は「2.2」で、欧州5大リーグで、得点率5位でした(全94チーム中、5位)。

  

[ ブレーメン、1981-82 ] (得点率、欧州11位、1.8)(国内リーグ戦、5位)。
 
 
4-3-1-2 システム
 
 
 コステデ   ラインダース
            
      マイヤー
                     
 ブラハト      カンプ
                                      
       メルマン
 
オッテン グルーバー フィヒテル 奥寺康彦(30才)
 
      ブルデンスキー


【解説】 
奥寺氏は、1980-81シーズン、2部ヘルタ・ベルリンでのレンタル移籍期間が終了後、1部ブレーメンに入団しました。
新チーム1年目では、右サイドバックを務めた。
奥寺氏は、ヘルタ時代、初めてディフェンダーを務めたそうですが、昨シーズンから引き続き、ディフェンダーを務めました。
  
 
[ ブレーメン、1982-83 ] (得点率、欧州4位、2.2)(リーグ戦、順位2位)。
 
3-5-2 システムの場合。
 
  フェラー     ラインダース
        マイヤー  
 
オッテン 奥寺康彦(31才) メルマン シドゥカ (シャーフ)
 
  グルーバー フィヒテル  シグマン
 
        ブルデンスキー
 
 
4ー4―2 システムの場合。
 
  フェラー      ラインダース
 
        マイヤー
  ブラハト       カンプ
              
       メルマン(グルーバー)
 
奥寺康彦(31才)フィヒテル シグマン オッテン
    
       ブルデンスキー



4ー4ー2 システムの場合。
 
 フェラー       ラインダース
 
      マイヤー
 ブラハト      奥寺康彦(31才)
              
      メルマン
 
オッテン フィヒテル グルーバー シャーフ
    
      ブルデンスキー





【解説】 
この年、ブレーメンは、永遠のライバル、ハンブルガーSVと歴史に残る、優勝争いを演じました。
両チーム、勝ち点1位で、終了しました。しかし、ブレーメンは得失点差で8点差上回られ、2位で終りました。
奥寺氏とブレーメン・サポーターにとっては、悔し過ぎるシーズンだったと思われます。
  
 
 
[ ブレーメン、1983-84 ] (得点率、欧州3位、2.3)(リーグ戦、順位5位)
 
 
4-3-2-1システム
 
 フェラー    ラインダース
 
      マイヤー
 
奥寺康彦(32才) シドゥカ
      メルマン
 
オッテン グルーバー ペッツァイ シャーフ
 
      ブルデンスキー
 

【解説】 この年から、奥寺氏は、完全に左サイドハーフに戻って来たなと思います。


[ ブレーメン、1984-85 ] (得点率、欧州1位、2.6)(リーグ戦、順位2位)。
 
 
3-5-2 システムの場合
 
  フェラー     ラインダース
       マイヤー            
  
ヘアマン メルマン  シドゥカ  シャーフ
     

 奥寺康彦(33才)ペッツァイ オッテン

 
      ブルデンスキー
        
 
【解説】  
奥寺氏は、チームが3-5-2システムで戦う場合、このようにセンターバックの1人としてプレイする事もあった。


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【写真解説】  
1982-83 シーズン、ブレーメン時代の奥寺氏。
写真、右奥が  奥寺氏(30才)。
中央奥が  リゴベルト・グルーバー(CB、21才)。
中央前が  ノーバート・シグマン(DF、29才)。

試合後、勝利した後だろうか? 奥寺氏、センターバックのリゴベルト・グルーバーと抱擁して、勝利を祝っているようだ。

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【写真解説】
1982-83シーズンのブレーメン・メンバー。
写真、一番左が  MF、奥寺康彦(30才)。
左から2番目で奥に居るのが、DF、  ジョニー・オッテン (22才)。
左から3番目が CB、 リゴベルト・グルーバー (21才)。
左から4番目で奥に居るのが、FW、  ルディー・フェラー (22才)[ この年、得点王 ] 。
一番右が MF、 ベノ・メルマン (主将、29才)彼はボランチです。
                       
ブレーメンは、若い選手が多かったが、リーグ戦で2位になりました。
凄いですね。

1982-83シーズン、ブレーメンは、勝ち点は1位だったが、宿敵ハンブルガーに得失点差で8差上回られ、惜しくも優勝を逃した。


【 奥寺康彦、ポジションの変遷。 】

奥寺氏は、
フォワードからディフェンダーまでこなした。しかも、左右両サイドをこなす」という万能性だった。

高校時代   :センターフォワード
日本社会人時代  :左ウィング
ケルン    :1~2年目(1978、79)   ウィング。
       :3年目 (1980) 左サイドハーフ。
ヘルタ ・ベルリン  :1981年  右サイドバック、ボランチ、サイドハーフ。
ブレーメン:1年目 (1982) 右サイドバック。
     :2~5年目(1983-86)   両サイドハーフ。たまにサイドバック と センターバック。

1985年頃、奥寺氏は、ブレーメンのディフェンダー陣で、怪我人が出た場合、 代わりにディフェンダーを務めた。
1985-86シーズンは、左サイドバック、ジョニー・オッテンが、怪我の為、リーグ前半戦、全休した。
その為、奥寺氏が、代わりにディフェンダーを務める事があった。
この期間、若手DF、マティアス・ルランダーが出場する時は、通常通りミッドフィルダーだった。しかし、そうでない場合は、奥寺氏がサイドバックを務めた。
後半戦は、オッテンが復帰したので、奥寺氏は、本来のミッドフィルダーを務めた。
また、チームが、3-5-2システムで戦う時、準レギュラーMF、ギュンター・ヘアマンが起用される場合があった。ヘアマンは、ウィング、ウィングバックのポジションの選手だった。その時、奥寺氏は、センターバックを務めた。
つまり、奥寺氏は、本来、ミッドフィルダーであるが、監督からサイドバック、センターバックを頼まれると、世界トップ・レベルの世界で、その仕事を簡単にこなしていたのである。
そして、チームは、毎年、優勝争いをしていたのである。。
奥寺氏は、本当に凄い選手である。


 それでは、皆さん、さようなら。


【「得点率欧州1位」だった奥寺康彦の居た「1985-86シーズン、ザ・高齢者軍団、ブレーメン」。】


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【写真解説】 ブレーメン時代、奥寺康彦。

奥寺康彦の居た1985-86シーズンのブレーメンは、「得点率、欧州1位」だった。
昨シーズンも欧州1位だったので、ブレーメンは「2年連続で得点率、欧州1位」となった。
1980年代中頃、ブレーメンは、欧州、世界で最も攻撃力のあるチームの1つ
だった。
そこに日本人、奥寺康彦が居たのである。
しかし、私は、その凄さを日本人は理解していないと思います。
注: 今回のブログで、私が取り上げている「得点率」というのは、「国内リーグ戦の得点率」です。それが欧州1位でした。
この得点率には、国内カップ戦の試合は含めていません。そして、国際大会の試合も含めていません。

   


[ブレーメン、1985-86]  欧州最高得点率 2.44(83得点34試合)。
ブレーメンは、レアル・マドリードと並んで得点率が1位だった。
このチームは、実は、かなり高齢者チームだった。先発レギュラーの平均年齢は、29.8だった。
先発の平均年齢は、ほとんど30才だった訳だ。


4-3-1-2 システム [ 注: 橙色の選手は、30才以上の選手 ]。
 
ノイバート     ブルグスミュラー(36才)フェラー) 
         マイヤー
 
 奥寺康彦(34才)    ジドゥカ(31才)
 
         ボタバ(30才)
 
オッテン ペッツァイ(31才) クツォップ(31才)  シャーフ
(ルランダー)
         ブルデンスキー(35才)
 
 
1985-86シーズン、奥寺氏は34才と高齢だったが、「リーグ戦、34試合中、30試合に先発」をした。
他に途中出場が3試合あった。合計すると「全34試合中、33試合に出場した」。
奥寺は、CB、ミヒャエル・クツォップ(31才)の「全34試合出場」に次ぎ、チーム2位の試合出場数だった。
奥寺氏は、「34才で、試合出場チーム2位だった」のは凄い。


【 1986年、高齢者軍団 ブレーメン、『 欧州最高得点率 』を達成した。】

次に、当時のブレーメンの「年齢構成」について説明をします。
1986年時、奥寺氏(34才) は、ブレーメンで3番目に高齢だった。
奥寺氏は、
FW、マンフレート・ブルグスミュラー
(36才: ブンデスリーガ、得点数、歴代4位、213得点の名フォワード)、
GK、ディーター・ブルデンスキー  
(35才: ブンデスリーガ、試合出場数、歴代15位、478試合の名ゴールキーパー)
に次ぎ、チームで3番目にベテランだった。

1985-86シーズン、新加入選手、FW、ブルグスミュラー(35才)は、エースFW、ルディー・フェラーの控えだった。彼は、開幕14試合過ぎても「試合出場、ゼロ」だった。
しかし、フェラー故障離脱により、出場機会が巡って来た。
ブルグスミュラーは、第15節(1985年11月20日)から初先発すると、チーム最高齢(この時、35才)だったが、最終節まで20試合連続で先発した。途中交代はゼロだった。
注: 彼は、初先発の1カ月後、12月22日に誕生日を迎え、36才になった。
そして、彼は、13得点(20試合)を挙げ、大活躍してシーズンを終えた。
ブルグスミュラーは、2トップでコンビを組んだFW、フランク・ノイバート 、20得点(32試合)に次ぎ、ゴール数は、チーム2位だった。

この年のブレーメンは、「先発レギュラー11人の内、7人が30才以上」でした。
30才以上のレギュラー選手は、
MF、奥寺康彦(34才)、 FW、 ブルグスミュラー (36才)、
GK、 ブルデンスキー (35才)、CB、 ペッツァイ(31才)、
MF、ジドゥカ(31才)、 CB、クツォップ(31才)、
MF、ボタバ(30才)でした。
 
他のレギュラーの選手と、控え選手だけど先発出場する時もしばしばあった選手の年齢は、
MF、メルマン (32才)、MF、マイヤー(27才)、DF、 シャーフ (25才)、
DF、  オッテン (25才)、MF、ボルター(23才)、FW、ノイバート(23才)、
FW、 フェラー (26才)、 DF、  ルランダー(22才)でした。

その他に、控え選手だった、MF、ヘアマン(26才)、FW、オルデネビッツ(21才)が居ました。この2人は、途中出場を含めて、計20試合ぐらい試合出場をしました。
ブレーメンには、若い選手が、左サイドバックの控え選手、22才のルランダーと控えFW、21才のオルデネビッツしか居ません。
私は、中々、ここまで「高齢者チーム」というのは、珍しいのではないかと思います。
とにかく、奥寺氏は34才で高齢でしたが、ドイツ最終年でも計33試合も出場して余裕で通用していた。
更に、所属チームのブレーメンは、奥寺氏以外にもベテラン選手が多く、「高齢者チーム」でした。しかし、「欧州最高得点率」を達成したという事です。
現在、高齢者の多い日本にとって「希望のチーム、希望の湧く話」ですね。
サッカー史で、こんな高齢者チームが「最高得点率を出した」ケースってあるんですかね? 私は、珍しい話だと思いますよ。
日本人は、1985-86シーズンのブレーメンを見習って頂きたいと思います。
特にブルグスミュラーね。36才で、13得点(20試合)は凄いね。
この年、ブルグスミュラーは、得点ランキングは12位でした。
得点王は、ステファン・クンツ(ボーフム所属、23才)でした。彼の成績は、22得点(34試合)でした。
得点率は、ブルグスミュラー0.65。 クンツ、0.647です。
ブルグスミュラー(36才)は、得点王の選手より高い得点率でした。
この年、ブルグスミュラーは、シーズン開幕から先発していたら、得点王を取れていたかもしれませんね。

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【写真解説】
「高齢者の希望」こと、1986年、ブレーメンFW、マンフレート・ブルグスミュラー(当時、36才)。


1985-86シーズン、ブレーメンは、
主力2人が(FW、ルディー・フェラー と 左SB、ジョニー・オッテン)、長期離脱した。
それにも関わらず、「欧州最高得点率のチーム」となった。
凄い。
ブレーメンは昨シーズン、1984-85シーズンも「欧州最高得点率チーム」だった。
しかも得点率は2.6で、「断トツで1位」だった。
つまり、ブレーメンは、この年、2人が故障してなければ、「断トツで、2年連続で欧州最高得点率のチーム」となっていた可能性が高かった。
レアル・マドリードと並んで1位になるという事などなかった。
ちなみに当時のレアル・マドリードには、
FW、ウーゴ・サンチェス (メキシコ代表)、ホルヘ・バルダーノ(アルゼンチン代表)、
FW、エミリオ・ブトラゲーニョ (スペイン代表)、
FW、サンティジャナ(スペイン代表)、MF、ミチェル(スペイン代表)、
MF、マルティン・バスケス (スペイン代表)等が居た。
1986年の「UEFAリーグ・ランキング」 は、
ブンデスリーガは2位です。スペイン・リーガ・エスパニョーラは、欧州5位だった。
前年、1985年ランキングは、ブンデスは3位です。スペインはなんと欧州8位でした。
1980年代中頃、スペイン・リーグは「レベルが低いリーグ」でした。
奥寺さんの居たドイツの方が、遥かにレベルが高いリーグだったんです。しかし、日本人はそこを分かっていません。
ちなみに総括して書くと、
1985年、欧州1位リーグ、イングランド 。2位、セリエA、3位、ブンデス。
1986年、欧州1位リーグ、セリエA。2位、ブンデス、3位、ロシア・リーグ
でした。

ちょっと話を脱線します。
イングランド・リーグは、「1985年、1位」でしたが、翌1986年は、一気に6位まで落ちました。
欧州の国際大会での成績が悪いと、順位は落ちます。
UEFAリーグ・ランキングは、
「『欧州の国際大会の過去5年間の成績』を元に、作成されているリーグ・ランキング」

です。
しかし、このイングランドの大下落は、特別な理由からでした。
その理由は、
1985年、イングランドのクラブ・チーム、「リバプール」 のサポーターは、国際大会の会場で暴力事件を起こしました。
それは、1985年、ベルギー・ヘイゼルで開催された、欧州チャンピオンズ・カップ決勝、「リバプール 対 ユベントス」戦です。
この暴力事件は、結果的に39人の死者を出す、大事故を引き起こしました。
それにより、翌1985-86シーズンから、イングランド・クラブは、「国際大会、参加禁止」という決定を下されたのです。
翌1986年のリーグ・ランキングでイングランドのクラブは国際大会への参加が禁止されたので、ランキングのポイントは付かず、ただ順位が大きく下落した訳です。
イングランド・クラブは、この事件により、UEFA(欧州サッカー連盟)から、1990年まで国際大会に5年間も参加禁止となった。そして、サポーターが問題を起こしたリバプールには更に1年長い、6年間も参加禁止という決定が下りました。
この結果、イングランド・リーグのリーグ・ランキングは毎年、下降し続け、1989年には、欧州25位となりました。
そして、5年後の1990年には、「計測不可能」、「ランキング圏外」という状態になりました。

 

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【写真解説】 
1986年、ブレーメンの選手達。
「30才以上ばかりが顔を揃える、高齢者軍団」だった。しかし、破壊力抜群の攻撃力で「欧州最高得点率」を叩き出した。
凄いチームであった。
しかも、「2年連続、得点率、欧州1位」だった。
       

一番左から、ディーター・ブルデンスキー (36才、黄色い服のゴールキーパー)。
左から2番目、ヴォルフガング・ジドゥカ(31才、右サイドハーフ)。
左から3番目(少し奥)ブルーノ・ペッツァイ(31才、CB)。
左から4番目、ベノ・メルマン(32才、ボランチ、主将)。 
一番右端、奥が フランク・ノイバート(23才、フォワード)。

話を元に戻します。
繰り返しになりますが、1985-86シーズン、ブレーメンは、
「長期間、エース・ストライカーのルディー・フェラーを失うトラブル」に見舞われたが、「欧州1位の得点率(欧州5大リーグ、全94チーム中、1位)になった。
これは、かなり凄い話だと思う。
ブレーメンは、バイエルンを僅か1得点上回り、「リーグ最多得点チーム」となった。「欧州最高得点率」を達成した。
しかし、私は、ルディー・フェラーが怪我してなければ、ブレーメンの得点数は、更に10点以上は増えていただろうと思う。
ブレーメンの攻撃力は、本当はバイエルンより数段上だった。そして、本来ならば、1985-86シーズンは優勝できたはずだった。
このシーズン、ブレーメンは、バイエルン・ミュンヘンとの優勝争いに敗れ、「リーグ戦、2位」でシーズンを終えた。
この「2位」が更に悔しく思わされるのは、第16節、なんとライバル・バイエルン戦で、エース・ストライカーのルディー・フェラーは、敵CB、アウンゲンターラーのファウルによって負傷したのだ。
これにより、フェラーは、5カ月間も戦列を離脱した。16試合、連続欠場をした。
本当に、ルディー・フェラーの負傷は、残念な話である。
ブレーメンは、ライバル・チームにエースを潰されて優勝を逃したという訳である。
もう一人の長期離脱者、左SBのジョニー・オッテンは、故障の為、開幕戦に間に合わず、前半戦は「全欠場」 した。そして、後半戦開始、第20節(1986年1月25日)から、ようやく戦列に復帰した。
1985-86シーズン、ブレーメンは、このように主力2人を長期間、欠いたにも関わらず、優勝争いをした。ブレーメンは、エース・ストライカーを長期間、欠いていた。それでも、最終的に「リーグ戦、2位」で終えた。
しかし、私は、奥寺氏とブレーメン・サポーターにとっては、この年は、理不尽さを感じさせられるシーズンだったろうと思う。

ブレーメンは、勝ち点は1位だった。しかし、バイエルンに得失点差、9差上回られ、2位で終えた。
ブレーメンは、第14節(1985年11月4日)に1位に躍り出た。その後、最終節、第34節(1986年4月26日)まで、ずっと勝ち点は1位だった。

 

[ 1985-86シーズン、ドイツ・ブンデスリーガ、上位チームの順位。 ]
ブレーメンは、「勝ち点、49」で、1位バイエルンと同じであった。しかし、得失点差で9差上回られ、2位に終わった。
当時、「勝ち点は、勝利が2、引き分けが1、敗戦が0」でした。
 
         勝ち点            得点  失点                                                                     
1位 バイエルン 49 34試合:21勝7分6敗 82 31
2位 ブレーメン 49 34試合:20勝9分5敗 83 41
3位 ユルティンゲン 45 34試合:19勝7分8敗 63 60
4位 ボルシアMG   42   34試合:15勝12分7敗    65 51
5位 シュツットガルト  41   34試合:17勝7分10敗    69   45

奥寺康彦は、当時34才だった。
「34才で、『 欧州最高得点率を叩き出す、素晴らしい攻撃力を持つチーム 』に居た。先発してバリバリ活躍していた」という事です。
私は、これは、本当に凄いと思う。
奥寺氏は、主にフォワード陣にクロスを供給して、チームの得点増に貢献していました。
 
 

 それでは、皆さん、さようなら。
 

【奥寺康彦、ブレーメンで、UEFAカップに挑戦。】

奥寺はブレーメン時代、UEFAカップに4回出場したが国際大会の成績は良くなかった。
 
奥寺氏のUEFAカップ挑戦について説明する前に、「昔のUEFAカップの大会規定」 についてご説明しておきたい。
なぜなら現在と大きく違うからである。
昔のUEFA杯は「リーグ戦順位、2~5位チーム参加だった」ので、今より遙かにレベルが高かった。
それもブレーメンが早期敗退した理由の1つだとは思うが、主因ではない。
主因については後述する。
ちなみにブレーメンは、

ベスト16が1回が最高で、2回戦で1度敗退、1回戦で2度も敗退した。
昔は(1955~1996年まで、41年間)、欧州チャンピオンズ・カップは、
国内リーグ戦、優勝チーム1チームのみが、参加資格」だった。
そして、国内リーグ戦、2~5位がUEFAカップに参加した。
1997年以降の「UEFAカップ」と、2009年から開始された現在の「UEFAヨーロッパ・リーグ」は、
欧州5大リーグでは、リーグ戦、5~6位チーム参加の大会」となった。
だからかなりレベルが低い。奥寺の時代とは、かなり内容の違う大会である。
「小野伸二がUEFAカップ優勝した(2001年)」、
「長谷部誠がヨーロッパ・リーグ、ベスト4進出(2018年)」等、
日本のマスコミは快挙としているが、私は、奥寺の時代のUEFAカップと同じ大会だと思うのは間違いではないかと思う。

奥寺の居たブレーメンは、ベスト16が1回が最高で、2回戦で1度敗退、1回戦で2度も敗退した。
1982-83年、ダンディー ・ユナイテッド(R16)、
1983-84年、ロコモティーブ ・ライプツィヒ(2回戦)、
1984-85年 アンデルレヒト(1回戦)、
1985-86年、チェルノモレツ ・ オデッサ(1回戦)
に敗れた。
ブレーメンは「欧州最高の得点率」、「バイエルンに直接対決で、勝ち越していた」、
「ドイツで2位3回」という強豪だったが、国際大会では格下に足を掬われ、毎年、予想外の敗退を繰り返した。

ブレーメンは、早期敗退ばかりだったが、奥寺は、全4回出場して、毎年、不運に見舞われていた。
何だか、奥寺が所属していた故にブレーメンの肩を持ち、私が言い訳がましい事を言っているように聞こえるかも知れないが、これは事実なのである。

1982-83シーズン、UEFAカップで、
ブレーメンは、ラウンド16、(1982年、11月23日、12月7日開催)で、
ダンディー・ユナイッテド(スコットランド) に敗れ、大会敗退した。
ブレーメンは、第1戦、敵地で1-2で敗れ、第2戦、ホームで1-1で引き分け、2試合合計、1敗1分けで敗退した。
この時、同チームでFW、ルディー・フェラーに次ぐ、エース級FW、ウーベ・ラインダースを欠いていた。
ラインダースは、「W杯1982準優勝チームのメンバー」の実力者だった。
この頃、フェラーとラインダースが、ブレーメンの2トップだった。
ダンディー・ユナイテッド戦の2カ月前、
ラインダースは、国内リーグ戦、第6節、「ケルン 対 ブレーメン」戦(1982年9月18日)で、
前半34分に負傷し、交代した。
この後、彼は、翌年1983年3月1日、第20節、「ボルシア 対 ブレーメン」戦まで、半年近くも長期離脱した。
その為、「UEFAカップ、ラウンド16」(1982年、11月23日、12月7日開催)の試合に出場できなかった。
つまり、ブレーメンは主力FWを失うというトラブルに見舞われていたのだ。

翌1983-84シーズンは、2回戦で、ロコモティーブ・ライプツィヒ(東ドイツ)に敗れ、大会敗退した。
この時は、第1戦、敵地で 0-1で敗れ、第2戦、ホームで1-1で引き分け、敗退した。
ホームの第2試合で、ブレーメンは、攻撃的に行き、勝利したい所だった。
しかし、第2戦で、前半36分、ボランチのベノ・メルマンが太腿裏を故障して、負傷退場した(恐らく肉離れ)。
司令塔の才能も有する、チームの核、メルマンが抜けた影響は大きく、ブレーメンは挽回できず、第2戦を1-1で終え、大会敗退した。

1984-85シーズンは、UEFAカップ1回戦、アンデルレヒト(ベルギーのビッグ・クラブ)に敗れ、大会敗退した。
この対戦では、ブレーメンは敵地で0-1で敗れ、ホームで2-1で勝利した。
惜しくも「アウェーでの得点数の差」で負けた。
しかし、第2戦、ブレーメンは、途中まで2-0で勝っていた。
そのまま行けば2試合合計で、勝利だった。
しかし、後半18分、MF、ウォルフガンク・ジドゥカが、オウン・ゴールし、2-1となってしまった。
そのまま試合終了し、「アウェー得点数の差」で負け、ブレーメンは大会敗退した。
ちなみに、対戦相手のアンデルレヒトには、名手、エンツォ・シーフォ(ベルギー代表MF)が居た。

1985-86シーズン、ブレーメンは、UEFAカップ1回戦で、再び敗退した。
チェルノモレツ・オデッサ(ウクライナ)に敗れた。
第1戦、1985年9月18日、敵地で、ブレーメンは、1-2で敗戦した。
第2戦、1985年10月2日、ホームでの試合で、挽回、逆転勝利したい所だった。
しかし、5日前、国内リーグ戦、1985年9月28日、
「ブンデスリーガ、第9節、ボーフム 対 ブレーメン戦」で、エースFW、ルディー・フェラーが、ボーフムのMF、フランク・ベナテリから酷いファウルを受け、前半38分で、負傷退場した。この後、フェラーは、約2カ月間、戦列を離脱した。
チームのエースで、一番の得点源を失った事は、ブレーメンにとって甚大な被害だった。
5日後のUEFAカップ1回戦、第2戦、「ブレーメン 対 オデッサ」 戦で、ブレーメンはフェラーを欠いた状態で戦った。
その結果、ブレーメンは3対2で勝利した。しかし、「2試合合計の得点失点差」でオデッサに上回られ、1回戦で敗退した。
やはり、この試合、ブレーメンにエースFW、フェラーが居なかった事は、どう考えても影響していただろう。
失礼だが、私は、フェラーが居れば、ブレーメンは知名度の低いオデッサのようなクラブは容易に倒せた。1回戦突破は、できただろうと思う。

結果だけ見ると、ブレーメンのUEFAカップでの成績は酷い。早期敗退ばかりだ。
しかし、ブレーメンは毎年、主力が試合中や試合直前に故障離脱したり、試合中、オウン・ゴールをしたりと、怪我のトラブルや不運に見舞われていた訳だ。
また、毎年、僅差 又は、「1勝1敗、同得点で『アウェー得点数の差』 で敗れる」等、非常に接戦の末、敗れている。
1984-85年、アンデルレヒト(ベルギー)、1985-86年、オデッサ(ウクライナ)に1回戦で敗れた年は、共に「1勝1敗で、同得点で『アウェー得点数の差』で敗れている」。
 
日本人は、当時のブレーメンの成績は、「スコアの記録」ぐらいしか目にしない。
日本に居住していて、それ以上の内容を外部から伝えられて見聞する事は、まずない。
日本のマスコミが、当時のブレーメンの戦力事情、試合内容について詳細に説明するという事は、この40年で一切ない。
その為、永遠に日本国民には、当時、何が起きていたかが伝えられていない状態なわけだ。

故に、私は、日本人は、
「奥寺の居た時代、ブレーメンは国際舞台では通用しなかった」と低評価をして結論している者が非常に多いと感じる。
これは、なんとも嘆かわしく、酷い話である。
ブレーメンは、ドイツ・ブンデスリーガで「2位、3回」という好成績で、また「得点率、2年連続、欧州1位(欧州5大リーグ94チーム中、1位)」という極めて優れた攻撃力だった。
だから、弱いはずがなかろう。
私が、今回、書いたように、当時のブレーメンは、試合中、主力が負傷退場したり、試合直前にエースFWが長期離脱したり、勝っていたけどオウン・ゴールをしてしまったり等、毎年、怪我トラブル・不運に見舞われ、結果を残せなかったのである。
トーナメントの大会で、それらが起きたので挽回できなかったという訳である。
しかし、リーグ戦だと長丁場なので、何とか挽回が効き、ブレーメンは毎年、好成績だったという訳だ。
私のブログの読者の中に、当時のブレーメンを見下している日本人が居るならば、このような事実を知って、少しは考えを改めて頂きたいと思う。


私は、奥寺のUEFAカップの試合を幾つか見たが、彼のプレイは及第点で、得点機を演出していた。  
チーム成績は、悪い結果に終わったが、奥寺氏のパフォーマンスは、さすが助っ人と思う内容だった。


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【写真解説】
ブレーメン時代の奥寺康彦。



 それでは、皆さん、さようなら。

【 1985-86シーズン、ルディー・フェラーは、ファウルを受けて、2回、長期離脱をした。】


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【写真解説】 
1985年11月23日。
「ブンデスリーガ、第16節、バイエルン 対 ブレーメン戦」の写真。
中央が、 ルディー・フェラー(ブレーメンFW)。
一番左が、クラウス・アウゲンターラー(バイエルンDF、ドイツ代表)。
前半28分、アウゲンターラーが、ルディー・フェラーにファウルをした瞬間の場面。
このファウルにより、フェラーは内転筋を裂き、負傷退場した。フェラーは、この後、2回手術して、5カ月間、戦列から離脱した。
ブレーメンは、このシーズン、エース・ストライカー、フェラーを失ったにも関わらず、「得点率、欧州1位」を達成した。
その結果、「2年連続、得点率、欧州1位」を達成した。

ブレーメンの攻撃力の高さは、ルディー・フェラーの存在が理由である。
現在、バルセロナだのメッシだのと攻撃力をもてはやしているが、1980年代中頃、欧州で一番、攻撃力のあったブレーメンのエース、フェラーに対する、日本人の関心の低さは何なんだ? 
あと奥寺氏が一緒に4年も活動したが、なんで日本人は、こんなに2人に関心がないのか疑問でしかない。 
久保建英がレアル・マドリードに入団し、欧州最高の攻撃力チームでアシストをしたって、そんな事は、40年近く前に、奥寺氏が既にやって済ましていた事である。
日本人は、理解力がゼロなんだろう。
  
勿論ですが、この写真の「大一番、バイエルン戦」に、奥寺康彦さんも出場しました。
この試合は、左サイドバックのトニー・オッテンが出場してないので、恐らく、奥寺さんは、彼の代わりに左サイドバックで出場していただろうと思います。
 
この試合で、ルディー・フェラーは怪我して長期欠場しましたが、なんと彼は、1985-86シーズン、2回目の長期欠場でした。
フェラーは、1985年9月28日、「ブンデスリーガ、第9節、ボーフム 対 ブレーメン戦」で、ボーフムのMF、フランク・ベナテリから酷いファウルを受け、前半38分で負傷退場しました。
その結果、約2カ月間、戦列を離脱しました。
ちなみに、ボーフム戦は、ブレーメンが、3 対 2で勝ちました。
そして、1985年11月20日、「ブンデスリーガ、第15節、ボルシアMG 対 ブレーメン戦」で、フェラーは約2カ月ぶりに戦列復帰した。そして、後半16分に先制点を挙げ、ブレーメンは2-1で勝利しました。
フェラーは、約2カ月ぶりの戦列復帰を果たす試合で得点も挙げ、自らの復帰を祝うような勝利をした。しかし、このあとすぐ、その3日後に行われた掲載した写真の「第16節、バイエルン 対 ブレーメン戦」で、再び敵のファウルを受け、負傷退場して長期欠場となったのです。
2回目は、復帰に5カ月かかり、更に酷い長期欠場となりました。
つまり、ルディー・フェラーは、この年は、「災難のシーズン」と言っても過言ではなく、計7カ月も治療に専念した。手術は2回もしたという深刻さでした。
つまり、フェラーは、「ブレーメンのエース」 だったので、「相手チームから一番、狙われる存在」だったという事だろうと思います。
それ故、怪我に苦しみました。


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【写真解説】  
1983年5月28日。
1982-83シーズン、第33節、「フランクフルト 対 ブレーメン」戦。シュートを撃つ、ルディー・フェラー、23才。(写真、右)。 
左は CB、チャーリー・カーベル(28才、フランクフルト所属)。
カーベルは、「ブンデスリーガ試合出場数、歴代1位 602試合」を持つ。1991年に引退して28年経つが、未だに破られていない(2019年現在)。
試合は、ブレーメンが、 前半30分、FW、ラインダースがゴールを決め、1-0で勝利した。
この年、ブレーメンは2位で終えた。
勝ち点は1位だが、ハンブルガーに得失点差で負け、2位だった。
私は、単にフェラーの写真を紹介したかったので、この写真をアップしました。

                     
 それでは、皆さん、さようなら。






奥寺康彦は、レアル・マドリード、バルセロナより、攻撃力のあるチームに居た。
しかし、日本人は、それを全く知らない。



奥寺は、
欧州時代9年中3年は、欧州一の攻撃力を持つチーム」に居た。
その攻撃陣の1人だった。 凄過ぎる話だ

それは、「ケルン1978年、ブレーメン1985、86年」です。  

奥寺は、
ケルン
時代は、ウィング。
ブレーメン時代は、左サイドハーフで活躍した。


【 奥寺のブレーメン時代の本職は、サイドバックではなく、サイドハーフである。 
ちなみに、奥寺は、27才まではウィングだった。】

「奥寺康彦、ウィキペディア」に、「奥寺はブレーメンでサイドバックになった」と20年近く、書いてある。これは嘘ではないが不正確である。
奥寺氏は、ブレーメン入団、最初の2年ぐらいまでは、サイドバックで起用される場合が多かった。
しかし、段々とサイドバック出場が減って行き、再びミッドフィルダーとなった。
つまり、
「1年目だけ右サイドバック。その後4年は、主に左サイドハーフで攻撃の選手」
 だった。
日本人とは、それ程に奥寺について知らない。
日本人はウィキペディアで知識を固めるので、日本人の100%近くは、「ブレーメン時代、奥寺はディフェンダーだった」と思っている。
それ故、「日本代表、歴代ベスト・イレブン」などの議論があると、皆、決まって奥寺を「サイドバック」に置いているのだ。
彼らはウィキペディアを読み、「ウソを叩き込まれた可哀想なサッカー・ファン」である。
奥寺の本職はサイドバックではない。

そもそもブレーメンには、
左SB、ジョニー・オッテン。右SB、トーマス・シャーフ。という2人が居た。
彼らは、ブレーメンのレジェンドである。
同クラブでの試合出場数は、
オッテンが349試合(1979年から12年在籍)。
シャーフが281試合(1978年から17年在籍)
である。
奥寺と同時代に、これ程、長年在籍して活躍した名サイドバックが居たにも関わらず、日本人は、「奥寺は、ブレーメンでサイドバックだった」と話すのである。
本当におかしな民族である。

奥寺は、ブレーメン入団2年目以降でもサイドバック出場が多くなったシーズンはあるが、「ブレーメンで奥寺はサイドバックが本職」というのは明らかに間違い。
本職は左サイドハーフだった。
またウィキペディアで、
「ブレーメンは3-5-2システムのチームだ」と説明されているのも不正確だ。 
奥寺在籍時、ブレーメンは基本的に4バックのチームだった。
4-3-1-2システムだった。
確かに、3-5-2システムで多く試合をしたシーズンもあった(1982-83、1983-84シーズンなど)。
だからと言って、奥寺氏が居たブレーメンを「3-5-2システムのチーム」とだけ説明するのは、おかしい。これは、「不正確」と言って良いレベルだろう。
恐らく書いた人間は、試合をろくに見ていない。


奥寺康彦は、欧州で戦った日本人の中で、最も攻撃力のあるチームに居た選手だ。


奥寺は1978年、ケルンでリーグ優勝した。1977-78シーズンで優勝した。
その時、チームはリーグ最多得点、86得点(34試合)で優勝した。
このチームの得点率は、欧州最高だった。
1試合当たり得点率2.5。ボルシアMG と 同率1位でした。
これは、欧州5大リーグ全チーム(94チーム)中、最高の成績でした。

他国の1位との比較は、以下だ。

1978年。
ケルンボルシアMG (2.5)。
レアル・マドリード(2.3)、モナコ(2.1)、エバートン(1.8)、ビチェンツァ(1.5)
より上。
ちなみに、この年、バルセロは(1.4)だった。

そして、奥寺、ブレーメン在籍最後の2年間(1985年、1986年)、チームは「得点率、欧州1位」だった。
1984ー85シーズンは、87得点(34試合)を挙げ、得点率は2.6
1985-86シーズンは、83得点(34試合)を挙げ、得点率は2.44

ブレーメンは、「1984ー85、1985-86年シーズン、2シーズン連続で、ブンデスリーガ最多得点チーム」でした。「2年連続でリーグ戦1試合当たりの得点率が、欧州1位」だった。
欧州5大リーグ全チーム(94チーム)中、最高。
だから、奥寺は、
欧州挑戦9年中3年、つまり3分の1は、欧州で最も攻撃力があるチームでシーズンを過ごした

凄過ぎる話だ。

ブレーメン最後の2年間の具体的な成績は、以下だ。
他国の1位と強豪バイエルンとの比較は、この通りです。
1985年。
ブレーメン(2.6)。
バイエルン(2.3)、エバートン(2.1)、バルセロナ(2.0)、ボルドー(1.8)、
ユベントス(1.6)より上。
ちなみに、レアル・マドリードは(1.6)だった。

1985年のスペイン・リーグの「UEFAリーグ・ランキング」は、欧州8位でした。この頃、スペインは低迷していました。レアル・マドリードの得点率は1.6です。ブレーメンが遥かに上です。


1986年。
ブレーメンは、レアル・マドリードと並び、欧州1位だった。
他国の1位とライバル・バイエルンとの比較は、以下だ。
ブレーメンレアル・マドリード(2.44)。
バイエルン(2.4)、リバプール(2.1)、パリSG(1.7)、ローマ(1.7)より上だ。
ちなみに、バルセロナは(1.8)だった。


ここで得点率に関して、詳しい説明をします。
1980年代は、イングランド1部は、年間42試合。ブンデスリーガは34試合でした。
イングランドは、試合数が8試合も多かった。
しかし、1985年は試合数が少ないにも関わらず、「得点数」、「得点率」共に、ブレーメンが欧州1位でした。
翌1986年は、得点数はリバプールが欧州1位でしたが、得点率はブレーメンが上で、レアルと同率で1位でした。


この年(1985-86シーズン)、ブレーメンは、本来ならば、前年同様、「断トツで得点率、欧州1位」になれた。
なぜなら、エースFW、ルディー・フェラーが、長期離脱したからだ。
1985年11月23日、リーグ前半戦最後から2試合目、
「第16節、敵地バイエルン戦(優勝争いの最大のライバル)」で、ブレーメンFW、フェラーは、敵CB、クラウス・アウゲンターラーからファウルを受け、前半28分で負傷退場した。
ちなみに、試合は、ブレーメンが1-3で敗れた。
フェラーの怪我は重く、彼はシーズン後半はほぼ全て欠場した。
彼は、16試合連続で欠場した。そして、1986年4月22日、シーズン残り2試合となった優勝のかかった、第33節、奇しくもバイエルン戦で復帰した。フェラーは、途中出場した。まだ万全ではなかった。
試合は、0-0で引き分けで終った。
つまり、この年のブレーメンは、チームのエースを欠いたにも関わらず、「得点率、欧州1位」となったのだ。
いかに、この頃のブレーメンが凄かったかが分かる。
奥寺は、この年、優勝を逃したが、フェラーがライバルの「バイエルン・ミュンヘン」からファウルにより潰されてなかったら、恐らく、リーグ優勝できただろう。
本当に残念である。
日本のマスコミは、「奥寺がブレーメン最後の年は、優勝まであと1歩だった」と、それはよく伝える。
しかし、「エースFW、ルディー・フェラーが、ライバル・チーム(バイエルン)に壊された」、
「ルディー・フェラーが健在ならば、恐らく100%優勝していた」
という話は、決して伝えない。私は、それが、本当に不思議で仕方ない。
とにかく、この時代のブレーメンにとって、レアル・マドリードの攻撃力、得点能力なんて格上でも何でもなく、それを軽く上回るだけの破壊力を有していたという事だ。

余談だが、ルディー・フェラーは、シーズン終了後、W杯1986に出場した。ドイツは準優勝した。
フェラーは、ドイツ代表でもエース・フォワードだった。
しかし、怪我明けでしかも長期欠場後だったせいか、本調子でなく、グループ・リーグでは先発していたが、大会途中から控え選手になった。
また、もう一人のエース、FW、カール・ハインツ・ルンメニゲは、怪我を抱え、無理をして大会に参加していた。だから、本調子からは程遠い出来だった。
フェラーは3得点。ルンメニゲは、たった1得点に終わった。
エース2人が怪我の影響で不調だったが、それでもW杯で準優勝したドイツは凄い。
決勝戦は、「ドイツ 対 アルゼンチン」で、ドイツは2-3で敗れました。
私は、もしフェラーとルンメニゲが怪我していなければ、ディエゴ・マラドーナの居たアルゼンチンは、優勝できたのだろうか? と思ってしまった。
「『マラドーナ伝説』は、もしかして生まれてなかった可能性が非常に高かったのでは?」
と思った。




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【写真解説】 1985年11月23日。
「ブンデスリーガ、第16節、バイエルン 対 ブレーメン戦」の写真。
中央が、 ルディー・フェラー(ブレーメンFW)。
一番左が、クラウス・アウゲンターラー(バイエルンDF、ドイツ代表)。
前半28分、アウゲンターラーが、ルディー・フェラーにファウルをした瞬間の場面。
このファウルにより、フェラーは内転筋を裂き、負傷退場した。
フェラーは、この後、2回手術し、5カ月間、戦列から離脱した。
ブレーメンは、このシーズン、エース・ストライカー、フェラーを失ったにも関わらず、「得点率、欧州1位」を達成した。
そして、「2年連続、得点率、欧州1位」を達成した。

1980年代中頃、ブンデス・リーガは、現在より強豪リーグだった。
その中で、ブレーメンは、最も攻撃力が高く、「攻撃の成績」は、欧州最高だった。
 ドイツは、1984年まで欧州1位リーグだった。スペインより上だった
ドイツは、欧州のカップ戦で最も好成績を残した。その結果、欧州リーグ・ランキングは、1976~84年までずっと1位だった。
ちなみに、1985年は3位、1986年は2位でした。
スペイン・リーグのリーグ・ランキングは、1985年は、なんと欧州8位。1986年は、5位でした。
スペインは、奥寺さんの居たドイツより遥かに低レベル・リーグでした。
当時ブンデスリーガは、ドイツ人選手のレベルが高かった。その為、攻撃力は他国を上回っていた。
現在、攻撃力では、日本人は「スペインが一番だ。その中でも、レアル・マドリード、バルセロナだ」という事が頭に浮かぶだろう。しかし、1970~80年代は違ったのだ。

日本人は、久保建英がレアル・マドリードに入団したと騒いでいるが、1980年代に、既に日本人、奥寺康彦は、レアル・マドリード、バルセロナを上回る、「欧州一の攻撃力を持っていた、魅力的なチームの攻撃陣の1人」だったのである。
しかし、日本人は、とてもアホな為、それを理解できない。
こんなアホな民族が、世界に他に居るのだろうか? 


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【写真解説】 写真は、ブレーメン時代の奥寺康彦。
奥寺は、ブレーメン時代、左サイドハーフで活躍した。
欧州最高の攻撃陣の1人だった。
奥寺は、左サイドからクロスを上げ、ブレーメンの得点増に貢献した。
奥寺の居たブレーメンは、
「1985、86年と2年続けて、欧州最高の攻撃成績」だった。
欧州5大リーグ、全94チーム中1位だった。
しかし、何十年経っても、それが理解されず、日本人はそれを知らない。
マスコミは決して放送しない。なぜだろう? 私は、不思議で仕方ない。
サッカー専門誌ですら、それを日本人に伝えない。本当に不思議である。
私は、奥寺は、中田英寿よりアシストしていたと思うが、マスコミは、それも伝えない。
本当に変な国である。


【 奥寺康彦、現役時代、「大量得点試合」 を数多く経験した。 】


ブレーメンが1位だった2年間は、
1984-85シーズン、18勝(34試合)で、5勝が5得点以上。
1985-86シーズン、20勝(34試合)で、5勝が5得点以上。

『5点以上の大量得点勝利』 が全勝利の4分の1以上だ。
 凄い破壊力」 だ。


という訳で日本人には意外な事実だろうが、奥寺の在籍したチームは、今まで欧州挑戦したどの日本人選手が居たチームよりもより得点率は高く、遙かに大量得点勝利が多い。
私独自の定義で「5得点以上を大量得点勝利」とすると、以下が、奥寺が出場した大量得点試合である。総計26試合もある。
以下の全試合に奥寺康彦は出場した。


【ケルン 1977-78】(3試合)
〔注:この年、ケルンは、「計6試合の5得点以上勝利の試合」があった。奥寺が出なかった試合で他に3試合、5点以上得点した〕

25d.   6-1  ハンブルガー
29d.   5-2  デュイスブルク
34d.   5-0  ザンクトパウリ


【ケルン 1978-79】 (2試合)
15d.   5-2  ボーフム 
24d.   5-0  ドルトムント
 

【ケルン 1979-80】 (3試合)
05d.    8-0  ブラウンシュバイク
20d.    6-3  デュッセルドルフ
33d.    5-0    ブレーメン


【ブレーメン 1981-82】 (1試合)

33d. ブレーメン 5-1 デュイスブルク


【ブレーメン 1982-83】 (3試合)
28d.   6-0  ブラウンシュバイク
29d.   5-2  デュッセルドルフ
32d.   5-1  ビーレフェルト


【ブレーメン  1983-84】 (4試合)
02d.   5-2  ボーフム
15d.   8-1  オッフェンバッハ
18d.   5-0  マンハイム
28d.   5-2  ユルディンゲン

  
【ブレーメン 1984-85】 (5試合)
03d.  6-2   ケルン
09d.  5-2   ハンブルガー
13d.  7-1   カールスルーエ
17d.  6-0   ドルトムント
31d.  6-1      カイザースラウテルン 


 【ブレーメン 1985-86】 (5試合)
02d.  8-2  ハノーバー
14d.  6-1  ユルディンゲン
17d.  6-0  シュツットガルト
24d.  7-3  デュッセルドルフ
30d.  5-0  レバークーゼン


以上で、終わりとする。
日本人と言うのは、目に見えるデータを具体的に示さないと本当に理解できないアホ民族だと思うので、私はここまで噛み砕き、詳細な試合データを提示した。
日本人の中で、奥寺に対する考えが変わった人が居るならば、幸いである。
1980年代中頃、現在のバルセロナ、レアル・マドリードのように大量得点試合を数多くして勝利を挙げていたのがブレーメンである。その攻撃陣の1人が、奥寺康彦である。

おまけとして、「奥寺の在籍チーム、その他シーズン得点率」を紹介する。
更に、その年の「欧州最高得点率チーム成績」を一緒に紹介する。
 
     [奥寺所属チーム]                   [ その年の最高得点率チーム]
1978年 ケルン(2.5):欧州1位。
1979年 ケルン(1.6):欧州17位。 ハンブルガー  (2.3)。
1980年 ケルン(2.1) :欧州5位。 ハンブルガー  (2.5)。2位はバイエルン(2.47)。

1981年 ヘルタ[2部](2.9): 欧州1位(注:欧州の2部リーグ中、1位)。
   
「ブンデス2部史上最多得点、123得点(42試合)」を記録した。これは、
40年近く経つが、未だに破られていない(2019年現在)。 奥寺は、2部でも攻撃力が凄いチームに居た。

1982年 ブレーメン(1.8) :欧州11位 。 ハンブルガー   (2.8)。

1983年 ブレーメン(2.2) :欧州4位。 シュツットガルト(2.4)
 2位、ハンブルガー。3位、ドルトムント。

1984年 ブレーメン(2.3)  :欧州3位。 バイエルン  (2.5)。
2位、ボルシアMG(2.4)。

1985年 ブレーメン (2.6) :欧州1位。
1986年 ブレーメン (2.44):欧州1位(ちなみに奥寺、34才)。
 
この時代、ブンデスリーガが欧州最高のリーグだったので、「得点率、1位チーム」 は、毎年、ドイツのチームだった。
それに加え、得点率上位チームは、ほとんどドイツのチームばかりだった。
現在、「ブンデスリーガ、レベル低下時代」が、30年ぐらい続いている。その為、日本人にとって、
「ドイツ・チームがスペインやイングランドのビッグ・クラブより攻撃力が上なんて想像できない」
という想いがあるようだ。
だから、「奥寺がブンデスリーガで活躍した」と説明されても、日本人は、元々、
「ブンデスリーガは欧州ではスペイン、イングランドより下で、簡単だ」という強い固定観念がある。
それ故、
何十年経っても、「当時、ブンデスリーガは、一番レベルが高く、攻撃力は凄かった」、
「奥寺はそんな凄いリーグで活躍していた」という話を、「素直に凄い」と呑み込めないのである。
奥寺の居たチームは、得点率が欧州1位になった年以外でも、「欧州3位、4位、5位の年がそれぞれ1回ずつ」あった。

つまり、奥寺は、
欧州9年中6年は、『欧州5大リーグ、94チーム中、5位以内の得点率チーム』に居た」わけ
だ。 凄過ぎる。

彼ほど攻撃力のあるチームに長く居た選手は、そういないだろう。
世界の一流選手でないと無理だ。
奥寺は、このように「高い攻撃力のあるチーム」の「攻撃陣の1人」として活躍していたが、日本人はなぜか奥寺をディフェンダーとばかり考える。その結果、奥寺のフォワード、ミッドフィルダーとしての能力をよく分かっていない。
本当に日本人というのは、おかしな連中だなと思う。
私が、幾ら奥寺について説明しても、理解する人間はまるで居ない。
彼らとの間に、「バカの壁」が在る。私は頑張っているが、それを叩き壊し、理解させる事ができない。

 

 

【 奥寺康彦、在籍2チームの布陣。 】
「ケルン2冠達成チーム」は、
CFディーター・ミュラー、ウィングが奥寺康彦とファン・ホール。
10番がノイマン。 ボランチが、フローエとクルマン。
DF陣は、右SBツィマーマン、CBがシュトラック、ゲルバー、左SBコノプカ。
そしてGKがシューマッハだった。
 
ドイツ代表は、D.ミュラー、フローエ、クルマン、シューマッハの4人が居た。
 
翌シーズンから歴史的名手のシュスター、リトバルスキーが一軍デビューした。彼らは若くして代表に入った
 
[ ケルン 1977-78 ](2冠達成、欧州最高得点率、2.5)。


4-2-3-1システム。
 
            ミュラー
 
ファン・グール  ノイマン  奥寺康彦(26才)
 
     クルマン    フローエ
 
ツィマーマン シュトラック   ゲルバー コノプカ
 
         シューマッハ 

 

[ 続いて、ブレーメンのフォーメーション ]
FWフェラー、ラインダース(ノイバート)。
MFは、10番マイヤー、右シドゥカ、左に奥寺、守備的MFが、メルマン(ボタバ)。
DF陣は、右SBシャーフ、CBペッツアイ(フィヒテル)、クツォップ(グルーバー)、
左SBオッテン。
GKブルデンスキー。
 
ドイツ代表は4、5人居たが、代表で長く活躍したのはフェラーだけだった。
ブレーメン時代、奥寺は主に左サイドハーフでプレイした。

 

[ ブレーメン 1984-85 ](欧州最高得点率、2.6)


4-3-1-2 システム。

 フェラー     ラインダース(ノイバート)

                      
       マイヤー
 
奥寺康彦(33才)    ジドゥカ
 
       メルマン
 
オッテン              シャーフ    
   クツォップ    ペッツァイ
 
      ブルデンスキー




3-5-2 システムの場合。
第19節、バイエルン戦は、この布陣だった。ブレーメンは、4-2で大勝した。
ブレーメンは、奥寺とペッツァイの「外国人助っ人2人」がセンターバックで出場した。強敵バイエルンの攻撃力を封じる為、いつもより守備に力を入れた布陣で戦った。そして、見事、成功をして大勝利を収めた。

 

  フェラー    ラインダース(ノイバート)
 
         マイヤー        
 
ヘアマン  メルマン  ジドゥカ  シャーフ
 
 奥寺康彦(33才) ペッツァイ  オッテン    
 
       ブルデンスキー
 

1980年代中頃、ブレーメンは、「3-5-2」システムで戦う際、奥寺氏は、センターバックを務める事があった。
バイエルンとの大一番で、センターバック出場した事もあった。
それは上述した、1984-85シーズン、第19節などである。この時は、「3-5-2」システムで、3バックの1人を務めた。4-2で大勝した。
奥寺氏は、
「監督から急に依頼され、センターバックを務める事が多かった。監督はいつも急に言うので困った」
と述べている。
私は、レーハーゲル監督の意図は分からないが、奥寺氏に対して、
「奥寺ならセンターバックを頼んでも、うまくこなしてくれる」という思いがあったと思う。
レーハーゲル監督は、奥寺氏の守備センス、サッカー・センスの高さに全幅の信頼を置いていたのだろうと思う。
こんなハイ・レベルな世界でセンターバックもやり通用していたので、日本史上最高のセンターバックは、奥寺康彦だろう。
吉田麻耶、冨安健洋、井原正巳では届かない、「世界最高峰でセンターバック」を担って試合をしていた時もあったのが、奥寺康彦である。
日本史上最高のサイドバックも、奥寺康彦だろう。
日本史上最高のサイドハーフも、勿論、奥寺康彦だろう。


 それでは、皆さん、さようなら。

【 奥寺康彦は、1980年、ケルンのアメリカ・ツアーで、ニューヨーク・コスモスと戦った。】


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【写真解説】 1980年4月29日。
ケルン・アメリカ遠征で、ニューヨーク・コスモスと対戦する奥寺康彦(27才)。

写真、中央が  奥寺康彦。
右が  リッキー・デイビス(アメリカ代表、MF)。


1980年4月29日、ニューヨークで、
奥寺は、ケルンの一員として、ニューヨーク・コスモスと対戦した。
コスモスには、3年前まで、ペレが在籍していた。
当時、「北米リーグ」は、世界のスター選手・監督にとって、キャリア晩年に最後の金稼ぎの為、挑戦するリーグだった。
昔も、現在のアメリカ・リーグと全く同じだった。
当時、コスモスは、「全選手の契約金の総額が、20億円以上」と言われ、「スター軍団」と呼ばれていた。今だと総額20億円は大きなお金ではないですが、当時は凄かった訳です。

コスモスは、奥寺をドイツに呼んだ、前ケルン監督、ヘネス・バイスバイラーが監督を務めていた。
その縁で、2チームは対戦した。

試合は、ケルンが1-3で敗れた。

得点者
:[ケルン]、 ウッドコック 81分。  
:[コスモス]、キナーリア  54分、71分、 ロメロ 67分。

当時、ニューヨーク・コスモスには、
フランツ・ベッケンバウアー(元ドイツ代表  CB)、
カルロス・アルベルト   (元ブラジル代表 DF)、
ジョルジョ・キナーリア  (元イタリア代表、FW)、
フリオ・セサール・ロメロ (パラグアイ代表、FW)
等の、スター選手が居た。
 
ケルンには、
FW、  ディーター・ミュラー、トニー・ウッドコック、奥寺康彦、
MF、ベルント・シュスター、
GK、  ハラルト・シューマッハ 
等が居た。

奥寺は、W杯優勝をした名手ベッケンバウアー、カルロス・アルベルト等とアメリカ・ツアーで戦ったが、日本人でそれを知っている人は、極めて少ない。
奥寺は、3年前まで「会社員」だった事、しかも2日に1回しか練習してなかった事を考えると、本当に凄い話である。 
 
 それでは、皆さん、さようなら。

【 奥寺の成功、その凄さのポイント。】


奥寺が他の日本人と大きく違っている所、一番、凄い点は、
世界の一流選手になれる環境で育っていないが、それを実現した事
である。
当時の日本は遅れており、しかも奥寺は中学からサッカーを始めたのだ。

奥寺は、中学校に入学するまで、サッカーというスポーツをよく知らなかった。
中学入学後、初めて「サッカー・ボール」というのを間近でよく見たそうだ。
彼は中学時代、最初、卓球部に入部した。
奥寺は、小学校時代、時々、卓球で遊んでいた。だから、それが理由で卓球部に入部した。
しかし、卓球部で1年生は、試合の練習をさせてもらえなかった。台で打つ事ができなかった。奥寺は、それが苦痛だった。
そんな時、奥寺少年が卓球場から外を見ると、サッカー部が練習していた。
彼は、「あれがサッカーっていうのか、たくさん走って嫌なスポーツだな」
と最初、思ったそうだ。
しかし、「卓球部に居るよりか良さそうだ」という事で、サッカー部へ転部したそうだ。
奥寺は、
「最初の頃は、トゥー・キックしかできなかった。インステップを習得するのが難しく、時間がかかった」
と話している。
つまり、奥寺は小学校時代、全くサッカーをやってないのだ。
これは、相当に不利な話だ。現代の世界のトップ選手で、そんな人は1人も居ないだろう。
いや、当時も、世界のトップ選手で、そんな遅い開始の人は、たった1人も居ないだろう。
奥寺が小学生からサッカーを始めていたら、確実にもっと良い選手になっていただろう。
特に技術面で、更にハイレベルな選手になれただろう。
その点はとても残念である。しかし、日本では、時代がそうだったので仕方ない事だ。
また奥寺は中学校時代、サッカー部はグラウンドは半面しか使えず、しかも、
「ゴールはハンドボールのモノを使っていた。サッカーのゴールがなかった」 そうだ。
環境は悪く、用具が揃っていなかったのだ。
その後、顧問の教師が、近所の鉄工所に頼み、サッカー・ゴールを作ってもらったそうである。
恐らく、出来上がったサッカー・ゴールというのは、見よう見まねで作ったモノで、現代の少年達が使用しているような立派なモノではなかったろう。
つまり、それ程、当時の日本は、「サッカー競技の普及」が全く進んでいなかったのである。

また奥寺が中学3年の時に、「日本で初のサッカー雑誌」が刊行された。
つまり、「情報面で、当時の日本はほぼ皆無だった」訳である。
テレビを点けてもサッカーなどやってないし、活字でも日常的にサッカーを報じる書物が全く無い。
奥寺は、
「テレビを点けて、一流選手のプレイを見て、参考にする。影響を受けてマネをする」
という10代の少年が、一番サッカーをうまくなる手段の1つを持ってなかったのである。
現代の少年ならば、更に充実しており、ユーチューブ等でも様々な試合、技術を見て、上達に役立てる事ができる。
また、昔の南米選手は、ペレ、マラドーナ等、貧乏ゆえ、家にテレビが無くても、親に連れられ、「スタジアムに行って一流選手のプレイを見る」という事をしていた。
また「学校から帰宅後、ビッグ・クラブの超一流、プロ選手の練習を観に行く」というのも可能だったそうだ。
昔は、南米は、それ程、セキュリティーが厳しくなく、練習見学できたそうだ。南米の名手の中には、「それがとても参考になった」と話す人も居る。
奥寺には、そんな事はできなかった訳である。
日本は、サッカー不人気国で、日本には世界の一流選手など1人もいなかったからである。
レベルの高い試合など、日本には無かったからである。
当時、彼は、世界の視点で考えると、「環境的には、相当に不利な選手であった」と言えよう。
そんなサッカー後進国過ぎる環境で、奥寺少年はサッカーを始め、
「欧州最高のリーグの優勝争いするチームで助っ人として活躍した」訳だから、ほとんど彼の成功は、「あり得ない話」というレベルだろう。

現在、「プロ・リーグがないアジアの国」は、もうほとんどないと思う。
当時、日本には、プロ・リーグがなかったのである。
2010年代に入り、プロ・リーグができた国には、カンボジア、ラオス、フィリピン等がある。
そのような国から、いきなり欧州の強豪クラブの助っ人として活躍している選手が居るだろうか?
そんな人間は、1人も居ないのである。
オーストラリア、ニュージーランドには、ヨーロッパからの移民が多く居る。昔は、プロ・リーグはなかったが、親達がサッカー文化に精通していた為、子供世代がアマチュアの環境でもサッカーに励み、欧州挑戦して大成功したケースがある。
ウィントン・ルーファー、ハリー・キューエル、マーク・ヴィドゥカ等が、筆頭だ。
しかし、奥寺の場合、親がヨーロッパと関係があり、濃厚なサッカー文化を叩き込まれていた訳ではなかった。
なにせ中学生からサッカーを始めて、サッカーについてよく知らなかった人である。
それらの点、全てを考慮すれば、奥寺の成功は「常識を超えている」、「あり得ない」 としか表現できない。
こんなサッカー選手は、この先、世界で、まず現れないだろう。

また、奥寺は、高校卒業後、社会人チーム(古河)に入団したが、当時、「練習が、2日に1回」だった。
また、「夜勤明けの練習」という過酷な場合もあった。現在の選手は、仕事もせず、毎日練習しているが、全員、奥寺以下の実績しか残せない。本当に不思議である。
また、奥寺は21才から2年近く、深刻な腰痛に悩まされ、入院・手術をするレベルで、周囲に「引退宣言」をしていたそうだ。
当時、「もう、俺、サッカーできない。終わった」と半ば諦めていたそうである
その後、奇跡的に、腰痛が治り、再びサッカーをする事ができた。
つまり、奥寺は、サッカーを始める年齢が遅く、尚且つ、社会人時代、練習は2日に1回の為、練習量は少なかった。更に途中で腰痛に悩まされ、2年近く、「フル・パワーでサッカーをできない」という状況に追い込まれ、入院までしたという選手だ。
私は何を言いたいかと言うと、彼は、
「他の選手に比べ、かなり練習時間が不足していた選手」である。
奥寺は、当時、
サッカー史上、最もサッカーの練習時間が少なくて、世界の一流選手になった可能性
がある。
「10代のサッカー練習量では、史上最少」だったかも知れない。
私は、1980年代後半に出て来た、アルゼンチンのFW、ガブリエル・バティストゥータが、「高校生からサッカーを始めた」という話を聞いた。
だから、現在、奥寺氏は、バティストゥータの次に練習量の少なかった10代選手かも知れない。
奥寺康彦は、このような練習時間の少ない状態であったにも関わらず、「欧州最高のリーグの強豪チームで、助っ人をこなした」のである。
しかも34才でも通用していて、通用したまま日本に帰国したという、「余裕の活躍」であった。
こんな話は、他にあるだろうか? 私は聞いた事がない。
奥寺氏の成功は、本当に「あり得ないレベル」の話である。


 それでは、皆さん、さようなら。



セルジオ越後という、経歴詐称をして活動する、日系ブラジル人サッカー評論家が居る。
しかし、なぜか日本のマスコミは協力する。
セルジオ越後が公開している「ウソ経歴」をそのまま日本人に紹介するのだ。
「サッカー・ダイジェスト」、「日刊スポーツ」などは、もう30年以上、「大ウソ経歴」を紹介し続けている。
これらの会社は、ネットで批判を受けている事を知っていても、紹介を続けている。だから、相当に馬鹿か、傲慢である。もしくは、セルジオ越後を意地でも守りたいのだろう。
これらの会社は、サッカー・ファンからの批判を押し潰して、そのまま乗り切る事に決めたようだ。



日本で、セルジオ越後の経歴詐欺に協力している会社は、
「サッカー・ダイジェスト」、「日刊スポーツ」、「サッカー・キング」等である。

協力しているテレビ番組は、「Foot Brain」(テレビ東京)である。


まとめると、セルジオ越後を番組に起用してギャラを払っている「テレビ朝日」、「テレビ東京」等の放送局は、「毎年、詐欺師に協力し続けているテレビ局」と言って過言ではないだろう。


 それでは、皆さん、さようなら。

【 1980年代からレベル低下し続ける日本のセンターバック。】

「 1980年代からレベル低下し続ける日本のセンターバック」。
こう書くと、日本人は批判して来るかも知れないが、実際にそうである。
1980年代、ブレーメン所属時代、奥寺康彦は強豪バイエルンと優勝争いをしていた。
そして、バイエルンと大一番の試合の際、オットー・レーハーゲル監督から、
「奥寺、センターバックをやってくれ。ルンメニゲを抑えてくれ」
と言われ、普段は左サイドハーフであったが、特別にセンターバック起用された試合もあったそうだ。
ルンメニゲを知らない人に説明しておくが、カール・ハインツ・ルンメニゲとは、1980年代前半、欧州で最高の選手だった。バロンドールを2回受賞(1980、81年、2年連続受賞)した選手である。
奥寺は、欧州最高の選手を抑えていたのである。

奥寺は、現在で言えば、リオネル・メッシ、クリスティアーノ・ロナウドを抑える為に、特別にセンターバック起用を頼まれ、抑え込んでいたのと同じである。
彼は、当時の世界最高の選手と直接対決していたのだ。
ちなみに、ブレーメン時代の奥寺のバイエルン戦の成績は「4勝3分2敗」で勝ち越した。
注:奥寺は、バイエルン戦はいつもセンターバックで出場していた訳ではない。

つまり、現在、欧州で、吉田麻也、昌子源、冨安健洋らが戦っているが、本当に低レベルなのである。
2000年代、宮本恒靖、中澤 佑二、田中マルクス闘莉王ら、
1990年代、井原 正巳、秋田豊ら、
全員、世界レベルのセンターバックではない。

日本人は、吉田麻也、昌子源、冨安健洋らの登場で、
「日本にもようやく、世界で通用するセンターバックが現れた」と言っている。
私は、ユーチューブ動画で、上記の日本人らに対して「新次元センターバック」などとおおげさ極まりない紹介をしているのを見た。しかし、それを見ると、私は、バカとしか言いようがない。
彼らの思考を見て、奥寺はどこに行ったんだ? と思う。
単に、日本人は知識不足なのである。


よく「日本代表の歴代ベスト11」を選ぶという事で、当然だが、ここでセンターバックを選考している。しかし、よく考えれば、これは間違いなく、奥寺康彦だろう。

私は、「世界最高峰で、急遽、センターバックとしてプレイして世界最高の選手を抑え込んでいた」、
奥寺がナンバー1だと思う。しかし、日本人に私のこの意見は、まるで理解されない。



また、奥寺は、当時、欧州最高のリーグだったブンデスリーガで最高の外国人フォワードだった、フランクフルト所属のチャ・ボングンと対戦する時も、監督から「奥寺、チャ・ボングンを抑えてくれ」と頼まれて、急遽、センターバック起用された事があったそうだ。
奥寺氏は、「監督が、いつも急に言って来るので、困った」と当時を振り返っているが、それだけ奥寺の守備能力が高かったという事だろう。
監督から非常に信用されていたという事だろう。
相手チームに一番怖い、超一流フォワードが居る場合、「奥寺に頼もう」という状態だった訳だ。
ブレーメン時代、奥寺氏は、チームが3-5-2システムで戦う場合、
3バックの一番左を務めていた。
「1984-85シーズン、第19節、大一番のバイエルン戦」 では、3バックの一角を務めた。
チームは、4-2で大勝した。

なぜか日本人は、これらの凄い話を、皆、よく理解せず、スルーする。
私は、不思議で仕方ない。
奥寺氏は、当時、センターバックで世界最高峰の試合に出場して勝利までしていたのである。

ちなみに、奥寺氏はファウルの少なかった選手だ。
欧州でイエローカードを受けた枚数は、たった7枚である(313試合)。稀に見る、少なさである。そして、奥寺氏は、退場はゼロである
つまり、奥寺氏は、「クリーンにボールを奪って守備ができる」という、かなりハイ・レベルな選手だった訳だ。しかし、日本人が奥寺氏の守備能力の高さを理解する事は、何十年経ってもできないようである。
私は、これが、とても残念だ。本当に残念だ。


 それでは、皆さん、さようなら。

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