【 評論家、西部謙司と北條聡は、人にモノを教える上での『常識』が、一切、無い。
それを日本人に教える。】
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【 評論家、西部謙司と北條聡が、日本のサッカー・ファンに説明する『偽9番』発祥の時期は、イギリスのマスコミが説明する時期と、なんと40年も違う。】
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【 評論家、西部謙司と北條聡は、『歴史』をサッカー・ファンに講義するならば、その出典を明らかにしろ。
この2人の説明の仕方は、本当に酷い。】
それを日本人に教える。】
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【 評論家、西部謙司と北條聡が、日本のサッカー・ファンに説明する『偽9番』発祥の時期は、イギリスのマスコミが説明する時期と、なんと40年も違う。】
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【 評論家、西部謙司と北條聡は、『歴史』をサッカー・ファンに講義するならば、その出典を明らかにしろ。
この2人の説明の仕方は、本当に酷い。】
最初に言っておきますが、今回の記事は、途中から再投稿記事です。
私は、日本のサッカー評論家で、歴史を紹介して活動している評論家というのが、西部謙司 と 北條聡であると知った。
この2人によって、日本のサッカー・ファンは、歴史を学んでいる人間が多いようだ。
しかし、この2人が、本当に酷い。
その理由は、2人とも、「歴史を説明する際、その出典を明らかにしない事」である。
現在、ユーチューブで、芸人の中田敦彦という男が、チャンネルを持ち、講義をしている。
(芸人と言いつつ、漫才・コントを作ることを放棄した ニセモノ芸人だと思うが、今回は、一応、芸人と呼んでおく)。
その中田敦彦は、講義をする前に、「今回、私は、この本を読んで、講義をしています」という出典を明らかにするという作業をやっている。
中田は、「これから話す内容は、この本で学んだことを話しています」と視聴者に背景を説明しているのだ。
本は、事前に数冊を見せる事もあり、そのようにして、自分が学習をした本を紹介している。
中田は、歴史を授業する際も、当然だが、学んだ本を視聴者に講義前に紹介してから講義を始めている。
それにより、視聴者は、中田の講義で不審な点があれば、
「その大元の本の内容に問題があるのでは? 」とか、
「中田が今回、利用した本の著者は信頼に足りるのか? 著者は、元々、どういう考えを持ったタイプの人間だったのか?」とか、
色々、その不審点に関して、視聴者が探って判断する余地は残されているのである。
しかし、西部謙司、北條聡というサッカー界で、歴史の講義をやっている評論家共は、
毎回、「自分が学んだ本が何であったのか、決して明らかにしない」という姿勢なのである。
それ故、視聴者は、彼らの歴史を聞いても、
「西部、北條は、一体、どこの本から、それらの知識を得て、歴史をサッカー・ファンに教えているのか?」
というのが、一切、分からないのである。
だから、彼らの述べる内容に不審点があっても、その出典が分からないので、視聴者は、それより先に判断する材料が無いのである。
私は、彼らの態度というのは、本当に問題があると思っている。
現在、私のようなサッカー・ファン、スポーツ・ファンが、何かを書いた際に、出典を添えることを当然にやっている。
ウィキペディアにおいても、出典を明らかにすることを求められる。
それは昔から「常識」だと思うが、この2人は、そういう行為は全くしないのである。
私が、なぜ、今回、このブログを書いているかと言うと、彼らが「偽9番という戦術が生まれたと主張する時代」というのが、私が得た知識と40年も違うからである。
私は、昨年、イギリスの新聞、高級紙「ガーディアン」を読んで、
「1890年代に『偽9番』の戦術は生まれた」という記事を読んだからである。
具体的に言うと、イングランドでプロ・リーグが開始された僅か6年後の1894年である。
一方、西部、北條の2人は、イギリスと違って、1930年代と言っている。
約40年も違うのである。
両氏共に、「1930年代が始まりだ」と日本のサッカー・ファンに伝えている。
この2人は、
「1930年代のオーストリア代表で、マティアス・シンデラーがやったのが最初だ」
と説明をしている。
しかし、彼ら2人は、その出典を一切、明らかにしていない。
一方、私は、
「イギリスのガーディアン紙で、1894年に『偽9番』の戦術が初めて使用された」と説明して、出典を伴わせて読者の皆さんに説明をしている。
西部謙司、北條聡というのは、社会常識がゼロという事である。
彼ら2人は、何度も、「1930年代、オーストリア代表が『偽9番』の戦術を使用した」と説明をしているが、毎回、この2人は、「その知識をどこから得て話しているのか?」、
「その知識は、どこの本に書かれていた話なのか?」 という一番、重要な点については説明をしないのである。
こんなやり方で、通ると思っているのだ。
この2人は、サッカー界で出版業に携わっているそうだが、それでも常識が身に着いてないのだ。 本当に呆れる。
この2人は、「人にモノを伝える上での常識」が無いのだ。
彼ら2人は、何度も、「1930年代、オーストリア代表が『偽9番』の戦術を使用した」と説明をしているが、毎回、この2人は、「その知識をどこから得て話しているのか?」、
「その知識は、どこの本に書かれていた話なのか?」 という一番、重要な点については説明をしないのである。
こんなやり方で、通ると思っているのだ。
この2人は、サッカー界で出版業に携わっているそうだが、それでも常識が身に着いてないのだ。 本当に呆れる。
この2人は、「人にモノを伝える上での常識」が無いのだ。
私は、このブログで、『偽9番』の発祥について説明する際、
「イギリスの新聞、『ガーディアン』で読んだ」 と、読者に出典先を明確にしている。
事実を紹介する際、裏付けとしての証拠を提示するのは非常に大事だからだ。
しかし、西部、北條は、「プロ評論家だが、一切、出典を明らかにしない」 のである。
私が、西部、北條の説明を聞いた時、最初に思ったことは、
「お前ら、一体、それはどこで得た知識を話してんだよ? 出典先を明確にしないと分からねーだろ?。
お前らは、毎回、どこで学んだ知識を日本のサッカー・ファンに伝えてんだよ?」
という事である。
この2人は、自分達から歴史を聞いた視聴者が、このような疑問を持つことを想像しないのだろうか?
私は、そこが一番、不思議である。
普通、学問をした経験があるならば、「それは必要最低限やらないと問題だ」という意識が、当然、生まれると思うが、この2人は、まるで無いのである。
日本人の皆さんは、西部謙司、北條聡の酷さを知って下さい。
こいつらは「ニセモノ」だと知って下さい。
私は、西部謙司も、北條聡も認めていない。
彼らの説明のやり方は、本当に常識が無いからだ。
また、西部謙司に関しては、過去におもしろい事があったので、認めていない。
私は、ウィキペディアで、
「リーベルプレート、ボカ・ジュニオルスのページで、歴史の部分を1人で全て書いた」
という人間である。
現在、リーベルプレート、ボカ・ジュニオルスのウィキペディア・サイトを見て、歴史を読んだ方が居られたら、その人たちは、私一人から歴史を学んだのと同じである。
私が書く前は、この偉大な2チームの歴史が、なんと誰も書いておらず、真っ白だったのだ。
そして、過去に西部謙司は、「私が書いたウィキペディア記事から、ボカ・ジュニオルスの歴史を学んで、それで記事を書いているのを見た事があるから」だ。
書かれている内容が、「いかにも、たった今、ウィキペディアで読んで学びました」みたいなモノであった。
だから、西部は、ウィキペディアを読んで得た知識を、すぐ書いて商売しているレベルであり、多くの本を読んで、本格的に勉強した評論家ではないと感じたからである。
私は、西部謙司、北條聡らが、決して出典を明らかにしないのが謎である。
一般人以下の常識しか持ってないことを、この2人は痛切に反省したらどうだろうか?
一般人でも、多くがブログを書き、出典を明示している。
この2人は、一般人から『 常識 』を学び、人にモノを教える上での常識を身に着けたらどうか?
これは、小学生でも分かる理屈である。
以下は、今年、2020年1月16日に、私がアメーバブログに書いた記事です。
『偽9番』の発祥について書いた記事です。
< サッカーの授業 >
【 日本人サッカー評論家達がいかに酷いかを教える。
新戦術詐欺商売。サッカーの母国イングランドとの違い。】
私は、昨年、インターネットをしていたら、
イギリスの高級新聞紙 「ガーディアン」 (2019年1月24日発行) で、
「『偽9番』という戦術は、昔からあった」 と書かれている記事を発見した。
それで、その記事が面白かった。
その記事は、以下の文章で始まる。
It is 125 years since the first false nine.
上の英文を訳すと、
「『偽9番』の戦術が使われて、125年が経つ」
となる。
しかし、日本では、全く違うのである。
皆さんも、日本のマスコミが、
「『偽9番』、新戦術」という言葉を何回も書いているのを見かけた事がないだろうか?
日本人評論家達の手にかかると、イギリスと全く正反対になるのである。
私は、日本人はわざとやっているとしか思えない。
例えば、2016年6月13日に「Dear Magazine」というサイトにおける、サッカー評論家、結城康平の記事では、
「このパスサッカー隆盛の時代は、革命家ペップ・グアルディオラによって更に完成度を増す。 世に知られる「偽9番」、もしくは「0トップ」と呼ばれる戦術の導入は、ボランチにとって悪夢に近い状況を生む。ただでさえ流動的なバルセロナの中盤を抑えつつ、下がってくるCFメッシの対策までしなければならない」。
と書かれているのだ。
また、結城康平は、2019年1月22日の「フットボリスタ」のサイトに寄稿した記事では、
「ポジショナルプレーという優位性をベースにしたポジションの再定義は、試合の中での『ポジション』という概念自体にも影響を与え、『ゼロトップ』や『偽SB』といった新たな戦術を生み出すことになった。」
と書いている。
つまり、イギリス人が、「125年前からある」としているモノを、日本では、最近、
「革命家ペップ・グアルディオラ監督が、『偽9番』を発明した」という事として、伝えられているのである。
「革命家ペップ・グアルディオラ監督が、『偽9番』を発明した」という事として、伝えられているのである。
私が読んだ、その新聞記事では、続けて、記事の本文は、このような文章から始まる。
At times it feels in football there is nothing new,
merely the reinvocation of old ideas.
At times it feels in football there is nothing new,
merely the reinvocation of old ideas.
上の英文を訳すと、以下のようになる。
「サッカーでは、新しいものは何もないと感じることがあります。単に古いアイデアを掘り起こし、使っているだけです」。
続いて、以下の文章が書かれている。
It is well over 100 years since GO Smith started operating for the Corinthians
as what we would now term a false nine and yet still the idea of a team operating
without a fixed focal point in the centre of their attack can cause chaos.
上の英文を訳すと、
「ゴー・スミス監督が、コリンティアンズで、現在、『偽9番』と呼ばれている、カオス(混乱)を引き起こす為に、攻撃陣の中央の選手(センターフォワード)を固定しないチーム戦術のアイデアを使用してから100年以上が経ちます」
となる。
私は、このブログで、読者の皆さんに、
「サッカーというスポーツは、『11人 対 11人』で、ルールもほとんど同じで、100年以上、歴史が積み重なり、『新しい戦術』などと言うのが出て来る方が難しい。 それは稀である」
と繰り返し、説明しています。
つまり、イギリス人のサッカー評論家は、私と全く同じ考えで活動をしているのです。
その見解・事実をイギリス人読者に伝えている訳です。
この姿勢は、日本人サッカー評論家達と全く逆です。
日本人は、「新しい戦術が出ました!!」と大声を出し、日本人サッカー・ファンをだまして商売をしていますが、イギリス人はそのような「卑劣な商売」をせず、きちんと読者にまず「サッカーの歴史」を伝えて、「過去に、現在、話題となっている戦術は使われていました」という真実を伝えるよう努力をしている訳です。
この両者の比較を見て、いかに日本人というのが汚い民族だか分かるでしょう。
日本人サッカー評論家達は、サッカー・ファンをだましても平気なんです。
だまして金儲けできればそれで良いんです。
「サッカーというスポーツは、『11人 対 11人』で、ルールもほとんど同じで、100年以上、歴史が積み重なり、『新しい戦術』などと言うのが出て来る方が難しい。 それは稀である」
と繰り返し、説明しています。
つまり、イギリス人のサッカー評論家は、私と全く同じ考えで活動をしているのです。
その見解・事実をイギリス人読者に伝えている訳です。
この姿勢は、日本人サッカー評論家達と全く逆です。
日本人は、「新しい戦術が出ました!!」と大声を出し、日本人サッカー・ファンをだまして商売をしていますが、イギリス人はそのような「卑劣な商売」をせず、きちんと読者にまず「サッカーの歴史」を伝えて、「過去に、現在、話題となっている戦術は使われていました」という真実を伝えるよう努力をしている訳です。
この両者の比較を見て、いかに日本人というのが汚い民族だか分かるでしょう。
日本人サッカー評論家達は、サッカー・ファンをだましても平気なんです。
だまして金儲けできればそれで良いんです。
私は、日本人サッカー評論家達は、まず歴史を学ぶべきだと思います。
そして、「新戦術、詐欺商売」という邪道を直ちに止めるべきです。
100年前から既に使われている戦術を、「新戦術」として知識不足の日本人サッカー・ファンに教えたり、100年前からある戦術を使っている現在の監督を、「革命家」として紹介するのは、全くおかしな事です。許される事ではないでしょう。
そして、「新戦術、詐欺商売」という邪道を直ちに止めるべきです。
100年前から既に使われている戦術を、「新戦術」として知識不足の日本人サッカー・ファンに教えたり、100年前からある戦術を使っている現在の監督を、「革命家」として紹介するのは、全くおかしな事です。許される事ではないでしょう。
雑誌「Number」 、「フットボリスタ」、「ワールドサッカー・ダイジェスト」、「サッカー批評」など、これら雑誌は全て同じです。
「新戦術が出ました」、「時代は変わりました」、「戦術の進化」、「現代サッカーでは」などという言葉を頻用し、読者に「時代は変わっている。乗り遅れるな。覚えておかなければいけない」という強迫的メッセージを送り、時代の変化を強調して金を稼ごうとしているだけなのです。
イギリス人が、きちんと読者にサッカーの歴史を教えて、それで正直に、「この戦術は、昔から使われてます」と説明するのとは大違いです。
私は、本当に日本人というのは、醜いと思います。
あまりにも評論家に詐欺師が多過ぎます。詐欺雑誌、詐欺出版社が多過ぎます。
読者をだまして、何の得があるんでしょうか?
それよりきちんと「サッカーの歴史」を教えるべきではないでしょうか?
それでは、皆さん、さようなら。
「新戦術が出ました」、「時代は変わりました」、「戦術の進化」、「現代サッカーでは」などという言葉を頻用し、読者に「時代は変わっている。乗り遅れるな。覚えておかなければいけない」という強迫的メッセージを送り、時代の変化を強調して金を稼ごうとしているだけなのです。
イギリス人が、きちんと読者にサッカーの歴史を教えて、それで正直に、「この戦術は、昔から使われてます」と説明するのとは大違いです。
私は、本当に日本人というのは、醜いと思います。
あまりにも評論家に詐欺師が多過ぎます。詐欺雑誌、詐欺出版社が多過ぎます。
読者をだまして、何の得があるんでしょうか?
それよりきちんと「サッカーの歴史」を教えるべきではないでしょうか?
それでは、皆さん、さようなら。