1980年代中頃、ブンデス2強、ブレーメンとバイエルン、両チームの外国人助っ人、計4人の顔触れを紹介します。
1980年代、欧州は、外国人枠は2~3人でした。
ドイツ ( ブンデスリーガ) 、イタリア( セリエA) は、2人。
イングランド、スペイン、フランスの3国は、3人でした。
という訳で、奥寺氏の時代(1980年代)は、ブンデスリーガの「外国人枠は、2人」でした。
ちなみに、「外国人枠が2人」なので、「1980年代、ブンデスリーガの上位チームの助っ人レベル」は、高いです。
上位チームじゃなくても、たった2枠なので、昔は現在と違い、「外国人助っ人選手の平均レベル」が、高かったです。
1980年代、欧州は、外国人枠は2~3人でした。
ドイツ ( ブンデスリーガ) 、イタリア( セリエA) は、2人。
イングランド、スペイン、フランスの3国は、3人でした。
という訳で、奥寺氏の時代(1980年代)は、ブンデスリーガの「外国人枠は、2人」でした。
ちなみに、「外国人枠が2人」なので、「1980年代、ブンデスリーガの上位チームの助っ人レベル」は、高いです。
上位チームじゃなくても、たった2枠なので、昔は現在と違い、「外国人助っ人選手の平均レベル」が、高かったです。
1980年代中頃、ブンデスリーガでブレーメンとバイエルンは、「2強」の状態となりました。
ライバル・チームとなり、優勝争いを繰り広げました。
それでは、そのブレーメンとバイエルン、それぞれの「助っ人2人」を紹介します。
彼ら(計4人)は、これらのチームで「3~6年の期間」在籍して活躍をしました。
まず、ヴェルダー・ブレーメンは、MF、奥寺康彦 と DF、ブルーノ・ペッツァイだ。
それでは、そのブレーメンとバイエルン、それぞれの「助っ人2人」を紹介します。
彼ら(計4人)は、これらのチームで「3~6年の期間」在籍して活躍をしました。
まず、ヴェルダー・ブレーメンは、MF、奥寺康彦 と DF、ブルーノ・ペッツァイだ。

【写真解説】
サイドハーフ、サイドバック。プロ・リーグ化以降、欧州挑戦した6番目のアジア人選手、奥寺康彦。
ブレーメンには、1981~86年まで在籍した。
最初のアジア人選手は、1920年代にFCバルセロナで活躍したフィリピン人、パウリーノ・アルカンタラです。
アルカンタラは、アマチュア・リーグで活躍しました。当時スペインは、アマチュア・リーグでした。
この時代は、まだヨーロッパはイギリス以外の国は、プロ化していませんでした。
そして、彼はフィリピン人ですが、3才でバルセロナに移住しました。
つまり、バルセロナで育ったフィリピン人でした。だから、彼の中身は、スペイン人でした。
サイドハーフ、サイドバック。プロ・リーグ化以降、欧州挑戦した6番目のアジア人選手、奥寺康彦。
ブレーメンには、1981~86年まで在籍した。
最初のアジア人選手は、1920年代にFCバルセロナで活躍したフィリピン人、パウリーノ・アルカンタラです。
アルカンタラは、アマチュア・リーグで活躍しました。当時スペインは、アマチュア・リーグでした。
この時代は、まだヨーロッパはイギリス以外の国は、プロ化していませんでした。
そして、彼はフィリピン人ですが、3才でバルセロナに移住しました。
つまり、バルセロナで育ったフィリピン人でした。だから、彼の中身は、スペイン人でした。
その後、プロリーグ以降は、イラン人が4人、香港人が1人挑戦した。
アジアでは、イラン人ばかりが欧州に挑戦していた。
しかし、1部リーグでは誰も活躍できなかった。
故に、私は、実質的にアジア人で挑戦した最初の成功者は奥寺であると思う。
奥寺康彦は、「 プロ・リーグに挑戦した、6番目のアジア人」だったが、欧州最高得点率を出すチーム (ブレーメン)」の攻撃陣の1人として活躍した。
1980年代は、欧州人以外の選手は、「バロンドール選考対象外扱い」だったので、奥寺氏は、「バロンドール」(欧州最優秀選手賞) に関わる事はなかった。

【写真解説】
CB、ブルーノ・ペッツァイ。身長188センチ。
ブレーメンには、1983~87年まで在籍した。
CB、ブルーノ・ペッツァイ。身長188センチ。
ブレーメンには、1983~87年まで在籍した。
ペッツァイは、「オーストリア史上最高のセンターバック」 と今でも言われています。
彼は、「1980年代前半、欧州最高のディフェンダー」でした。
「世界選抜で先発して、ベッケンバウアーとセンターバックでコンビを組む」ぐらい凄い選手でした。
ペッツァイは、
彼は、「1980年代前半、欧州最高のディフェンダー」でした。
「世界選抜で先発して、ベッケンバウアーとセンターバックでコンビを組む」ぐらい凄い選手でした。
ペッツァイは、
フランクフルト時代(1978~83年)に、チームがUEFAカップ(1980年)、ドイツ・カップ(1981年)に優勝した年がありました。
またW杯1982に出場して活躍しました。
その結果、バロンドール投票で、14位(1980年)、11位(1981年)、12位(1982年)に入った事がありました。
「W杯1986で『大会ベスト・イレブン』に選ばれた」。
「 1987年、 世界最優秀GK」。
そして、奥寺は、1985-86年シーズン後、日本に帰国した。
代わりに入団した新外国人は、現在でも「ノルウェー史上最高の選手」と評される、CB、ルネ・ブラツェットだ。
またW杯1982に出場して活躍しました。
その結果、バロンドール投票で、14位(1980年)、11位(1981年)、12位(1982年)に入った事がありました。
バロンドールは、「フォワード と 攻撃的ミッドフィルダー」が上位に来る事が多い賞です。
だから、センターバックでこの順位は優秀です。
だから、センターバックでこの順位は優秀です。
ちなみに、サッカーの「最優秀選手の投票」は、どのコンテストでも「攻撃の選手が有利」です。バロンドールも同じです。
皆さんは、「14位、11位、12位なら大した事ないじゃないか?10位以内にも入らないのか?」
と思ったかも知れませんが、ペッツァイの順位は、「ディフェンダーの中では、最上位レベルです」。
ペッツァイは、1980年の投票で14位でした。
しかし、「センターバックの中では1位」でした。
ディフェンダー全体では2位でした。
ディフェンダーでは、マンフレート・カルツ(ドイツ代表、サイドバック)の10位に次ぎ、2位でした。
翌1981年は11位で、「センターバックの中では2位」でした。ディフェンダー全体でも2位でした。
皆さんは、「14位、11位、12位なら大した事ないじゃないか?10位以内にも入らないのか?」
と思ったかも知れませんが、ペッツァイの順位は、「ディフェンダーの中では、最上位レベルです」。
ペッツァイは、1980年の投票で14位でした。
しかし、「センターバックの中では1位」でした。
ディフェンダー全体では2位でした。
ディフェンダーでは、マンフレート・カルツ(ドイツ代表、サイドバック)の10位に次ぎ、2位でした。
翌1981年は11位で、「センターバックの中では2位」でした。ディフェンダー全体でも2位でした。
アレクサンドロ・チバーツ(ソビエト代表、CB)の8位に次いで2位でした。
1982年は、12位でしたが、「ディフェンダー全体の中で、順位は1位」でした。
欧州のディフェンダーの中で、ペッツァイは、この3年間(1980~82年)は、毎年、最も安定して、上位に位置した選手でした。
つまり、彼は、「1980年代前半、欧州最高のディフェンダーだった」という事です。
しかし、ブレーメン時代の4年間(1983~87年)は、
「バロンドールのノミネート30位以内に一度も入りませんでした」。
彼の所属するブレーメンは、「リーグ2位が2回」で惜しくも優勝できませんでした。また、欧州の国際大会(UEFAカップ)では、早期敗退に終りました。
彼の所属するブレーメンは、「リーグ2位が2回」で惜しくも優勝できませんでした。また、欧州の国際大会(UEFAカップ)では、早期敗退に終りました。
その他に、1980年代中頃、オーストリア代表は、「ユーロ1984、W杯1986で予選敗退して、本大会出場できなかった」。
その為、彼は、クラブでも代表チームでも国際舞台で目立つ機会を逸しました。
故に、ペッツァイは、「国際舞台で活躍した他のディフェンダー」よりもインパクトが薄くなり、ノミネートにかからなくなった訳です。
1980年代、バロンドールの投票では、「ディフェンダーは、30位内に毎年、平均、4人ぐらいしか選ばれません」でした。
センターバックのみとなると、2~3人だけです。
故に、ノミネートされる段階で既にかなり難しいモノです。
だから、私は、「ペッツァイは、ノミネートされなかったから大きくレベル・ダウンした」と結論するのは、違うのではないかと思います。
ペッツァイは、ブレーメンの守備のリーダーを務め、「リーグ戦で2位に2回」なりました。
彼が居なければ、ブレーメンはこんなに良い順位にはなれず、毎年、優勝争いに加わる事も不可能でした。
ブレーメン時代、彼は一度もノミネートされませんでしたが、私は、「選ばなかった方がおかしいのでは?」と思います。
彼は、ブレーメンが優勝していたり、 オーストリア代表がW杯、ユーロに出場していたら、30位以内(ノミネート内順位)には、確実に入っていたろうと思います。
私は、ペッツァイは、チーム成績の影響を受け、ノミネートから外れただけで、依然として、ブレーメン時代も「欧州最高レベルのセンターバックだった」と思います。
一方ライバル・チーム、バイエルン・ミュンヘン の助っ人は、
彼が居なければ、ブレーメンはこんなに良い順位にはなれず、毎年、優勝争いに加わる事も不可能でした。
ブレーメン時代、彼は一度もノミネートされませんでしたが、私は、「選ばなかった方がおかしいのでは?」と思います。
彼は、ブレーメンが優勝していたり、 オーストリア代表がW杯、ユーロに出場していたら、30位以内(ノミネート内順位)には、確実に入っていたろうと思います。
私は、ペッツァイは、チーム成績の影響を受け、ノミネートから外れただけで、依然として、ブレーメン時代も「欧州最高レベルのセンターバックだった」と思います。
一方ライバル・チーム、バイエルン・ミュンヘン の助っ人は、

【写真解説】
ベルギー代表、GK、ジャンマリー・パフ。
バイエルン、GK (1982~88年、在籍)。
ベルギー代表、GK、ジャンマリー・パフ。
バイエルン、GK (1982~88年、在籍)。
「W杯1986で『大会ベスト・イレブン』に選ばれた」。
「 1987年、 世界最優秀GK」。
バロンドールで最高6位(1983年)。
1980年代中頃、パフは、「世界最高のゴールキーパー」だった。
1980年代中頃、パフは、「世界最高のゴールキーパー」だった。
もう一人がデンマーク代表MF、セーレン・レアビー。

【写真解説】
デンマーク代表MF、セーレン・レアビー。
デンマーク代表MF、セーレン・レアビー。
バイエルンには、1983~86年まで在籍した。
バイエルン時代、バロンドール投票で、レアビーは、12位(1985年)、13位(1986年)に入った年があった。
バイエルン時代、バロンドール投票で、レアビーは、12位(1985年)、13位(1986年)に入った年があった。
ボランチでは、1985年は、ベルント・シュスター(3位)、ブライアン・ロブソン(9位)に次いで、3位だった。
1986年は、ボランチで、「欧州1位」の順位だった。
つまり、彼は1980年代中頃、「欧州最高レベルのボランチ」だった。
1986年は、ボランチで、「欧州1位」の順位だった。
つまり、彼は1980年代中頃、「欧州最高レベルのボランチ」だった。
また、彼は、アヤックス時代、「欧州チャンピオンズ・カップ1979-80シーズン、得点王」の経験もあった。
他の3人は凄い顔触れだが、そこに奥寺が居た凄さを日本人は分かっていない。
ドイツ2強の助っ人は、このように世界の一流選手達だった。
ちなみに、奥寺はブレーメン時代、バイエルンとの対戦成績は4勝3分2敗(リーグ戦)で勝ち越した。
そして、奥寺は、1985-86年シーズン後、日本に帰国した。
代わりに入団した新外国人は、現在でも「ノルウェー史上最高の選手」と評される、CB、ルネ・ブラツェットだ。

【写真解説】 1987年1月。
ブレーメン入団した、ノルウェー代表DF、ルネ・ブラツェット(25才)。
1987~94年まで、6年半、在籍した。
彼は、長身で、身長193センチのセンターバックだった。
ブレーメン入団した、ノルウェー代表DF、ルネ・ブラツェット(25才)。
1987~94年まで、6年半、在籍した。
彼は、長身で、身長193センチのセンターバックだった。

【写真解説】
ブレーメンでプレイする、ブラツェット。

【写真解説】 1989年5月。
ブレーメンでプレイする、ブラツェット(28才)。
【写真解説】
1989年。 ブレーメンでのブラツェット(28才)。
【写真解説】 1994年、5月14日。
ブレーメンでドイツ杯に優勝した、ブラツェット(33才)。
【写真解説】
ノルウェー代表でヘディングする、ブラツェット。
ノルウェー代表でヘディングする、ブラツェット。
ブラツェットは、ブレーメン時代、
バロンドールで20位(1992年)、15位(1993年)に入った。
1992年は、センターバックの中では、
ロナルド・クーマン (8位: HOL。バルセロナ所属)に次いで、欧州2位だった。
1993年は、センターバックの中では、
フランコ・バレージ (6位: ITA。 ACミラン所属)に次いで、欧州2位だった。
彼は、1990年代前半、「欧州トップ・レベルのセンターバック」で、「世界を代表するセンターバックの1人」だった。
ちなみに、ブラゼットは、「ノルウェー代表のW杯1994出場」に大きく貢献をした。
ノルウェーは、W杯1938以来、56年振りの出場だった。
彼は、ノルウェー代表では、主将を務めた。
バロンドールで20位(1992年)、15位(1993年)に入った。
1992年は、センターバックの中では、
ロナルド・クーマン (8位: HOL。バルセロナ所属)に次いで、欧州2位だった。
1993年は、センターバックの中では、
フランコ・バレージ (6位: ITA。 ACミラン所属)に次いで、欧州2位だった。
彼は、1990年代前半、「欧州トップ・レベルのセンターバック」で、「世界を代表するセンターバックの1人」だった。
ちなみに、ブラゼットは、「ノルウェー代表のW杯1994出場」に大きく貢献をした。
ノルウェーは、W杯1938以来、56年振りの出場だった。
彼は、ノルウェー代表では、主将を務めた。
当時ブレーメンは強豪で、助っ人レベルは高かった。
奥寺はアジア人なので、当時、バロンドール選考対象ではなかった。奥寺は、欧州時代は、主役タイプの選手ではなかった。チームのエースを支えている感じの選手だった。
だから、バロンドール投票の対象だったとしても、不利だったかもしれない。
しかし私は、在籍したブレーメンの外国人レベルが、バロンドール投票でこれ程、順位が高いならば、長年、そこで活躍した奥寺も彼らと同様に高いと考えている。
私は、日本人は奥寺の活躍した位置が分かっているのかと疑問に思わざるを得ない。
それでは、皆さん、さようなら。
だから、バロンドール投票の対象だったとしても、不利だったかもしれない。
しかし私は、在籍したブレーメンの外国人レベルが、バロンドール投票でこれ程、順位が高いならば、長年、そこで活躍した奥寺も彼らと同様に高いと考えている。
私は、日本人は奥寺の活躍した位置が分かっているのかと疑問に思わざるを得ない。
それでは、皆さん、さようなら。
これは、他の記事です。これは、アジカンという「ウソつき馬鹿男」の問題について書いています。
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