「サッカー日本代表の釜本記録水増し」に抗議している男のブログ。& 極悪ウィキ執筆者Athleta、別アカウントAth02問題。他に「日本代表の八百長試合事件」も抗議しています。

JFAとウィキペディア執筆者の記録捏造が酷過ぎる。JFA幹部は自分達の記録を良くする為、基準変更をした。 そして1人のウィキペディア執筆者がデマを流し、日本国民をだましている。世界に広がる釜本80点のデマ。日本人はAthleta(Ath02)の悪行を知り、早く永久追放すべし

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そして、訪問者がコメントを書いても、このブログには基本的には、表示しません。
それでもコメントを書きたい方は、書いて下さい。

2019年03月



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【 ブラジルで紹介されている、セルジオ越後の経歴。 】

                        ↓

http://scratchcorinthiano.blogspot.com/2012/02/sergio-echigo.html


セルジオ越後は、TV局スタッフをだまし、「嘘の経歴紹介VTRを作らせる」という手口を使っている。テレビを利用して「ブラジルで一流選手だった。ブラジル代表候補レベル」という全くのウソ話を来日以来、長年、発信中だ。
ブラジル時代の成績が、ネット時代前はバレない事を良い事に、「一流選手で通用していた」という大ウソをつき、多くの日本国民をだまし続けて金を稼いだ極悪経歴詐欺師だ。
そして現在、真の経歴がバレても、どこ吹く風で変わらず経歴詐称を続けている。
この男は、それぐらいの悪人である。


ウィキペディアに、セルジオ越後のブラジル時代の「所属チーム」が載りましたが、書いたのは私です。
私が調べて、この男の経歴詐称を暴きました。奇跡的にこれは削除されませんでした。
 注: Athleta  (別アカウント、Ath02)  という悪人執筆者は、よく削除妨害をします。
私は、所属チーム以外の記述は、この男に削除されました。Atheltaという男が居なければ、セルジオ越後に関する真実が、ウィキペディアで紹介できるのですが、この男のせいでできません。
ちなみに、Atheltaという人間は、「釜本邦茂の日本代表の得点記録が、80得点」というデマを長年、ウィキペディアで書いて主張している人間です。ウィキペディアの管理者と呼ばれるグループと仲が良いので、この男は無茶苦茶なことができるのです。

話を元に戻します。
ウィキペディアの内容は、書物経由の「セルジオ越後、本人インタビュー」のみが書かれてるので嘘ばかりです。
セルジオ越後みたいな詐欺師にも、熱烈なファンが居て(セルジオ越後の親類とか事務所関係者かも知れないが)、経歴、選手としての実力を、誰かが詳細に書くと「しょぼくなる」為、そこはすぐに削除される。
そして、本当は全く力のない3流選手なんだけど、さもセルジオ越後が実力があったという感じの文章に変えられます。
それぐらいセルジオ越後と同様に、平気で嘘を発信する後援者が居て、彼の真の実力は、日本人に知られないようにする体制が出来上がっています。前述しましたが、私は書いて削除されました。

私は、「プロで得点ゼロの3流以下の選手」が、『日本の為を思って辛口。これは愛情』という論法は、成立しないと考えます。

これは、元名選手がするなら、成立するかも知れません。

私は、「お前は何様のつもりだ、このカス」というのが日本社会の道徳規範だと思います。
それが分からないなら、この男はブラジルに帰るべきと思います。
私は、このバカは、「評論家なら、どんな侮辱コメントでも、何でも言って許される」と思っているアホだと思います。
そして、まず経歴詐欺師は、自分の詐欺を清く謝罪すべきだと思います。

私は、セルジオ越後の支持者とは、DV(ドメスティック・バイオレンス)を受けているが、「これには愛がある」と言って、頭が変になっている被害者と同じに思えます。
この男の発言を注意深くずっと見ていれば、「難癖」、「傲慢」、「協会と選手への僻み」、「選手への敬意なし」、「根本にある日本人差別。日本人を徹底的に見下している。ブラジル出身というだけで威張っている」 というようなモノで、3流以下の元選手(小物)が歪んだ人格を形成し、暴言を吐いているだけです。



【 強豪国は辛口が常識というウソ。評論家によって違い、幅がある。 】

この男は、「海外では失敗した選手を叩いている」と主張して、自分が選手を攻撃するのを正当化しています。しかし、これは大嘘です。
日本人は、海外の新聞を原文で読まないアホが多いので大嘘がまかり通っています。
海外の新聞を読めば優しい評論家は居り、人それぞれです。当たり前ですよね。
アルゼンチンの名将 カルロス・ビアンチ監督(クラブ・チームで世界一3回。世界最多記録を持つ名将)などはミスを犯した選手にも目線が優しい人物です。
ワールドカップ2018年、ロシア大会のグループ・リーグ、第2戦のクロアチア戦で、アルゼンチン代表のゴールキーパー、ウィルフレード・カバジェーロが大ミスを犯し、クロアチアのフォワードに間違ってパスをしてしまい、それで失点をしました。
これに関して、日刊紙クラリンのコラムで、ビアンチは、「今は、彼のメンタルを回復させる事が最も重要だ」と述べ、失敗した選手を擁護する評論をしました 。ビアンチは アルゼンチンでは大尊敬されており、このコラムは、敗戦翌日に見出し記事のすぐ下、まるで「クラリン」の社説のように紹介されていました。日刊紙クラリンは、アルゼンチンで最も発行部数の多い一般新聞紙です。
試合は0-3の歴史的惨敗でしたが、ビアンチはゴールキーパーを擁護しました。
ビアンチは、「彼は、他でピンチを救っていた」、「次の試合も絶対に彼を起用すべきだ」とも述べ、ミスを犯したゴールキーパーを批判から守っていました。
故に、南米が誰でも 、特に評論家が、「失敗した選手を叩きまくっている」などというセルジオ越後の話は、大嘘ですよ。
日本のマスコミは、ろくに海外の新聞もコラムも読まないアホが仕事しているので、セルジオ越後の話を「常識」だと信じて、それを「強豪国の常識だ」と紹介しているんです。
そして、それが日本社会にまかり通っているのです。
セルジオ越後が一人で環境作りをして、それに成功したという感じです。
この男 (元3流以下選手)が日本人に対して、偉そうに侮辱や難癖を言いたいので「叩くのが当たり前」、「叩くから強くなる」と主張して、自分の酷いやり方を自己正当化しているだけに過ぎないのです。
しかし、日本人は、それを全く読み取れていません。
これも日本人が、「ブラジル人詐欺師」にだまされている事の1つでしょう。
強豪国に厳しい評論家が居る事は事実です。
日本でも有名なオスバルド・アルディレス (アルゼンチン代表。W杯1978優勝メンバー)は、この敗戦翌日、同じ新聞上で「史上最低のアルゼンチン代表チームだ」と猛批判しました 。この記事は、ビアンチよりかなり小さな扱いでした。
故に、強豪国では、このように容赦なく批判する元選手も居ますが、ビアンチのように擁護する人も居て、人それぞれです。
つまり、強豪国は、「人それぞれ」が常識で、色々な意見を各評論家が述べる。幅があります。
セルジオ越後が、「叩くのが常識」と日本人に説明しているのは、「大ウソ」という事です。

その他に、日本のマスコミは、海外ニュースで、「一番刺激的で厳しいコメント」をニュースとして選びます。
それを日本人は、丸っきり分かっていません。ビアンチではなく、アルディレスのようなコメントを選ぶ訳です。「マラドーナが怒っている」などの話は、最たるモノです。
南米でも 「怪我人が出たので優勝できなかったのは仕方ない」、
「優勝できなかったのはとても残念だけど、久し振りに決勝進出をして、世界に我が国のサッカーの威厳を示す事ができたので、今回は良い大会だった」
などのコメントをする評論家、元名選手は居る訳です
ちなみにワールドカップ2014年で準優勝したアルゼンチン代表チームが、帰国後、大統領に招待され、健闘を称えらました。
その時、その建物の周りには大勢のサポーターが集まり、同じく健闘を称え、歌を歌い、選手名をコールして盛り上がっていました。
建物の外で、メッシにブーイングはありませんでした。
そして、大統領は、
「ドイツ代表GK、ノイアーが、イグアインにぶつかったプレイはファウルだった。我々は優勝できるはずだった」
と選手達に同情する言葉を述べました。
 これらは、セルジオ越後の話が、大嘘だと分かる事例です。
故に、評論家も人それぞれ、サポーターも人それぞれという事です。
強豪国においても 「準優勝だけど、このチームはよく頑張った」と評価して称える人は、数多く居る訳です。
この男が 「強豪国では、優勝できなかったら叩くのは当たり前」とか、「強豪国は優勝するまで叩く」というのは、あくまでこの男個人の主義であり、強豪国の常識ではありません。
この男は、この話をいつも出して、自分が日本人選手を侮辱して叩くのを正当化しています。
セルジオ越後は、「自分が日本人を叩いた反発・反感をかわす為」に、こういうウソまでつき、叩いているのです。


【 セルジオ越後の経歴詐称発覚、決定的証拠写真。 】


セルジオ越後の公式サイトの経歴は、当然、嘘ばかりです。
ブラジルで報じられている経歴と、全く違います。
この男は、来日以来、一度も「どこのクラブに何年在籍した」等、正確な経歴を、日本人に紹介した事が全くない。
なんと「所属した全チームを一度も日本国民に紹介せず、45年以上も過ごしている」という評論家です。それ程、社会常識のない人間です。

ウィキペディアの在籍クラブについては、本人が語ったものではなくて、ネット時代になり、最近バレたものです。そこだけ信用できます。
故に、ネット時代が到来しなかったら、この男は死ぬまで日本人をだまし続けおおせたしそのつもりだったでしょう。
この男は、嘘の情報を日本人に伝えてだまして、「敬意」と「金(カネ)」を集めるのを目的としています。それを止める事はありません。

セルジオ越後は、マスコミ出演では、ビッグクラブのコリンチャンスで引退した」と自己紹介します。そして、「それ以外のチームに所属していない」と日本人に説明します。
その時に、コリンチャンスの数少ない集合写真、僅か11試合出場したうちの1枚ばかりを見せます。
その後、
コリンチャンスで活躍していた選手で能力はあったけど、自分から引退した。自分は下手だった訳ではない
と毎回、話します。
オリンピックのブラジル代表に選ばれ、内定していた。
しかし、
コリンチャンスとその前に契約したので、オリンピックに参加しなかった。私は、ブラジル代表に選ばれるレベルの選手だった
というのも毎回、話します。
毎回、こうして日本人をだまします。
しかし、ネット時代ですから、調べたら、全部、この男の話の真偽が判明します。
それにより、私は、真実を知ることが出来ました。

セルジオ越後は、東京オリンピック1964年大会のオリンピック南米予選に、ブラジル代表として1度も試合出場してません。招集もされていません」。
南米予選に1試合も出場していない選手が、「オリンピック本大会の代表メンバーに内定している」という事は、普通は起きません。

そして、ネット時代ですからね。セルジオ越後がブラジル2部チームに所属していた時の集合写真が出て来た訳ですよ。
それがこれです。

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後列一番右端、セルジオ越後です。
コリンチャンスの試合と違って明らかにお客さんが少なくて、こじんまりとしたスタジアムというのが、分かりますよね。
ユニフォームがコリンチャンスと全く違いますね。どこのチームか全然、分かりませんよね。
これは1968年の「 トレスポンターノ 」というチームです。
ミナスジェライス州、ブラジル2部チーム」の集合写真です。

私は、これを見た時、
「あれ、セルジオ越後って、ビッグクラブのコリンチャンスでずっとプレイしていて、自分からコリンチャンスを辞めて、引退したんじゃなかったの?」
と思いました。
つまり、セルジオ越後はずっと詐欺していて、今も詐欺しているんです。
だから、セルジオ越後が、日本国民に対して長年、説明をしている「コリンチャンスで活躍した」、「実力があったけどコリンチャンスは自分から辞めた」なんていう話は、全部ウソです。
この男は45年以上、異国の地でずっと嘘をつき続けて来たんです。
そして、今もそれを続けています。
セルジオ越後は、コリンチャンスでは「2年在籍、僅か11試合出場で 無得点」です。
本当は実力が全くなく、たった2年でクビになり、2部チームへ行っていました。

その後、2部でも活躍していません。
セルジオ越後が説明をしている 「自分はブラジルで一流選手だった」、「コリンチャンスで活躍した」などという話は、全くのウソです。

この男は、「ブラジルで0得点。日本で6得点」 です。
それにも関わらず、私は、なぜセルジオ越後が「ブラジルでも日本でも、自分は活躍した」と日本人に説明するのか不思議で仕方ないです。 
これ程、乏しい成績の記録が明確に存在しているが、なぜ「活躍した」と言い張るのか? 
セルジオ越後は、辛口コメンテーターとは思えない程、自分には甘口の評価です。



【 セルジオ越後、本当の経歴。 】

本当の経歴 (ブラジルの幾つものメディアが紹介してる)は、以下です。
日本人にメディアで紹介しているものと、全く違う。
最近、やっとバレてウィキペディアに載るようになり、ブラジル時代なんと0得点が発覚した。


【 本当の経歴 】

「19才」でコリンチャンスと契約し、翌年に即、解雇された。
「18才で契約した」 と日本人に話しているのもウソです。 本当は19才で契約しています。

セルジオ越後。 1945年生まれ。

1964-1965  コリンチャンス    (サンパウロ州 1部)   11試合 0得点。
1967-1968  トレスポンターノ (ミナスジェライス州 2部)   記録不明。
1971       ブラガンチーノ   (サンパウロ州 2部)  記録不明。
1971       パウリスタ (サンパウロ州 1部)  記録不明。
1972-1974 藤和不動産(日本 1部) 40試合 6得点。 


[ 解説 ]

セルジオ越後は、ブラジルでは活躍どころか、どこのチームに在籍しても活躍したことがない。
コリンチャンス退団後、その後、ブラジル2部でもすぐに解雇。どこでも長く在籍した事がない。
セルジオ越後は、日本で初めて短期間で解雇されず、3年以上、同じチームに在籍できた。
セルジオ越後のブラジル2部時代の成績は、あまりにもマイナーなクラブなので、記録が残っていないか、もしくは、ブラジル・メディアでも見つけるのが困難な状況なのだと思います。
ブラジルのメディアは、どこも「記録不明」の扱いなんです。
故に、ブラジル2部では、何試合に出たのかすら全く分かりません。
そして、1部のパウリスタに1年も満たない期間所属していますが、これも試合に出られたのかどうかすら分かりません。これも記録不明です。本人に聞くしか真相究明が不可能。ブラジル人でも分かりません (笑)。
この男は、出場していたら、パウリスタ時代の集合写真を見せ、自慢すると思います。
それをしていないので1試合も出場できず、ただ所属していただけの可能性が高いと思います。
パウリスタ時代の写真は、ブラジル・メディアでも1枚も紹介されていないので、恐らく、セルジオ越後は、試合出場は、全くできなかったと思います。

セルジオ越後は、ブラジルでの各クラブの在籍期間が、短か過ぎます。
恐らく、彼は
、プロの試合に30試合以上出ていないでしょう。
この男は、日本人の想像以上にプロ経験が乏しいです。それを経歴詐称して隠しています。

その後、「日本初の元プロ外国人選手」として鳴り物入りで来日したが、「40試合で、僅か6得点」という信じられない得点能力の低さを見せた。
日本のトップ選手に全く敵わない実力でした。

セルジオ越後は、「日本に来たブラジル人フォワードでは、史上最低レベルの成績」です。
彼は、日本のアマチュアに大負けしたプロ選手です。
しかし、日本での経歴も 「活躍した」と詐称している。

日本での成績。 プロだが日本人に全く敵わない、酷過ぎる。

【 選手時代、計3シーズンの日本人トップ選手との比較 】

セルジオ越後  1972-74  3年間で、40試合   6得点。 アシスト  5
釜本邦茂       1972-74  3年間で、48試合  49得点。 アシスト 15
松永章     1972-74  3年間で、 50試合  40得点。

参考として、タイ人ミッドフィルダーでアマチュア助っ人選手の成績を紹介します。
ヴィタヤ・ラオハクル 1977-1978 2年間で、33試合14得点です。
当時、日本はプロ禁止でしたので、ラオハクルは日本では会社員の位置づけです。しかし、ラオハクルは、元プロのセルジオ越後より優秀な成績でした。

セルジオ越後は、日本では、僅か3年で引退しました。 
助っ人で「3シーズンで、6点しか取れない」なら当然ですね。
この男より、他のブラジル人を獲得した方がましだったのです。
セルジオ越後に代わって入団したカルバリオは、1年で23得点した。

現状で、セルジオ越後が、選手時代、決めたゴール数は、確認できるモノは、日本・ブラジル合わせて、たった「6ゴール」のみです。

「低レベル、会社員 日本人選手」にも全く及ばない、酷過ぎる成績です。
これで日本に「助っ人」で来たというのだから愕然とする。
しかも、27才という脂の乗った全盛期で、この成績だ (27-29才 日本でプレイ)。
彼は、ブラジル2部でもすぐ解雇されるレベルだから仕方ないのでしょうか。
セルジオ越後は、「プロの肩書き」で来日して、「自分だけプロ。残りは全員アマチュア」という環境でした。
しかし、40試合6得点でした。
一方、日本人トップ選手は、同じ期間にほぼ同じ試合数に出場し、40~50得点を取っていました。セルジオ越後の「約 8倍」の得点成績を残しました。
セルジオ越後は、アマチュアの日本人トップ選手に全く及ばない実力でした。
しかし、テレビ出演では、「自分はブラジルで一流選手だった」と自己紹介しますから、私は、「セルジオ越後は、頭がおかしい男では?」と思う程です。
時々、天皇杯でプロ・チームが大学生 (アマチュア)に負けると、この男は、「プロが情けない」と批判して威張り散らしてます。
私は、それを見ると、「お前の現役時代はなんなんだよ」と言いたくなります。
こんな奴が日本でコラム連載を持ったり、日本代表の試合後にコメントをテレビ局から求められて、「日本人は、まだまだ実力不足」と、ほぼ毎回、偉そうにコメントしている訳です。


「セルジオ越後、経歴詐称 2」へ進む。



日本代表記録は、日本サッカー協会の捏造です。
そして極悪ウィキペディア執筆者のAthleta(別名Ath02)が、釜本のウソ得点数(80点、又は75点)をデマで流しています。
私は、その酷い事実について、ライブドアブログに書こうと思いましたが、疲れました。
以前にそれについて書いたモノがあります。
サッカー・ファンの方々、その酷い事実を是非、知って下さい。

こちらを読んで下さい。


http://rulli.livedoor.blog/archives/17118096.html



 それでは、皆さん、さようなら。

【 奥寺康彦、日本史上最高のサッカー選手。私が、日本国民に語られていない奥寺氏の歴史を紹介します。
奥寺康彦は、「ケルン優勝に貢献した選手」、「ブレーメンのレジェンド」です。】


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【写真解説】
ケルン2冠達成(1978年) 記念写真。中段右から2人目が、奥寺康彦
隣(右端)が2年連続リーグ得点王、ユーロ1976年大会得点王のディーター・ミュラー
中段左から2人目がMF クルマン、後段右端が MF フローエ
2人はボランチで「W杯1974年、優勝メンバー」だった。
中段左端がMFノイマン。彼は引退したオベラートに代わる新司令塔。
前列左端が ベルギー代表FW ロジャー・ファン・ホール
前列中央、GK、ドイツ代表、シューマッハ(W杯1986で大会最優秀選手、次点)。
前列右端が CB シュトラック
以上が主力メンバーで、リーグ最多得点、86得点(34試合)、欧州最高得点率(2.5点)で優勝した。1試合当たりの得点率が2.5点でした。 これは、欧州5大リーグ全94チーム中、1位でした。
他国の得点率1位との比較は、以下だ。1978年 ケルン、ボルシアMG(2.5)、レアル・マドリード(2.3)、モナコ(2.1)、エバートン(1.8)、ビチェンツァ(1.5)。
  [ 解説: ケルン、ボルシアMGの2チームが、同率で欧州1位でした ]。

私はウィキペディアに書き、妨害され3回も全削除された。
packingu(超馬鹿男)、プーヤンら利用者が全削除した。 
奥寺のウィキペディアの内容は信用できないと考えて下さい。不正確です。レベルが低いです。
恐らく、試合を見てない人間が書いています。



奥寺康彦は、「僕は呼ばれて、ヨーロッパに行ったんだ」と説明している。
奥寺氏は、後続の日本人選手とは、「移籍の内容・レベル」が全く違う。
彼は「世界の超一流監督、ヘネス・バイスバイラー」に熱望され、最初から「欧州最高リーグの強豪チーム」に入団した。
奥寺が入団したケルンは、昨シーズン、「リーグ戦5位」で、「ドイツ杯、優勝」チームだった。
奥寺氏の時代は、ドイツが欧州最高のリーグだった。現在と全く違う。
現在、ドイツ・ブンデスリーガは、1990年以降、欧州1位リーグになっておらず、30年近く、欧州3位、4位のリーグと化しており、長期間、レベル低下中だ。
奥寺は他の日本人と違い、欧州3位以下のリーグ、例えば、現在、日本人の多くが移籍するドイツや、下位チーム、小クラブに移籍したのとは全く違う。
つまり、奥寺の入団した当時のケルンは、「欧州最高のリーグの強豪チーム」だったのだ。
現在のケルンと同じに考えてはいけない。

また奥寺は、中田英寿、香川真司と違い、ライバルが出現しようと、本来と違うポジションを要求されようと、大体、いつも勝利して先発で出場した。
また彼らと違い、全く一発屋ではなかった。
34才でも「世界の一流選手」で衰えず、最後まで通用したまま、日本に帰国した。




奥寺康彦、日本史上最高のサッカー選手。
日本がワールドカップに出場する20年前、既に世界トップレベルに居た。 



奥寺康彦。  1952年、秋田県出身。


【所属チーム】

1970-1977 古河電工
1977-1980 ケルン 
(70年代後半は強豪。W杯1978とユーロ1980で、ドイツ代表に最も多く選ばれたチーム)。
1980-1981 ヘルタ・ベルリン
1981-1986 ブレーメン 
(80年代中頃は強豪チーム。得点成績は、欧州最高だった。ドイツでは、バイエルンと2強だった)。



奥寺康彦は、欧州リーグに挑戦した7人目のアジア人である。
「プロ化以降とするならば、奥寺は6番目に挑戦したアジア人選手」である。

一番最初は、1920年代、バルセロナで大活躍したフィリンピン人、FW、パウリーノ・アルカンタラ
ちなみに、当時のスペインは、アマチュア・リーグでした。まだプロ化していませんでした。1929年からプロ化しました。
アルカンタラは、リオネル・メッシに抜かれるまで、「FCバルセロナで得点数がクラブ歴代1位の選手」だった。成績は、395得点(399試合)です。
(注: これは、公式戦と親善試合の合計です。公式戦だけならば、アルカンタラの得点数は少ないです)。
アルカンタラは、公式戦のみだと、143得点(141試合)です。
しかし、アルカンタラはフィリピン生まれだが父親がスペイン人だった。そして、3才で既にバルセロナに移住して、同地で育った。
彼はアジア人初だが、中身はスペイン人だった。

2番目以降は全員プロ選手でした。
イラン人のフォワード、ホセイン・サダギアニ(Hossein Sadaghiani)。
彼は、1930年、ベルギー2部のシュルルロワSCに入団した。
そして、2年間で「42試合、28得点」の活躍をした。


3番目は、イラン人の左ウィング、ボユク・ジュディカル(Boyuk Jeddikar)。
彼は、1957ー58シーズン、ドイツの1部のチーム、「BFCビクトリア1889ベルリン」に在籍した。
しかし、家庭の事情により途中でイランに帰国した。彼は9カ月間、活動した。その後、ドイツには戻らなかった。
彼の成績は不明です。


4番目は、イラン人のウィング、パルビズ・クーゼカナニ(Parviz Koozehkanani)。
彼は、1957年にケルンに入団した。「2試合0得点」だった。活躍できなかった。1年で退団した。
翌1958年、同じくドイツのレバークーゼンに入団した。「4試合0得点」だった。また活躍できなかった。
この後、イランに帰国した。


5番目は、香港人のフォワード、チャン・チ・ドイ(Cheung Chi Doy)。
彼は、1960~62年の間、イングランド1部リーグのチーム、ブラックプールに所属した。2シーズン在籍して「2試合出場、1得点」の成績だった。活躍できませんでした。
ちなみに、彼は香港人だが、台湾代表で活躍しました。
台湾代表では、「35試合出場、17得点」の成績でした。


6番目は、イラン人のフォワード、モハマド・レザ・アデルカニ(Mohammad Reza Adelkhani)。
彼は1966~72年の間、ドイツの2部のチーム、ロートバイス・オーバーハウゼン、バッパーターラーSVボルシア、バッテンシャイト等で活動した。
そして、1972年にイランに帰った。
イラン代表では、「17試合2得点」の成績だった。

まとめると、アルカンタラは欧州で活躍したが、親がスペイン人で3才からスペインで育った人物だった。中身はスペイン人だった。
そして、その後、イラン人が4人、香港人が1人挑戦した。
アジアでは、イラン人ばかりが欧州に挑戦していた。
しかし、1部リーグでは誰も活躍できなかった。
イラン人はボユク・ジュディカルが1部で活動したが、9カ月間でイランに帰った。
そして他の選手は、ベルギー2部、ドイツ2部で活動するのが限界だった。
故に、私は、実質的にアジア人で挑戦した最初の成功者は奥寺であると思う。




日本の馬鹿マスコミが、「アジア選手が世界に遅れていて徐々に進歩した」と語る歴史観は大間違いで嘘である。
奥寺は、欧州最高のリーグで、1位や2位チームの助っ人だった。
韓国人フォワード、チャ・ボングンは、その最高のリーグで「外国人最多得点記録」(98得点。1998年まで9年も破られなかった)を作った。
アジア人は、1970年代後半、日本と韓国の2人が欧州挑戦して、当時の欧州最高のリーグ、ドイツ・ブンデスリーガで簡単に大活躍した。
約10年もの長い間、活躍した。
アジア人にとって昔は、欧州のトップクラスで活躍するのは簡単だった。
しかし、1990年代から、急激なレベル低下が始まって通用しなくなった。
三浦知良、中田英寿、小野伸二、中村俊輔、アリ・ダエイなど、2流選手の登場により、一気にガタ落ちした。
日本の黄金世代は大嘘で、1980年代の日韓2人と違い、欧州最上レベルで通用しなくなった。
その後も、香川真司、遠藤航、パク・チソン、ソン・フンミンなどの選手達が、昔のアジア人のレベルの高さを超えられない状態が続いている。





【奥寺の評価 & 成績。】

奥寺康彦は、2014年、アジア・サッカー連盟が創設した、『アジアの殿堂』に、日本人で最初に選ばれた。
日本からは奥寺と澤穂希の2人です。

2014年、ブンデスリーガから『史上最高の日本人助っ人選手』に選ばれた。
               


奥寺康彦は、(欧州最高のリーグ時代)ブンデス・リーガで、優勝1回、2位 3回、5位3回、6位 1回。 6位より下が無い。
ずっと上位チームに居た。
(リーグ2位3回のうち、2回、勝ち点は1位だった。得失点差で2回優勝を逃した)
ドイツ杯は優勝1回、準優勝1回、ベスト4が1回で、傑出した成績だ。



奥寺は、「欧州時代9年中3年は、欧州一の攻撃力を持つチーム」に居た。(ケルン1978年、ブレーメン1985、86年)。 凄過ぎる話だ。 

奥寺が在籍した、1981年のヘルタ・ベルリンは、「123得点(42試合)」を挙げ、
ブンデス2部、シーズン最多得点記録」を作った。(2019年、現在)。
凄い。
これは、2部での成績だけど、偉業であろう。
ちなみにヘルタ・ベルリンは、「123得点」もしたが、「2部3位で、1部昇格できませんでした」。
珍しい話です。
しかし、ドイツ杯では、2部チームでしたが準決勝進出して、皆を驚かせました。
昇格失敗しましたが、この年のヘルタが優れたチームだった事は確かです。

奥寺が所属したチームは、「攻撃成績」が素晴らしい。
奥寺は得点能力が高いミッドフィルダーではなかったが、クロスを上げアシストで貢献していた。また、前線に飛び出すとヘディングで競り勝つ事が多かった。
彼は、チームの攻撃力が良くなる要因を作っていた。
  
                                        
奥寺は、優勝争いのライバル、ビッグ・クラブ、バイエルン・ミュンヘンとの対戦成績は、
6勝3分け3敗(リーグ戦)。大きく勝ち越した。 
ちなみに、韓国人のチャ・ボングンのバイエルン戦の成績は、5勝4分け10敗(リーグ戦)です。



UEFAリーグ・ランキングで、1976~1984年迄、ブンデス・リーガが欧州1位だった。(注:1985年は欧州3位、1986年は2位だった)。
この期間は、奥寺康彦の居た頃と丁度、重なり、
彼はそこで1位、2位の強豪チームで外国人助っ人だった。  
欧州は、1980年代は、外国人枠2人だった。しかし、奥寺は欧州最高リーグの強豪チームに長い間、所属して活躍した。
ちなみに、奥寺氏は、1985、1986年は、「ドイツ最高齢助っ人」だった。
中田、本田、香川、パク・チソンらは、外国人2枠なら上位チーム在籍は無理だった。恐らく、欧州移籍すら不可能だったろう。
当時、外国人枠がたった2人だったので、ブラジル、アルゼンチンでは「代表主力のみ」が欧州移籍できた。
残りの代表選手は国内に居た。
ちらほらと代表選手クラスじゃない選手も欧州に居ました。しかし、昔は、基本的に代表主力クラス、南米のスターが行く時代でした。
だから「欧州で助っ人」だった時点で、奥寺は相当、凄かった訳たが、日本人はそこを理解していない。



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【写真解説】 
国内リーグとドイツ杯優勝、2冠達成(1978年)を祝う、奥寺康彦。
ケルンは14年振りのリーグ優勝だった。
奥寺の活躍以来、ケルンは40年以上リーグ優勝していない2018年 現在)。
ケルンでは、未だにこの2冠優勝は歴史上、最高の出来事とされている。
この時代、2冠達成は難しくて珍しい事で今より偉業とされた。
このチームは、ドイツ史上、2冠達成した3つ目のチームで、歴史的チームとされている。
2冠達成は、1937年のシャルケ、1969年のバイエルンに次ぎ3チーム目だった。
20世紀中では、あと1986年のバイエルンのみで僅か4チームです。
現在まで2冠達成チームはリーグ史、83年で15チームある(2018年現在)。
しかし、2000年以降の18年間で11チームも生まれた。
つまり、21世紀に入って、2冠達成は容易になったのである。
奥寺は、「ケルン史上最強」と評されるチームのメンバーだった。

ヘネス・バイスバイラー監督は、
奥寺は優勝を果たす為に、最も重要なゴールを決めてくれた。
サッカー選手はサッカー選手です。日本でもドイツでもどこでも才能は生まれるものです。奥寺は素晴らしい才能があり、彼を使うことができて幸せです」
と優勝当時、述べた。
彼は祝勝パーティーで、優勝を決める活躍をした奥寺に向かって敬礼をしたそうだ。


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【写真解説】 
右が、ケルン史上最高の監督名将ヘネス・バイスバイラー。
当時、世界屈指で、ケルンの前はFCバルセロナ監督を務めた。
左がボランチ、ハインツ・フローエ(W杯1974年優勝メンバー)。2冠優勝を祝う2人。




【 奥寺が、リーグ残り3節、3試合連続ゴールを決めて優勝をもたらす大活躍をした内容。 】
は以下である。

1977-78シーズン、第32節アウェー、カイザースラウテルン戦で、ケルンは、1ー0でリードしていた。後半37分、左CKを得た。
このコーナーキックのボールをニアサイドに居た奥寺が、すらすヘディングで決めた。ケルンは2-0で勝利した。

第33節ホーム、シュツットガルト戦で1対1の同点の時、
後半35分、
奥寺が決勝ゴールを挙げた。
これでケルンは、2-1で勝利した。
この決勝ゴールは、まず、右サイド後方からの味方のクロスを相手CBがヘディングで跳ね返した。
そのボールをペナルティー・エリア中央、奥寺が、ダイレクトで左足でシュートして決めた。
この得点は、ケルン優勝の為に非常に大きかった。
世間では、奥寺氏が最終節に決めたヘディング・ゴールが有名なので、そればかり話題になる。
しかし、私が、奥寺氏がメディア出演した時の様子を見ると、奥寺氏本人は、このシュツットガルト戦の決勝ゴールの重要さを、日本のサッカー・ファンにもっと理解して欲しいようである。

最終節アウェー、ザンクトパウリ戦で、ケルンは5-0で勝利した。
この試合、奥寺は後半15分と41分にヘディングで2ゴール決めた
後半15分、右CKをニアでヘディング、後半41分は、右サイドからのクロスを左サイドで決めた。
(後半41分のゴールは、2014年、「ケルン歴代ゴール第2位」に選ばれた。
そして、同年、ブンデス・リーガから、「リーグ史上最高のヘディング・ゴール」に選ばれた。
ちなみに、当時、「月間ベスト・ゴール」に選ばれました。)
奥寺は優勝に貢献するゴールを3試合連続で決めた。
ケルンは、ボルシアMGと同勝ち点でリーグ終了をした。しかし、得失点差で3点上回り優勝をした。



【動画解説】
2014年、奥寺康彦のヘディング・ゴールは、「ブンデスリーガ史上最高のヘディング・ゴール」に選ばれた。
これは、「ケルンの優勝が掛かった試合で決めたゴール」でした。だから、高く評価されました。




【動画解説】
これは、「奥寺康彦氏のリーグ戦、初ゴール」の映像です。
これは、「アジア人がドイツ・ブンデスリーガで決めた最初のゴール」でした。



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【写真解説】 ケルン時代、ウィングでヘルタ・ベルリンと戦う奥寺康彦。





【 私が考える奥寺康彦の凄いポイントを、9つ紹介。 】

まず最初は、「世界の一流選手になれる環境で育っていないが、それを実現した事」だ。
当時の日本は遅れていて、しかも奥寺氏は中学からサッカーを始めた。
奥寺は、中学校に入学するまで、サッカーというスポーツをよく知らなかった。
中学入学後、初めて「サッカー・ボール」というのを間近でよく見たそうだ。
奥寺氏は、中学時代、最初、卓球部に入部した。
奥寺氏は、小学校時代、時々、卓球で遊んでいた。それが理由で卓球部に入部した。
しかし、1年生は、台で打たせてもらえず、苦痛だった。
そんな時、奥寺少年が卓球場から外を見ると、サッカー部が練習していた。
奥寺氏は、「あれがサッカーっていうのか。たくさん走って嫌なスポーツだな」と最初、思ったそうだが、「卓球部に居るよりか良さそうだ」という事で、サッカー部へ転部したそうだ。
奥寺氏は、「最初の頃は、トゥー・キックしかできなかった。インステップが難しく、習得するのに時間がかかった」と話している。
奥寺氏は、小学校時代、全くサッカーをやってないのだ。
これは、相当に不利な話だ。現代の世界のトップ選手で、そんな人は1人も居ないだろう。
奥寺氏が、小学校時代からサッカーを始めていたら、確実にもっと良い選手になっていただろう。特に技術面で、もっとハイレベルな選手になれただろう。
私は、その点はとても残念である。しかし、日本では、時代がそうだったので仕方ない事だ。
また、奥寺氏の著書によると、奥寺氏の中学校には、最初、
「ハンドボールのゴールしかなく、サッカーのゴールが無かった」そうだ。
昔の日本は、環境は悪く、用具が揃っていなかったのだ。
その後、顧問が、近所の鉄工所に頼み、サッカー・ゴールを作って貰ったそうである。
それ程、当時の日本は、「サッカー競技の普及」が全く進んでいなかったのである。
そして、奥寺氏が中学2年の時に、「日本で初のサッカー雑誌」が刊行された。
つまり、「情報面においても、当時の日本は遅れていた」訳である。
テレビを点けてもサッカーなどやってないし、活字でもサッカーを報じる書物が全くない。
奥寺氏は、10代の時、
「テレビを点けて、一流選手のプレイを見て参考にする。影響を受けてマネをする」という現在の少年が、一番、サッカーをうまくなる手段の1つを持っていなかったのである。
現代の少年ならば、更に充実しており、ユーチューブ等でも様々な試合、技術を見て、上達に役立てる事ができる。
また、昔の南米選手は、ペレ、マラドーナ等、貧乏ゆえ、家にテレビが無くても、親に連れられ、「スタジアムに行って一流選手のプレイを見る」という事をしていた。
また「学校から帰宅後、プロ選手の練習を観に行く」というのも可能だったそうだ。
昔は、南米は、それ程、セキュリティーが厳しくなく、練習見学をできたそうだ。
南米の名手の中には、「それがとても参考になった」と話す人も居る。
奥寺氏には、そんな事はできなかった訳である。
日本は、サッカー不人気国で、日本には世界の一流選手など1人も居なかったからである。
レベルの高い試合など、日本には無かったからである。
当時、奥寺氏は、世界の視点で考えると、「環境的には、相当に不利な選手であった」と言えよう。
そんなサッカー後進国過ぎる環境で、奥寺少年はサッカーを始め、
「欧州最高のリーグの優勝争いするチームで、助っ人として長年、活躍した」訳だから、ほとんど彼の成功は、「あり得ない話」というレベルだろう。

また、奥寺氏は、高校卒業後、社会人チーム(古河)に入団したが、当時、「練習が、2日に1回」だった。
また、奥寺氏には、「夜勤明けの練習」という過酷な日があった。
奥寺氏は、夜勤明けに仮眠した後、練習をしていたそうだ。
私は、現在の選手は仕事もせず、毎日練習しているが、全員、奥寺以下の実績しか残せないのは、本当に不思議である。
また、奥寺氏は20才から1年間、深刻な腰痛に悩まされた。この腰痛は、入院・手術をするレベルで、周囲に「引退宣言」をしていたそうだ。
当時、「もう、俺、サッカーできない。終わった」と、半ば諦めていたそうである。
その後、奇跡的に腰痛が治り、再びサッカーをする事ができた。
つまり、奥寺氏は、社会人時代は、練習は2日に1回の為、練習量は少なかった。そして、腰痛に悩まされ、1年間、棒に振った。
「フル・パワーでサッカーをできない」という状況に追い込まれ、入院までしたという選手である。
つまり、「他の選手に比べ、かなり練習時間が不足していた選手」である。
しかし、奥寺氏は、その後、「欧州最高のリーグの強豪チームで、助っ人をこなした」のである。
しかも奥寺氏は、34才まで通用して、通用したまま日本に帰国したという「余裕の活躍」であった。
こんな話は他にあるだろうか? 私は聞いた事がない。
私は、奥寺氏の成功は、本当に「あり得ないレベルの話だ」と思う。


2つ目は、奥寺は1985年、86年、2年連続で、欧州5大リーグで「高齢、外国人助っ人3位」だった。ドイツでは、最高齢助っ人だった。
[ 1986年、欧州、高齢助っ人 順位。 ] 
1位 デリオ・オニス 38才(フランスで得点王 最多5回。アルゼンチン人、FW)
2位 ウバルド・フィジョール 36才。(W杯1978優勝。アルゼンチン代表 名GK)
3位 奥寺康彦、    34才 3月12日生。(日本人、MF)。
4位 バヒド・ハリルホジッチ  5月15日生。(フランスで得点王2回。ユーゴ代表)
5位 オスバルド・アルディレス 8月 3日生。
(W杯1978優勝。アルゼンチン代表、名MF。トッテナム所属)。
6位 ダニエル・パサレラ  33才  
(W杯1978優勝。アルゼンチン代表、名CB。インテル所属)。

7位以降は、同じく33才でファルカン(ローマ所属。ブラジル代表、MF)等が居た。
この頃、他は超一流だらけだった。 
奥寺は、1980年代、欧州で最も長く活躍した外人助っ人の1人だった。

奥寺の凄い点、3つ目は、欧州9年間で、イエローカードがたった7枚 (313試合出場)。退場ゼロ
奥寺は「ファウルせずにボール奪取できる達人」
(欧州で、長谷部67枚、稲本33枚、長友29枚、内田19枚 [内田は奥寺の半分の試合数])、遠藤航、32枚。)
奥寺氏は、「僕はボール奪うのがうまかったからかな(笑)。警告が少なかった」と語っている。
だから、レーハーゲル監督は、奥寺氏をセンターバック起用して、欧州最高の選手、カール・ハインツ・ルンメニゲ(バイエルン所属)のマークを任せた場合もあった。
さすが世界超一流の守備能力、「世界のオク」だ。
奥寺氏の警告枚数の少なさ、7枚は、MF、DFでは、サッカー史上最少レベルである。
ちなみに、奥寺氏は、ドイツ時代、ルンメニゲとの対戦成績は、
5勝1分1敗(リーグ戦)で圧勝している。


よく、こう書くと、
「奥寺の1980年代と、今ではジャッジの基準が違う。今の方が昔よりイエローカードが出易い」
と批判して来る人間が居る。
そういう人間の為に、奥寺氏のチームメイトで、名選手のイエローカード枚数を教える。
DM、ベルント・シュスター 108枚(534試合)
DM、ハインツ・フローエ   28枚(464試合)
DM、ベルンハルト・クルマン 22枚(453試合)
DM、ミルコ・ボタバ     93枚(880試合)
CB、ブルーノ・ペッツァイ  57枚(584試合)
OM、ノーバート・マイヤー    40枚(398試合)
 
 奥寺は、たった7枚(313試合)だ。「文字通り」、桁が違う差なのだ。
 
 つまり、奥寺氏は「時代が原因で、イエローカードが少なかった」のではなく、同時代の名選手(チームメイトで代表クラス)と比較しても、断トツで警告を受ける事が少ない選手だったのだ。

奥寺の凄い点、4つ目は
数多くのポジションを務められる事だ。超ユーティリティー選手だ。
中田英寿、本田圭佑、香川真司は強豪クラブに移籍するとベンチに座ったが、奥寺はこの優れた特徴により、1980年代、欧州最高のリーグでも先発で活躍し続けた。
この長所は他の日本人選手と格の違いを示した。
中田は複数のポジションをこなす能力がない為、ローマでベンチ生活となったが、奥寺はフォワード、サイドハーフ、ボランチ、両サイドバック、センターバックができる戦術センスに長けた名選手だった。
奥寺はフォワード、ミッドフィルダー、ディフェンダー全てこなせる事ができた。
更に両足が器用なので、左右両サイドのポジションでプレイするのが可能であった。
奥寺はグラウンドの前から後ろ、左右まで数多くのポジションをこなせる、とても珍しいタイプの選手だった。だから奥寺は先発で通用した。
ケルン時代は、両ウィング、センターフォワード、左サイドハーフ、ボランチ。
ヘルタ・ベルリン時代は、左サイドハーフ、ボランチ、右サイドバック。
ブレーメン時代は、両サイドハーフ、両サイドバック、更にセンターバックで起用された試合まであった。
奥寺はグラウンドのどこでもプレイする事ができた。
ブレーメン監督、名将オットー・レーハーゲルは、
奥寺はどんなポジションでも起用すれば、すぐに自分のモノにしてしまう。色々なポジションができる。監督にしてみれば理想的な選手だよ
と称賛していた。
レーハーゲルは対戦相手に応じて、奥寺を起用するポジションを幅広く変える事ができた。
またレーハーゲル監督は、
奥寺が左サイドハーフでサイドの攻撃、守備に貢献する事に加え、中盤でチームのバランサーとしても働き、他に俊足を飛ばして敵のカウンター攻撃を防いだりと、豊富な運動量で色々な役割をこなして広くプレイする特徴を、
「奥寺を得たら3人選手が居るのと同じ。奥寺は3人分の仕事ができる名手」
とも称賛していた。
また当時、
「奥寺は本当に頼りになる選手なんだ。
私は今まで、奥寺ほど頭脳的なハードワーカーの選手を、戦力に持った事がない。
チーム全員が奥寺の貢献度を高く評価している。
奥寺は技術とスピードを兼ね備えた選手だが、チームの為に率先してハードワークをする選手なんだ。私はそこを一番評価している」
と語っていた。
2013年のNHKの取材では、
「奥寺を獲得したら予想通り素晴らしい選手だった。
奥寺はどこのポジションでもこなせる事ができた。
奥寺は闘争心があり、怪我の恐れをもろともしないで戦うタイプで、申し分のない選手だった」
と語った。
ブレーメン時代の奥寺は、サイドからクロスを上げ、アシストでチームに貢献をしました。
そして、戦況の読みに優れた絶妙な攻撃参加を得意としていました。
ドリブルで仕掛ける事は少なかったですが、前線に突然、顔を出し、攻撃参加する「鋭さ」は非凡でした。
奥寺は、試合の流れを読むのがうまい。試合の流れを読む事で言うと、例えば、敵をだます為に、「試合中、敢えて消える」ことがうまいと思います。気配を消して、少し消えます。その後、現れます。
その他の特徴は、奥寺は、ヘディングが強く前線に飛び出して来た際、空中戦で競り勝つシーンが多かったです。
この部分は他の日本人と明らかに違う所でしょう。
彼は、ドイツ人と遜色がないくらいフィジカルの強さを持っていました。
また奥寺は対人守備が強く、守備力が高い選手でした。



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【写真解説】 
1987-88シーズン優勝トロフィーを持つブレーメン史上最高の監督名将オットー・レーハーゲルブンデスリーガ最多試合、指揮記録830試合」を持つ。
その他に監督として、ブンデスリーガの最多勝利、387、最多引き分け、205、最多敗戦、228、最多得点、1473、最多失点、1142の記録を持っています。
レーハーゲルは、1981~95年まで14年間もブレーメン監督を務めた。
奥寺は1986年、ブレーメン退団した(奥寺在籍中は、2位が3回で優勝できなかった)。
2年後、1988年、レーハーゲルは初優勝した(注:クラブ史では1964年以来、2度目)。
彼は再び1992-93シーズンにリーグ優勝した。ドイツ杯では1991年、1994年に優勝。
また1992年、「欧州カップ・ウィナーズ・カップ」優勝した。ブレーメンに初の国際タイトルをもたらした。
彼はこの後、1998年にカイザースラウテルン監督でリーグ優勝をした。
その後、ギリシャ代表監督としてユーロ2004年に優勝した。


奥寺の凄い点、5つ目は、
欧州チャンピオンズ・カップでアジア人初ゴール(しかも準決勝で)決めた事だ。
今後、多くのアジア人が欧州最高の舞台でゴールを決めるだろうが、最初の扉を開いたのは奥寺康彦だ。


奥寺の凄い点、6つ目は、最後まで欧州で一流だった事だ。
中田英寿、香川真司は欧州移籍直後に活躍して、その後は大きく下回る活躍しかできない一発屋だったが、奥寺は衰えず、34才でもブンデス2位チームで主力だった。一流と二流の違いだ。
奥寺こそ真の一流選手と呼ぶべきだろう。
奥寺は34才で通用したまま帰国したのだ。そこを日本人は丸っきり分かっていない。
長谷部が活躍していても、フランクフルトという中堅クラブで、まるで優勝争いに加われていない。
奥寺は、「優勝争いするチームに居て、最後まで通用して帰国した」のだ。
「長谷部が上回った」などというおかしな事を言う日本人がたくさん居るが、長谷部のチーム(フランクフルト)がいつ優勝争いしたんだ?
しかも、今のブンデスリーガのレベルは欧州何位なんだ?
私は、「奥寺の時代のように欧州1位や2位のリーグ・レベルではなく、4位とかそんなレベルだろ、そこを忘れてないか?」と反論したくなる。

奥寺氏の凄い所、7つ目は、
1986年、奥寺氏の居たブレーメンは、「『欧州最高得点率』を出した凄いチーム」だった。欧州5大リーグ、94チーム中、1位でした。
奥寺氏は、
34才と高齢だったが、その優れたチームの攻撃陣の1人としてバリバリ活躍していた」 事だ。
この年は、「リーグ戦34試合中、33試合」に出場をした。これは、チーム2位の出場数だった。



奥寺の凄い点、8つ目は
「ブレーメンの外国人選手の試合出場(リーグ戦)」、歴史上2位(当時)159試合
を作った事だ。毎年30試合前後、先発した
2018年現在、奥寺は9位です。32年過ぎてもまだベスト10内だ。
退団時(1986年)、これを上回るのは1970年代に活躍したデンマーク代表主将、
CB ペル・ロントゥベッドしかいなかった。
ロントゥベットは、7年在籍で、194試合 出場。(現在4位)。
ちなみに、彼は、1970年代、「デンマーク代表、最多出場 75試合(当時 1位)」も作った名手です。
 奥寺は、契約延長オファーを拒否して日本帰国した。しかし、そのままドイツに残れば、当時「ブレーメンの外国人試合出場記録1位」を作れた。
私は、この件は少し残念に思う。
奥寺氏は、1899年創設の長い歴史を持つクラブで、当時、歴代助っ人ベスト3に入る地位を築き、日本に帰国した。
奥寺氏は、ケルン、ブレーメン、2つのクラブで名を残した選手である。


奥寺の凄い点、9つ目(最後)は、
日本復帰直後1986年、古河電工(現在のジェフ千葉)の一員として、アジア・クラブ選手権(ACLの前身でアジア王者を決める大会)に参加して、日本初のアジア王者になった事だ。
古川電工は、サウジアラビアの首都リヤドで、
アル・ヒラル(サウジアラビア)、アル・タラバ(イラク)、遼寧FC(中国)と、決勝リーグで対戦して、3連勝した。
奥寺は、地元サウジアラビアのアル・ヒラル(準優勝チーム)戦に4-3で勝利した際、34才でハットトリックの大活躍をした。
「アウェー・中東クラブ戦で、ハットトリックした日本人」は、未だに奥寺だけである。
更に、「アジア人で、決勝でハットトリックした選手」は、未だに奥寺だけです
多分、日本人で決勝でハットトリックする選手は、永遠に出て来ないだろう。
日本代表がアジア・カップ優勝できず、アジアで一番になれない弱い時代、日本のアジア・クラブ初王者が奥寺の大活躍によってもたらされた。
奥寺は「余力のあるうちに日本サッカーに貢献したい」と言って、契約延長オファーを断って日本復帰した。その言葉通り、偉業を成し遂げた。
日本サッカーでは、欧州のパイオニアも、アジアでのパイオニア(開拓者)も奥寺康彦だったという事だ。

ちなみに奥寺は、日本復帰後、日本代表の「最高齢得点記録」も作った。
35才と187日(注: 現在は2位。1位はラモス
瑠偉です。36才と85日です)。
他に、奥寺氏は、日本代表では24才の時、1976年のムルデカ大会(アジアの国際大会)で、8得点(7試合)で得点王になり、準優勝した。




【 奥寺康彦、ケルン入団の経緯。 】 
 
奥寺(25才)は世界的名将、ヘネス・バイスバイラーにしつこく勧誘されて、欧州へ渡った。既に世界レベルの能力を有していたのだ。
バイスバイラーは欧州最高のリーグ、ブンデスリーガで既に3回優勝していた。他に、ドイツ杯は2回優勝、UEFAカップでは優勝1回、準優勝1回していた。
当時、世界のサッカー・ファンは誰でも知ってる名将だった。
バイスバイラーは、ボルシアMG監督時代、W杯、ユーロで優勝したドイツ代表スターと仕事をして優勝した。
ネッツァー(後に、レアル・マドリードでも司令塔)、ハインケス(ブンデスリーガ得点記録、歴代2位)、フォックツ、ボンホフ等だ。
その後、バイスバイラーは、バルセロナ監督を1年務めた。ちなみに、リーグ戦の順位は2位だった。
その時の所属外国人は、欧州史上最高の選手と評されたヨハン・クライフだった。
他にヨハン・ニースケンス(オランダ代表、W杯準優勝)らが居た。
彼はそのような超一流選手とずっと仕事をして来た監督だ。
バイスバイラーはスーパー・スター、クライフと揉めた為、僅か1年でバルセロナを去った。
その後、バイスバイラーはケルン監督に就任した。そして就任1年目でドイツ杯優勝へ導いた。
会社勤務の奥寺は、このような経歴を持つ世界の超一流監督から電話で直々に、「レギュラーで起用したい」とまで説得された末、欧州挑戦を決意した
奥寺は、日本代表遠征でケルンの練習に参加した。その際、バイスバイラー監督に評価された。そして、勧誘された。
その時、奥寺は、突然のことに驚き過ぎて、足がガタガタと震えたそうだ。しかし、回答を保留して日本に帰国をした。
奥寺のケルン入団が決まった背景には、当時のケルンのチーム事情も関係していた。
ケルン就任2年目、バイスバイラー監督は攻撃が駒不足の状況に陥り、選手を探していた。
1977年、ケルンは、W杯1974年優勝チームのドイツ代表司令塔でもあった、ヴォルフガング・オベラート(33才)が、ドイツ杯優勝で有終の美を飾り、引退してチームを去った。
またウィングの名手、ハーネス・レアー(35才)が引退間近で、その後釜を探していた。
レアーは、ケルンのクラブ最多得点記録166得点(プロリーグ化以降の記録で1位です。現在も1位)を作った
(166得点は当時リーグ史上4位。2018年現在で11位。また彼は、1968年、27得点で得点王になった。ドイツ代表ではW杯1970年でチームは3位)。
そして、ケルンには既に外国人助っ人のデンマーク代表FW、プレーベン・エルケア(20才)が居た。
エルケアは、後に『バロンドール』という「欧州最優秀選手賞」で、3位(1984年)、2位(1985年)に選ばれた世界的名選手。
W杯1986では、ブロンズ・ボール( 大会最優秀選手投票で3位)に選ばれた
エルケアは、度々、規律違反を起こしていた。その為、厳格な性格のバイスバイラー監督は怒り、チーム構想外扱いにして、新外国人選手を探している状況でもあった。
そんな時、日本から訪れてケルンの練習に参加したウィングの奥寺康彦の存在が、バイスバイラーの目に留まったのだ。奥寺は丁度、レアーと同じウィングの選手で、外国人助っ人も探していた監督にとって適材の選手だった。
このようなチーム事情が背景にあり、アジア・サッカーの歴史に残る奥寺の移籍は決まった。
リーグ開幕2カ月後から加入した奥寺は、すぐに先発の座を掴んだ。
その後、奥寺はリーグ終盤3試合連続ゴールの大活躍をして、2位のボルシアMG(ユップ・ハインケスとアラン・シモンセンが居た)を振り切り、優勝決定の立役者になった。
これでバイスバイラーは自身4度目の国内リーグ優勝を達成した。
この年、ケルンはドイツ杯2連覇も達成した(奥寺は決勝で先発した)。
当時、ブンデス・リーガは欧州最高のリーグだった。
故に、ケルンは世界有数の強豪チームだった。
日本人、奥寺はその一員で活躍した。



【 1970年代後半、ケルンは一流選手が揃うスター軍団。 】

ケルンには若きミッドフィルダー、ベルント・シュスターが現れた。彼は、1980年のバロンドールで2位となった。
ちなみに、シュスターは後にバルセロナ、レアル・マドリード、アトレチコ・マドリードのスペイン3大クラブ全てで司令塔を務めた。1980年代を代表する名手の一人だ。
19才シュスターは、既に強豪ケルンで司令塔だった。
他にもW杯優勝、準優勝やユーロ優勝した名選手がゴロゴロ居た。
ドイツ代表正GK、ハラルト・シューマッハ、
ボランチのフローエクルマン(W杯1974年 優勝メンバー)。
FW、ディーター・ミュラー(1976-77、1977-78年、2シーズン連続得点王)が居た。
また攻撃的MF、ピエール・リトバルスキーが現れた。
更にイングランド代表FW、トニー・ウッドコックまで加入した。        
当時のケルンはスター軍団で代表選手が5、6人居た。
そこで奥寺は、外国人助っ人として活躍した。


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写真解説】 ケルンのボランチ、ベルント・シュスター
20才でバロンドールで2位になった。ドイツ代表では、既に主力だった。
ケルンでは、ボランチのシュスターがゲームを作り、ウィングとサイドハーフを務めた奥寺は、彼のパスを受けて攻撃していた。ケルンは、他にもフローエ、クルマン、リトバルスキーなど、世界一流ミッドフィルダーを擁していた。


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【写真解説】
ケルンの当時最大のスター、元ドイツ代表ウィング、名手ハーネス・レアー
ケルンに14年間もエースとして在籍した。リーグ史上歴代4位(当時)通算166得点の記録を残して引退した。奥寺はこの選手の後釜に期待されて入団した。
奥寺は、シーズン終盤に大活躍して、ケルンを優勝させた。
レアーは2冠優勝シーズンの序盤は先発していた。しかし、奥寺が開幕2カ月後から加入した為にレギュラーを奪われ、それ以降はずっと控えとなり先発出場がゼロになった。そして、この年に引退した。


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【写真解説】 
ケルンのエース・ストライカー、ディーター・ミュラー
1970年代後半、2年連続リーグ得点王に輝いた。この時代、欧州屈指のセンターフォワードだった。
ミュラーは、リーグ通算177得点。 歴代4位で引退した。
(ケルンの同僚だったハーネス・レアーの得点記録を抜いて引退した。2018年現在で、まだ歴代8位)。
ドイツ代表ではユーロ1976年で得点王に輝いた(ドイツは準優勝した)。
W杯1978年大会では4試合2得点。ドイツ代表で通算12試合9得点。
ユーロ1976年で得点王になり得点率も高かったが、代表活動期間は3年間だけで短かった。
奥寺はウィングでミュラーと攻撃陣を形成して、アシストをした。


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【写真解説】 奥寺のケルン時代のチームメイトの写真。
一番左が CF、ディーター・ミュラー
一番右が   ロジャー・ファン・ホール(ベルギー代表ウィング)、
中央がボランチのハインツ・フローエ
フローエはドイツ代表でW杯1974年優勝、ユーロ1976年で準優勝した。
W杯1978年開催時、ベッケンバウアーは、「フローエはドイツで一番優れた選手だ」と称賛した。
奥寺は、当時、ドイツ最高の選手とチームメイトだった。


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【写真解説】 これはハインツ・フローエの銅像である。
フローエは、スタジアム前に唯一銅像が立てられる程、人気と実力のあった選手だ。
写真一番左は、クラブ副会長(2018年現在)、名GKだったハラルト・シューマッハ。
余談であるが、ケルンではFW、ハンス・シェーファー、FW、ハーネス・レアー、
MF、ヴォルフガング・オベラート、MF、ハインツ・フローエの4人は、クラブ史で、最もサポーターから慕われたヒーローである。
現在、「シェーファーの銅像も作るべきだ」という声が上がっている。

奥寺はケルン加入当時について
「ケルンの選手と力の差をほとんど感じなかった。彼らはテクニックやパスのうまさを持っていたけど、僕は彼らにないスピードを持っていた。
彼らのパスを受けて、ウィングでゴール・チャンスを作るのが自分の仕事だった。
他の選手とチームにおける役割が違っていて重ならなかった」
と語っている。
身体能力が高かった奥寺は、世界のスター軍団であったケルンのメンバーになっても、他の選手とそれ程、力量の差を感じていなかった。
そして、自分の持ち味であるスピードが、チームのスタイルに適合した。


【 当時のケルンは外国人助っ人も一流。 】

当時、ケルンにはベルギー代表、ロジャー・ファン・ホールが居た。
彼は、1975-76シーズンUEFAカップ準優勝したクラブ・ブルージュのフォワードだった。ケルンが外国人選手のドイツ史上最高移籍金額で獲得した選手だ。1970年代、ケルンは財力があった。
ファン・ホールは、加入一年目でドイツ杯1977年優勝に貢献した。
他に前述のプレーベン・エルケアも居た。
しかし、彼はチーム構想外状態だったので、翌1977-78年シーズンの開幕2カ月後に奥寺が加入すると、年明け1月で退団した。
その後、ケルンは2冠優勝した。奥寺とファン・ホールが先発して優勝をした。
1年後、1979-80シーズン第4節(1979年9月1日)、シュツットガルト戦で、ファン・ホールが大怪我をした。この後、ファン・ホールは、シーズンを全休した。その為、ケルンは急遽、1979年の欧州チャンピオンズ・カップで優勝した、ノッティンガム・フォレストのイングランド代表FW、トニー・ ウッドコックを獲得した。ドイツクラブ史上最高額の移籍金で獲得した。
そして、1979-80シーズン第15節、ボーフム戦(1979年11月30日)、ウッドコックは、デビューをした。
ケルンの外国人助っ人は、奥寺とウッドコックになった。
ウッドコックは、高い移籍金に沿う活躍をした。
ちなみに、彼はケルン退団後、アーセナルのエース・ストライカーとなり、3年連続でチーム得点王になった。アーセナルではレジェンドの一人だ。
ケルン時代の奥寺は、欧州チャンピオンズ・カップ優勝チームのフォワードで、イングランド代表だった一流ストライカーと、外国人2枠を占めて欧州で戦うという、当時のアジア人では考えられない活躍をしていた。


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【写真解説】 
1980年、ケルン外国人助っ人3人の集合写真。(試合出場は2人のみ)
一番右(選手)イングランド代表FW、ウッドコック(24才)。
イングランド代表、42試合16得点。
ケルンで130試合39得点。アーセナルで131試合56得点。
中央がスイス代表主将、司令塔MF、ルネボッテロン
(26才)。
左が奥寺(28才)だ。
世界の一流選手と奥寺は共闘し、そして先発出場の競争をしていた。
一番右は、カールハインツ・ヘダゴット監督。





ケルン、欧州チャンピオンズ・カップ、ベスト4。 】

2冠優勝の翌1978-79シーズン、ケルンは欧州チャンピオンス・カップに参戦した(現在の欧州チャンピオンズリーグの前身で、欧州一を決める大会)。
そして、ケルンは準決勝まで進み、イングランドのノッティンガム・フォレストと対戦したが、惜しくも敗れた。
合前、この対戦は事実上の決勝戦と言われていた。
奥寺は準決勝第1戦のアウェー戦で、3-3の同点に追いつくゴールをカウンターから決めた。イングランド代表、伝説的名GK、ピーター・シルトンから得点した。
これはアジア人が欧州チャンピオンズ・カップで決めた初ゴールだ。
ケルンは第1戦を3-3で引き分け、有利な状況で第2戦を迎えた。
しかし、第2戦(ホーム)で0-1で敗戦した。
この試合に勝利したノッティンガムはこの年、優勝した。
決勝戦の相手はスウェーデンのマルメで、この当時、かなり格下と評価されていた。
奥寺は今でも、
「準決勝を勝てば、決勝の相手はマルメだったので欧州王者になれる可能性は高かった」
と悔やむコメントをしている。
この年、リーグ戦は6位だった。
私は、ケルンがこの低いリーグ順位になった原因は、欧州チャンピオンズ・カップにエネルギーを注いだ影響もあったと思う。
翌1979-80シーズン、ケルンは不調でリーグ戦5位だった。
しかし、ドイツ杯ではスター軍団の意地を見せ、再び決勝に進出した。
しかし、格下のデュッセルドルフに1-2で敗れて予想外の準優勝に終わった。
この試合、奥寺は後半20分から左サイドハーフで出場した。
既に監督がヘダゴットだったので、奥寺氏は先発を外された。


【 奥寺、2部ヘルタ・ベルリンを経て、1部ブレーメンへ入団。 】

1980年、奥寺は、バイスバイラー監督の後任のカール・ハインツ・ヘダゴット、更に名将リヌス・ミケルスから、「構想外」の扱いを受けた。
ヘダゴット、ミケルスの2人は、奥寺より、スイス代表MF、ルネ・ボッテロンの先発起用を選んだ。
奥寺は、昨シーズン、計33試合も先発出場した。しかし、
昨シーズン後半の監督交代後、ヘダゴット監督になってからは、突如、控え扱いにされた。
しかし、ヘダゴットは僅か計20試合で解任された。(注: この20試合には、リーグ戦以外の試合も含まれています)。
1980年9月、開幕1カ月で解任された。
その後、W杯1974で準優勝した、名将リヌス・ミケルスが監督就任した。
ちなみに、ミケルスは、バロンドール受賞者を決める、フランス・フットボール誌から、「サッカー史上最高の監督」に選ばれた名将です。
しかし、ミケルスも奥寺を構想外、扱いにした。
ヘダゴットの時は、ベンチ入りをしていた試合もあったが、ミケルスは、奥寺をベンチ外に扱い、更に冷遇した。
だから、奥寺は、ミケルスに直接、起用されない理由を質問した。しかし、あやふな対応をされてはぐらかされた。奥寺は失望をした。
この当時、外国人枠は2人だった。奥寺は、ミケルス監督が、他の外国人選手2人(ウッドコック、ボッテロン)を自分よりも優先的にプレーさせる事が分かったので、この先、ケルンに居ても出場機会は得られないだろうと考えた。
それ故、奥寺は何より試合に出る事が大事と考え、開幕2カ月で2部のヘルタ・ベルリンへの移籍を決断した。
この時、奥寺氏の元にはベルギー1部のチームからもオファーがあったそうだが、新たに他の外国語を覚えるのが大変なのと、ドイツで3年住み、慣れていたので、2部チームでもドイツに残る事を決めたそうだ。
しかし、その後、ケルンに居たボッテロンは、奥寺に遙かに及ばない成績でドイツを去った。
だからヘダゴット、ミケルスの2人が、奥寺を外したのは間違いだったのだろう。
そして奥寺は、ヘルタで主に右サイドバックで、25試合8得点の活躍をした。チームは2部3位で終了した。
また「ドイツ杯では、2部チームだが準決勝進出」の驚きの快進撃をした。


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【写真解説】 
1980年、ヘルタ・ベルリン時代の、奥寺康彦。
 ヘルタ・ベルリンは、123得点(42試合)を挙げ、「ブンデス2部、シーズン最多得点 記録」を作った。
未だに、このヘルタ・ベルリンの記録は破られていない(2019年、現在)。




奥寺の2部リーグでの活躍は目を引き、翌シーズン、1部のブレーメンへ移籍した。
ブレーメンでも世界の一流選手と共に戦った。
CB、ブルーノ・ペッツァイ(オーストリア代表。1980年代前半、欧州最高のセンターバック)、
CB、クラウス・フィヒテル(元ドイツ代表。W杯1970、3位。ブンデスリーガ出場数、歴代4位、552試合)。
FW、  ウーベ・ラインダース(W杯1982準優勝)、
ドイツ代表エース・ストライカー、ルディー・フェラー(W杯1986準優勝、W杯1990優勝)、  
MF、ノーバート・マイヤー(ユーロ1984で、ドイツ代表10番の司令塔)、
GK、ディーター・ブルデンスキー(ドイツ代表。ブンデスリーガ試合出場数、歴代17位。478試合)。
そして、ドイツ最後の年は、
名FW、 マンフレート・ブルグスミュラー(リーグ得点数歴代4位、213得点)。
名DM、ミルコ・ボタバ
(ユーロ1980優勝。ブンデスリーガ試合出場数、歴代5位、546試合。ミッドフィルダーの中では、歴代1位の試合出場数)と共に戦った。



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【写真解説】 
1984年7月30日撮影。

1984-85シーズンのブレーメン。
順位は2位だった。

主力メンバーは前列左端、奥寺康彦(33才)。その隣、FW、ラインダース。
前列左から3番目 司令塔MF、マイヤー。
前列左から5番目がボランチのベノ・メルマン。
前列左から6番目、GK、ディーター・ブルデンスキー。
後列左から2番目(選手)FW 、フランク・ノイバート。
後列3番目CB、ペッツァイ。
後列5番目CB、リゴベルト・グルーバー。
後列右から2番目(選手)ドイツ代表エースFW、フェラー。
後列右端はレーハーゲル監督。


ブレーメンは1984-85、1985-86シーズン、2年連続リーグ最多得点で、2年連続「リーグ戦1試合の平均得点率」が欧州最高(2.6点、2.4点)だった。欧州最高の攻撃成績だった。 欧州5大リーグ全チーム [94チーム] 中、1位でした。
この1985年は、ブレーメンは87得点(34試合)で「得点率2.6」だった。
他国の1位と比較すると
ブレーメン(2.6)、バイエルン(2.3)、
エバートン(2.1)、バルセロナ(2.0)、ボルドー(1.8)、ユベントス(1.6)。
ちなみに、レアル・マドリードは(1.6)だった。

翌1986年は、ブレーメンは83得点(34試合)で得点率2.44。
レアル・マドリードと同率1位。 
バイエルン(2.4)、リバプール(2.1)、パリSG(1.7)、ローマ(1.7)より上。
ちなみにバルセロナ(1.8)だった。

当時ドイツは人材豊富で、スペイン強豪クラブより攻撃力があった。
ちなみに1985年の欧州リーグ・ランキングで、スペインはなんと欧州8位だった。
翌1986年は、欧州5位だった。
それぐらいこの頃は、低レベル・リーグだった。
スペインに比べると、奥寺氏の居たドイツ・ブンデスリーガの方が、遥かにレベルが上だった。
ブンデスリーガは1985年は欧州3位で、1986年は欧州2位だった。


ブレーメンは、この頃、「欧州最高の攻撃力」だったので、「大量得点試合」を数多くした。
1983~86年の3年間で、「5得点以上の大勝試合」は、以下である。
これら全試合に奥寺康彦は出場をした。


【 ブレーメン  1983-84 】 (4試合)

02d.  5-2  ボーフム
15d.  8-1  オッフェンバッハ
18d.  5-0  マンハイム
28d.  5-2  ユルディンゲン


【 ブレーメン 1984-85 】 (5試合)
03d.  6-2   ケルン
09d.  5-2   ハンブルガー
13d.  7-1   カールスルーエ
17d.  6-0   ドルトムント
31d.  6-1      カイザースラウテルン 


【 ブレーメン 1985-86 】 (5試合)
02d.  8-2  ハノーバー
14d.  6-1  ユルディンゲン
17d.  6-0  シュツットガルト
24d.  7-3  デュッセルドルフ
30d.  5-0  レバークーゼン

凄い攻撃力 」である。 


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【写真解説】左は、ドイツ代表FW、ルディー・フェラー。右が奥寺康彦。ブレーメン試合後の写真。
奥寺は日本復帰1986年まで、彼と4年間共に戦い、ブレーメンを強豪に変えた。
フェラーは137試合97得点(1982-87年の僅か5年在籍)を挙げ、当時、クラブ史上最多得点記録を作った。フェラーはブレーメン史上最高の選手だ。
奥寺は左サイドからクロスを上げ、フェラーの得点王(1982-83シーズン)に助力した。
ちなみに、現在クラブ得点数1位は、ペルー人、クラウディオ・ピサーロ、204試合 104得点。歴代2位は、1990年代に活躍した、ドイツ人、マルコ・ボーデの379試合、101得点です。
また、フェラーは、1980年代中頃からドイツ代表エース・ストライカーとして、10年以上もの長い間、活躍した。彼は、90試合47得点(当時、ドイツ歴代2位)を記録した。
当時、ドイツ一番の人気選手だった。
つまり、奥寺康彦という選手は、ケルン時代は、ディーター・ミュラー、ブレーメン時代は、ルディー・フェラーにクロスを上げていたので、
ドイツ時代は、ドイツ代表のセンターフォワードにばかりクロスを上げていた選手」という事である。
「世界で一流のセンターフォワードにばかり、クロスを供給していた」という事だ。
奥寺氏は、1986年、日本帰国したすぐに、ドイツ時代について、
「ドイツでプレーしていた時は、周りが上手い選手ばかりだった。だから、プレーしていて面白かった。味方にパスをすると良いリターンをくれる。クロスを上げればフォワードが決めてくれる。スムーズにプレーできるので面白かった」
と述べている。



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【写真解説】 
1980年代、ブレーメン守備の要、「オーストリア史上最高のセンターバック」、ブルーノ・ペッツァイ。
1980年代前半、欧州最高のセンターバック」。
ペッツァイは、身長188センチで空中戦に強いディフェンダーでした。
また彼は、存在感が大きく、チームに冷静さを与える事ができる、他と格の違う選手だった。
彼は、フランクフルト在籍時代、UEFA杯1980年に優勝しました。
ペッツァイは、フランクフルト時代は、バロンドール投票(欧州最優秀選手賞の投票)で、
14位(1980年)、11位(1981年)、12位(1982年)になった。
1980年代前半、バロンドール投票で、センターバックでは最も順位が高かった。「欧州最高のセンターバック」だった。
またペッツァイは、当時、世界選抜で先発した。
世界選抜では、フランツ・ベッケンバウアーとセンターバック・コンビを組んで出場した時もあった。
それぐらい凄い選手でした。
そしてオーストリア代表では、W杯1978、1982年で活躍しました
ブレーメン時代、ペッツァイは、奥寺と2人で「外国人2枠」を占拠しました。



【 1980年代、ブレーメンは強豪チーム。 】

ブレーメンは、フェラー、奥寺、ペッツァイらの活躍で優勝争いする強豪となった。奥寺の在籍中、リーグ2位に3回もなった
惜しくも、優勝する事はできませんでした。
しかし、優勝チームとほぼ互角レベルの実力を有していた。

1981-82シーズン、ブレーメンは5位だった。2部昇格1年目、いきなり5位になった。
ドイツ杯では準々決勝でバイエルン(この大会、優勝)と戦い、延長戦までもつれた末、1-2で敗れた。名手、パウル・ブライトナーの2得点で負けた。
この年、ブレーメンの外国人選手は奥寺一人だけだった
奥寺は、このシーズン、右サイドバックだった。しかし、有望株の若手サイドバック、トーマス・シャーフがデビューした。その為、ポジション変更を頼まれた。その結果、翌シーズンから左サイドハーフになった。

1982-83シーズン、ブレーメンはハンブルガーSV(同じ北ドイツ最大のライバル)と勝ち点1位で並び終了した。しかし、得失点差[ 8差]で負け2位に終わった。
ハンブルガーはこの年、欧州チャンピオンズカップ優勝、国内リーグ優勝をして2冠達成をした。
ちなみに、ハンブルガーは国内2連覇も達成した。
この頃、ハンブルガーは欧州最強チームだった
この年、ブレーメンは26節で2位になり、最終節までハンブルガーと争った。その内容は、残り3節は(32節、33節、最終節)、勝ち点が全く同じだった。しかし、惜しくも得失点差で負けて優勝できなかった。
ちなみに、奥寺は、ハンブルガーと直接対決 (北ドイツダービー)では、通算5勝2分3敗で勝ち越した

この年も、ブレーメンの外国人選手は奥寺一人だけだった。
翌シーズンから、新外国人助っ人、DF、ブルーノ・ペッツァイが加入した。

1983-84シーズン、ブレーメンは、優勝したシュトゥットガルトに勝ち点わずか3差で、5位だった。
この年は、勝ち点3差の間に上位5チームが入って終了した。歴史的混戦の優勝争いが起きた。



【 1980年代中頃、ブンデスは、ブレーメンとバイエルンの2強時代。 】


1984-85シーズン、ブレーメンは欧州最高得点率(2.6点)で最高の攻撃力だった。しかし、バイエルンとの競争に敗れた。勝ち点4差で、リーグ戦2位で終えた。

翌1985-86シーズン、ブレーメン(再び欧州最高得点率2.4で1位。 レアル・マドリードと同率1位)は、またもバイエルンと熾烈なリーグ優勝争いをした。
この年、ブレーメンは、第14節からずっと首位を走った。しかし、最終節で敗戦してバイエルンに逆転優勝された。
勝ち点は1位だった。しかし、得失点差 [ 9差]で負けた。再び3年前と同じく得失点差で負け、2位で終った。
リーグ終盤の状況について詳しく説明しますと、首位のブレーメンは、シーズン終盤、第33節(残り2節)で、2位バイエルンとホームで直接対決をした
この試合は0-0で進み、試合終了間際ロスタイム、ブレーメンはPKを得た。
しかし、このPKをDF、クツォップが外してしまい優勝を逃した。
このPK失敗は、現在でも「ブンデスリーガ史上、最も有名なPK失敗」と言われている。非常に有名なシーンとして語り継がれている。
あれが決まっていれば奥寺にとって2度目のリーグ優勝であった。
次の最終節で敗戦してしまったブレーメンは、バイエルンと勝ち点で並ばれた。その結果、得失点差で負け、逆転優勝された。
ちなみに、この年、バイエルンは、ドイツ杯も優勝して「歴史的2冠」を達成した。翌シーズンは欧州チャンピオンズカップで準優勝した。
しかし、奥寺は、ブレーメン時代、バイエルンとの直接対決は、4勝3分2敗(リーグ戦)で勝ち越した。
このように奥寺は、欧州強豪リーグで熾烈な優勝争いを毎年していた世界の一流選手だった。

奥寺は、ドイツ最後の年は、もしあのPKが決まっていれば、リーグ優勝していた訳だ。そうだとすると、「対、バイエルン戦」の成績(リーグ戦)は、ケルン、ブレーメン時代の合計は、通算7勝になっていた。
現在、奥寺は、バイエルン相手に、リーグ戦の成績は、「通算6勝3分3敗」だ。これでも十分、凄い。
しかし、タラレバの話で恐縮だが、もしPKが決まっていれば、通算「7勝2分け3敗」になっていた。凄い数字だ。私は、そうならなかった事が残念です。



【 奥寺康彦、ブレーメンで、UEFAカップに挑戦。 】


奥寺は、ブレーメン時代、UEFAカップに4回出場をした。しかし、国際大会の成績は良くなかった。
奥寺のブレーメンは、ベスト16が1回が最高だった。他は、2回戦で1度敗退、1回戦で2度も敗退した。
皆さまに最初に説明しておくと、昔のUEFA杯はリーグ2~5位チーム参加だったので今より遙かにレベルが高かった。
昔は、欧州チャンピオンズ・カップは、「リーグ優勝チーム1チームのみが、参加資格」だった。そして、「リーグ2~5位」がUEFAカップに参加した。
その後、1997年以降のUEFAカップと、現在のUEFAヨーロッパ・リーグは、
「欧州5大リーグでは、リーグ戦、5~6位チーム参加の大会」となった。
だから、かなりレベルが低くなった。昔とはかなり内容の違う大会である。
「小野伸二がUEFAカップ優勝した(2001年)」、
「長谷部誠がヨーロッパ・リーグ、ベスト4進出(2018年)」等、
日本のマスコミは快挙としている。しかし、私は、奥寺の時代のUEFAカップとそれらが同じ大会だと考えるのは、実質的には間違いではないかと思う。

上述したが、奥寺の居たブレーメンは、ベスト16が1回が最高で、2回戦で1度敗退、1回戦で2度も敗退した。
1982-83年、ダンディー・ユナイテッド(R16)、
1983-84年、ライプツィヒ(2回戦)、
1984-85年 アンデルレヒト(1回戦)、
1985-86年、オデッサ(1回戦)に敗れた。
ブレーメンは、「欧州最高の得点率」、バイエルンにも勝ち越し、「ドイツで2位3回の強豪」だったが、国際大会では格下に足を掬われ、毎年、予想外の敗退を繰り返した。

ブレーメンは、早期敗退ばかりだった。しかし、奥寺は全4回出場して、毎年、不運に遭遇していた。
読者の皆さまは、何だか私が奥寺が所属していたのでブレーメンの肩を持ち、言い訳がましい事を言っているように聞こえるかも知れない。しかし、これは事実なのである。
奥寺が参加した各4シーズンで、ブレーメンに起きた詳しいトラブルの内容は以下である。
1982-83シーズン、UEFAカップで、
ブレーメンは、ラウンド16、(1982年、11月23日、12月7日開催)で、
ダンディー・ユナイッテド(スコットランド) に敗れ、大会敗退した。
ブレーメンは、第1戦、敵地で1-2で敗れ、第2戦、ホームで1-1で引き分け、2試合合計、1敗1分けで敗退した。
この時、ブレーメンはFW、ルディー・フェラーに次ぐ、エース級のFW、ウーベ・ラインダースを欠いていた。
ラインダースは、「W杯1982準優勝チームのメンバー」の実力者だった。
この頃は、フェラーとラインダースの2人が、ブレーメンの2トップだった。
彼は、国内リーグ戦、第6節、「ケルン 対 ブレーメン」戦(1982年9月18日)で、前半34分に負傷して交代した。
この後、彼は、翌年1983年3月1日、
第20節、「ボルシアMG 対 ブレーメン」戦まで、半年近くも長期離脱した。
その為、「UEFAカップ、ラウンド16」 の試合(1982年、11月23日、12月7日開催)に出場できなかった。
つまり、ブレーメンは主力フォワードの1人を欠くというトラブルに見舞われていたのだ。

翌1983-84シーズン、2回戦でライプツィヒ(東ドイツ)に敗れ、大会敗退した時は、第1戦、敵地で既に0-1で敗れた。ホームの第2試合で、ブレーメンは攻撃的に行き、勝利したい所だった。
しかし、第2戦で、前半36分、ボランチのベノ・メルマンが太腿裏を故障して負傷退場した(恐らく肉離れ)。
司令塔の才能も有する、チームの核、メルマンが抜けた影響は大きく、ブレーメンは挽回できなかった。第2戦を1-1で終え、敗退した。

1984-85シーズン、UEFAカップ1回戦、アンデルレヒト(ベルギーのビッグ・クラブ)戦は、ブレーメンは敵地で0-1で敗れ、ホームで2-1で勝利した。
惜しくも「アウェーでの得点数の差」で、負けた。
第2戦、ブレーメンは、ホームで2-0で勝っていた。
そのまま行けば2試合合計で、勝利だった。
しかし、後半18分、MF、ウォルフガンク・ジドゥカが「オウン・ゴール」をした。2-1となってしまった。
そのまま試合終了した。その結果、ブレーメンは、「アウェー得点数の差」で負けて大会敗退をした。

1985-86シーズン、ブレーメンは、UEFAカップ1回戦で、再び敗退した。オデッサ(ウクライナ)に敗れた。
第1戦、1985年9月18日、敵地で、ブレーメンは、1-2で敗戦した。
第2戦、1985年10月2日、ホームでの試合で、挽回、逆転勝利したい所だった。
しかし、5日前、国内リーグ戦、1985年9月28日、
「ブンデスリーガ、第9節、ボーフム 対 ブレーメン戦」で、
エースFW、ルディー・フェラーが、ボーフムのMF、フランク・ベナテリから酷いファウルを受け、前半38分で、負傷退場した。この後、フェラーは、約2カ月間、戦列を離脱した。
チームのエースで、一番の得点源を失った事は、ブレーメンにとって甚大な被害だった。
5日後のUEFAカップ1回戦、第2戦、「ブレーメン 対 オデッサ」戦で、ブレーメンはフェラーを欠いた状態で戦った。
その結果、ブレーメンは3対2で勝利したが、「2試合合計の得点失点差」でオデッサに上回られた。これにより、1回戦で敗退した。
やはり、この試合、ブレーメンにエース・ストライカー、フェラーが居なかった事は、どう考えても影響していただろう。
失礼だが、私は、フェラーが居れば、ブレーメンはオデッサのような知名度の低いクラブは、容易に倒せて、1回戦突破はできただろうと思う。
 

結果だけ見ると、ブレーメンのUEFAカップでの成績は酷い。早期敗退ばかりだ。

しかし、ブレーメンは毎年、主力が試合直前や試合中に故障離脱したり、他に試合中、オウン・ゴールをしたりと、毎年、怪我のトラブルや不運に見舞われていた訳だ。
また、毎年、僅差 又は、「1勝1敗。同得点でアウェー得点数の差で敗れる」等、非常に接戦の末、敗れている。
1984-85年、アンデルレヒト(ベルギー)、
1985-86年、オデッサ(ウクライナ)に1回戦で敗れた年は、
共に「1勝1敗で、同得点で『アウェー得点数の差』 で敗れている」。

私は、奥寺のUEFAカップの試合を幾つか見た。
チーム成績は悪い結果に終わったが、彼のプレイは及第点で、得点機を演出していた。  
皆さんには、チーム成績はさておき、奥寺氏のパフォーマンスは「さすが助っ人と思う内容であった」という事を、お伝えしておきたい。


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【 1980年代、ドイツ2強、外国人助っ人紹介。 】


1980年代中頃、ブンデス2強、ブレーメンとバイエルン両チームの外国人助っ人計4人の顔触れは、ブレーメンは奥寺ペッツァイだ。

一方、バイエルンは、ベルギー代表、ジャン・マリー・パフ


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【写真解説】 
ベルギー代表、GK、ジャンマリー・パフ。

パフは、W杯1986、ベスト・イレブン」、 「 1987年、世界最優秀ゴールキーパーに選ばれた。
バロンドールで最高6位(1983年)。



もう一人がデンマーク代表 ミッドフィルダー、セーレン・レアビー

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【写真解説】 
バイエルン時代、セーレン・レアビー。(1986年、ブレーメン戦)。


レアビーは、バロンドール投票で、1985年は、12位。1986年、13位でした。
1986年は、ボランチで、欧州1位の順位です。
彼は、欧州最高レベルのボランチでした。また、「欧州チャンピオンズ・カップ、1979-80シーズン、得点王」の経験もありました。
という訳で、他の3人は凄い顔触れです。しかし日本人は、そこに奥寺が居た凄さを分かっていない。
当時の「ドイツ2強の助っ人」は、このように世界の一流選手達だった。
上述しましたが、奥寺は、ブレーメン時代のバイエルンとの対戦成績は、4勝3分2敗(リーグ戦)で勝ち越した。

そして奥寺は、1985-1986年シーズン後、日本に帰国した。
代わりに入団した新外国人は、現在でもノルウェー史上最高選手と評される、CB、ルネ・ブラツェットだ。
彼はバロンドールで最高15位。
当時ブレーメンは強豪で、助っ人レベルは高かった。
奥寺はアジア人なので当時、バロンドール選考対象ではなかった。しかし、ケルン、ブレーメンの外国人レベルがこれ程、高いならば、長年、そこで活躍した奥寺も同様に高い。
しかし、私は、日本人は奥寺の活躍した位置が分かっているかと疑問に思わざるを得ない。


【 奥寺康彦、在籍2チームの布陣。 】

ケルン2冠達成チームは、CFディーター・ミュラー、
ウィングが奥寺康彦とファン・ホール、
10番がノイマン、ボランチがフローエとクルマン。
DF陣は右SBコノプカ、CBがシュトラック、ゲルバー、左SBツィマーマン。
そしてGKがシューマッハ。
翌シーズンから歴史的名手のシュスター、リトバルスキーが一軍デビューした。

ブレーメンは、FWフェラー、ラインダース(ノイバート)。
MF10番マイヤー、右ジドゥカ、左に奥寺、DMがメルマン(ボタバ)。
DF陣は、右SBシャーフ、CBペッツアイ(フィヒテル)、グルーバー(クツォップ)、
左SBオッテン。
GKブルデンスキー。
ドイツ代表は4、5人居たが、代表で長く活躍したのはフェラーだけだった。
ブレーメン時代、奥寺は主に左サイドハーフでプレイした。


【 奥寺、世界のスターと対戦  & 凄い戦績。負け越しゼロ。 】

奥寺の時代、ブンデスリーガは、UEFAリーグ・ランキングだけでなく、個人賞という側面でも一番だった。
1980年前後は、ブンデス所属の選手がバロンドールを最も受賞した。
現在と違い、ドイツ人がバロンドールを受賞していた。
ノミネート候補30人中の約3分の1が、「ブンデス所属選手」という年が数回あり、最も候補者の多いリーグでもあった(注: 1986年からセリエAが欧州1位リーグになった)。
1980年前後のブンデスリーガは、ドイツ人選手のレベルが高く、一番華やかな時代だった
ブンデスリーガ歴代最多得点、1~4位までは、未だにこの時代の選手達だ(2018年現在)。
また1970~80年代のドイツ代表は、「W杯、ユーロ」で優勝、準優勝をよくして非常に強かった。
当時、ゲルト・ミュラー(リーグ得点王、歴代最多7回)と カール・ハインツ・ルンメニゲ(リーグ得点王3回)の2人が、バイエルンの2大エースとして君臨していました。彼ら2人はドイツ代表でもエースで活躍した。
奥寺はケルン時代にフォワードで、この2人が居たチームと対戦して2-0で勝利しました。
奥寺は得点できませんでしたが、試合は勝ちました。そして、この年は優勝しました。
あの時代、日本人の奥寺がミュラーと対戦して勝利したのは凄い事です。
一方、ブレーメン時代、奥寺氏は、監督から「ルンメニゲをマークしろ」と特別にセンターバック出場をした試合まであり、その時は守りで戦いました
上述しましたが、奥寺はケルン、ブレーメン時代を通じて、ルンメニゲに通算5勝1分1敗(リーグ戦)で圧勝した

また、1981年10月28日に、W杯1974で優勝し、バロンドールも2回受賞した、皇帝フランツ・ベッケンバウアーとハンブルガーSVとの「北ドイツ・ダービー」で対戦しました。
奥寺は、ラジオ番組で、
「ベッケンバウアーは晩年(36才)で体のキレがあまり良くなかった」
と語っていました。
この試合は奥寺のブレーメンが3-2で勝利しました。
全盛期ではなかったといえ、
公式戦でベッケンバウアーに勝利した事がある日本人は奥寺だけです。
またバロンドール2年連続受賞して、全盛期のイングランド代表エース、ゲビン・キーガン(ハンブルガー)や、同じく受賞者のアラン・シモンセン(ボルシアMG)ともリーグ戦で対戦していました。
他にもW杯1990年で優勝して、同年、バロンドールを受賞した、ロータ・マテウス(ボルシアMG、バイエルン所属)と対戦した。奥寺氏は、通算4勝3分3敗で勝ち越した。
また、ユルゲン・クリンスマンとの対戦も、3勝1敗で勝ち越した。
奥寺氏は、ドイツ時代9年間で、 「ドイツ1部リーグ戦、計27チーム」との対戦成績で、(注: ドイツ・カップの試合は含んでいません)、負け越しゼロ。
奥寺氏は、
 「ハンブルガー、カイザースラウテルン戦のみ、タイで終りました」。   
 奥寺氏は、ハンブルガー戦は、6勝2分6敗。カイザースラウテルン戦は、5勝5分5敗。
この2チームとの対戦成績は、タイに終わりました。
それ以外の25チームには、勝ち越しました。
更に、奥寺氏は、ほぼ毎年、優勝争いをした。上述しましたが、「リーグ戦で、6位より下で終わったシーズンがない」。
1部リーグ在籍、8年中5年は、優勝争いをした。
(注: チャ・ボングンは、ドイツに10年も居たが、リーグ戦で一度も優勝争いした事はない)
 奥寺氏は、 バイエルン・ミュンヘン、ボルシアMG、シュツットガルト、ケルン、ドルトムントなどの強豪チーム相手に、全て勝ち越しの成績で終った。
これは当たり前です。
なぜなら奥寺氏は、「1位や2位チームでずっと外国人助っ人だった」 からです。
故に、ドイツ代表のエース格が居た強豪チームにも勝ち越しの成績でした。
そして、「リーグ戦では、負け越しゼロ」という凄い成績でドイツ生活を終えました。
このように奥寺は、欧州最高のリーグで、欧州最高の選手と戦っていました。


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【写真解説】 
右がドイツ史上最高FW、ゲルト・ミュラー
(当時、W杯最多得点記録14点を作った。他に、ブンデスリーガ得点王、史上最多7回。バロンドール受賞1回)。
左がカール・ハインツ・ルンメニゲ(リーグ得点王3回。バロンドール受賞2回)。
1970年代後半、バイエルンはドイツ史上最強フォワード・コンビを有した。
奥寺はケルンで、この2人の居たバイエルンと優勝争いをした。
ちなみにミュラーは、ケルンが優勝した年に「7回目の得点王」になった。




【 奥寺が凄い理由。 】

奥寺以降の選手が「黄金世代」と評されたが、欧州最高リーグの強豪チームで毎年30試合先発した訳ではない。
小野伸二、中村俊輔は欧州6位以降のリーグ、香川のブンデスは欧州3位のリーグだった。
中田がローマで優勝した時、セリエAは欧州2位リーグだった。中田の移籍2年目以降、セリエAは欧州2位だ。
しかも中田は補欠だ。下位チームでしか活躍してない。
日本の歴史で、「欧州最高リーグで優勝した選手は、未だに奥寺康彦だけです」。彼はハイ・レベルな世界で最も長く活躍した日本人だ。
奥寺の欧州1位リーグ在籍期間は、通算7年。2部に約半年、居たのを除いても6年半、居た。
注:彼の欧州9年のうち、最後の2年、ブンデスは欧州1位リーグではなかった。

最後に、「アジカン」というウソつき馬鹿男の話は、信じないで下さい。

 それでは、皆さん、さようなら。



参考資料です。これは、「奥寺康彦は、FCバルセロナ主催の大会に参加して優勝していた」という話です。
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これは、他の記事です。これは、アジカンという「ウソつき馬鹿男」の問題について書いています。 
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