奥寺康彦はスピードを生かしたドリブルが持ち味だった。
しかし、それが世界最高峰で通用するレベルとなるにはきっかけがあった。
奥寺は、小学生時代に住んでいた社宅に卓球台があって遊びで卓球をやっていた程度で、本格的に何かのスポーツ少年団に入って運動をしていた子供ではなかった。
そして、奥寺は、中学入学して卓球部に所属した。その時、卓球場から外を見て
「たくさん走って嫌なスポーツだな。サッカーっていうのか、あれ」と思いサッカーというスポーツの存在を知ったそうだ。
当時の日本でのサッカーの子供への普及はそれ程、低かった。
奥寺が中2の時にやっと日本初のサッカー雑誌が創刊されたという時代だ。
そして、奥寺はサッカー部に転部してここで蹴り方の初歩段階を教わったのが、サッカーとの出会いであった。これは現代の感覚だと異例の遅さであろう。
「当時はトゥー・キックでしか蹴れなかった。インステップが難しくて習得に約1年かかった」
と語っている。
更に最初の一年は球拾いばかりで過ぎた。ちなみに奥寺の中学校には最初、ハンドボールのゴールしかなく、ハンドボールのゴールで練習していたそうである。
その後、部活顧問が近所の鉄工所に頼んでゴールを作ってもらったそうである。環境もとても悪かった。
このように、奥寺氏は、サッカーを始めるのが遅かった。そして、高校卒業後はサラリーマンなので、2日に一度しか練習ができなかった。だから、練習量が少なかった。
ちなみに、奥寺氏は、仕事は夜勤まで含まれる過酷な内容だった。夜勤のあった日は、その後に仮眠して、トレーニングに参加をしていたそうだ。
更に、奥寺氏には、21才頃から2年近く椎間板ヘルニアに苦しんだ。この時は、手術をしても治らなかった。この時、奥寺氏は、周囲に「引退宣言」をする程の深刻な危機に襲われた。しかし、その後、奇跡的にこの腰痛は治った。
奥寺氏は、その腰痛に悩まされた期間は、調子がずっと悪く満足にプレイできなかった。
以上のように、奥寺氏はサッカーを始める年齢が遅く、練習量が少なかった選手なので、
「当時はスピードとシュート力はあったけど柔らかいテクニックが下手だったので、そこを学びたいと思っていた」
と語っている。
しかし、その後、腰痛が完治した後に、ブラジルで2カ月間、ビッグクラブ、パルメイラスで武者修行のチャンスを得ると、そこで成長するきっかけを得た。
ここでスター選手だったジノ・サニ(ブラジル代表でW杯優勝した。ACミランで欧州チャンピオンズカップに優勝した名選手)から指導を受けた。この時は、奥寺氏は、フィジカル・トレーニング中心の練習ばかりで失望した。しかし、そのフィジカル・トレーニングが、奥寺にとって大きな効果を発揮した。
また2軍メンバーで、毎週一度、一軍選手と紅白戦をする貴重な機会を得て、奥寺は、他の選手の真似をして学んだ。
奥寺氏は、
「自分と同じく足の速い一軍の黒人選手が、テクニックでなくそのスピードを生かして抜き去って行くドリブルのプレイ・スタイルを見て非常に参考になった。ブラジル修行中に、必死にそのスタイルを真似して大きく成長できた」
と語っている。
つまり、奥寺は、中村俊輔や小野伸二よりテクニックで劣っているかもしれないが、世界の一流で通用するのにそんなモノは過剰に必要ないという事だ。
そこを馬鹿日本人は分かっていない。
奥寺はリフティングなどは下手であった。
しかし、奥寺のように自分の持ち味を生かしたスタイルを築いて高いレベルに到達したならば、世界の名将バイスバイラーの目にも留まるのである。
私は、馬鹿日本人のテクニック至上主義の価値観で、「奥寺は中村、小野、香川より下」と考えているのを見ると、サッカーの本質を分かっていないアホとしか言いようがない。
奥寺は、彼らより強烈なシュートを撃ち、スピードがあり、的確にプレイする。1対1がとても強い。
ドイツ時代のイエローカードはたった7枚(313試合)で、ファウルせずにボールを奪える守備力を持っていた。
長谷部は51枚、長友29枚だ(2019年現在)。
奥寺は、とても基本的な事に優れた選手である。アホ日本人は、足技で小器用な所を見ないと、レベル高いと考えないアホ体質なので奥寺氏の凄さを理解できない人間だらけという事だ。
一方で、世界の名将、バイスバイラー、レーハーゲルは凄さを理解して、外国人たった2枠でも是非、そこは奥寺が入団してくれれば欧州最高のリーグで優勝できる可能性が高まると思ったのだ。
世界の名将は、奥寺に魅了され契約してレギュラーで何年も使い続けたが、バカ日本人は何十年経っても魅力も凄さも分からない状態で中田、中村、小野、香川が上と思っているアホという事である。
それでは、皆さん、さようなら。