「サッカー日本代表の釜本記録水増し」に抗議している男のブログ。& 極悪ウィキ執筆者Athleta、別アカウントAth02問題。他に「日本代表の八百長試合事件」も抗議しています。

JFAとウィキペディア執筆者の記録捏造が酷過ぎる。JFA幹部は自分達の記録を良くする為、基準変更をした。 そして1人のウィキペディア執筆者がデマを流し、日本国民をだましている。世界に広がる釜本80点のデマ。日本人はAthleta(Ath02)の悪行を知り、早く永久追放すべし

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2020年09月

【 ニュース・キャスター、久米宏は、偉大だった。】

ニュース・キャスターで、久米宏という人物が居る。
彼は、現在、もうニュース番組の司会者を引退している。
久米宏は、1980年代後半から2000年代前半まで、テレビ朝日で、「ニュース・ステーション」というニュース番組の司会者を務めていた。
私は、今、思うに久米宏は偉大だったと思う。
と言うのは、現在のマスコミ連中が、2010年代に、自民党、安倍晋三政権に対して行った批判の甘さ、緩さというのが、目に余るモノだったからである。
安倍晋三が酷いことをやっていても追及が甘く、安倍ら悪徳政治家たちが増長するだけであった。
安倍らは、「公文書の書き変え」を官僚に指示した。その結果、兵庫県の役人は自殺をした。
赤木俊夫さん(享年 54)は、理不尽な命令に対して苦悩して、その結果、精神に異常をきたして自殺をした。
私は、この事件は本当に酷いと思っている。
そして、現在、日本国民がこの件に関心を持たず、安倍ら政治家に対して、質問、批判を一切、止めて「忘却状態」になっているのが、もっと酷いと思っている。
結局、この事件は、「誰が『公文書の書き変え』を指示したのか?」という点については、未だに不明である。マスコミがしつこく追及するのを放棄したので、真相は不明という状態で終わっている。
私は、この事件は政権が終了する程の酷い事件だと思っていたが、結局、日本のマスコミの追求が甘く、マスコミに携わる人間が「正義感不足」なので、安倍は追及から逃れて仕事を続けることが出来た。
つまり、私は、安倍政権が長期政権を築けたのは、日本のマスコミ連中のレベルの低さが大きく関係していたと思うのである。

1990年代前半、自民党は、政権を失った。
私は、これは当時、「ニュース・ステーション」のキャスターだった久米宏の活躍が大きかったと思う。
久米宏は、自民党の腐敗政治を番組で批判していた。
私は、久米のその鋭い批判が、「自民党が政権を失う」という事態まで持って行けたと思っている。
私は、2010年代に、久米宏が引き続き、ニュース番組の司会者をやっていたら、自民党、安倍晋三政権というのは、ここまで延命をしなかったし、選挙でもここまで勝利しなかったと思っている。
私は、現在のテレビ局でニュース番組の司会をやっている人間の顔を見ても、そこには、「正義心にかられて」とか、「何としてでも日本を良くする為に、危険でも意見を言う」、「悪を懲らしめる為に、しつこく追及をする執念」など、そういうモノを全然、感じない。
私には、「ええとこのぼっちゃん」が偏差値の高い大学を出てアナウンサーになって、「面倒なことを犯さず、給料を貰えればそれでいい」というような正義心の欠落した低い精神性があることしか感じない。

私は、政治というのは、「マスコミの連中が、危険でも勇気を持って政権批判をする」という姿勢がなければ、「悪政がはびこる」と思っている。
現在、自民党が長期政権を築いていることに関して、その理由は、「野党が情けないからだ」という人が居る。
私は、その意見は正しいと思う。
しかし私は、更に、
「マスコミの連中が、昔に比べて劣化している。国民の為、国の為に、危険であっても勇気を持って批判する」という姿勢に欠けていることが大きいと思う。


現在、日本の総理大臣は、菅 義偉(すが よしひで)になった。
菅は、「森友学園の公文書、書き変え事件」に関係している。
菅は、安倍晋三政権で、官房長官を務めていた。
しかし、日本のマスコミが、菅に向かって、「文書の書き変えが指示され、パワハラ殺人が行われた」
という事について、質問する人間は居ない。
菅に対して、「この事件について、国民に対してきちんと説明しろ」というマスコミの人間は、1人も居ない。
私は、赤木俊夫さんの死を、無念を無駄にしてはいけないと思う。
私は、この追及をしないという事は、赤木さんを犬死にさせたのと同じだと思っている。
私は、私以外の日本国民のほぼ100パーセントが、この件に関して、もう忘却状態にして、菅義偉に対して、何も批判しないことが恐ろしいと思っている。
日本人には、正義心があるのか? と思っている。
恐らく、日本人は、「自分は、赤木俊夫氏のような状態に追い込まれる可能性はない」として、赤木氏が自殺した事件について深く考えていないのだと思う。
私は、その日本人の無関心さは問題であり、社会の退化であり、人間性の劣化だと思っている。

それでは、皆さん、さようなら。



私は、ユーチューブで サッカー評論家、北條聡の動画を見た。
この男は、ユーチューブの番組で「蹴球予備校」と題して偉そうに講義をしていたのだが、私は、「何、言ってんだ?」と思うことばかりであった。
北條聡は、「『ハイプレス』と『カウンター・プレス』は違いますから
と述べていた。
私は、これを聞き、
「ハイプレスだって、ボール奪ってカウンターする為にやってんだろ?。どっちも同じだろ」
と思った。
私は、日本のサッカー界というのは、評論家たちにより、「無意味かつ不毛な言葉の量産」というのが行われている気がしてならない。

そして、この北條聡という評論家は、世界でろくに使用されていない、「ポジショナルプレー」という言葉を何回も使用していた。
私は、北條聡は、恐らく、海外の新聞は読んでないと思う。
北條がもし読んでいたら、「ポジショナルプレー」という言葉など、使う気にならないと思うのだ。

北條に限らず、日本のサッカー界は、「言語化が必要」という人間ばかりで、サッカー用語を増量させることに熱心である。
私は、それが、本当に的外れでおかしな行為だと思っている。
と言うのも、サッカーというのは、ほとんど言語化されていて、「言葉を増やす必要性が低い業界だ」と思うからである。
私は、彼らの行為を見ると、物事を複雑化させて、サッカー・ファンを混乱に陥(おとしい)れているだけにしか見えないのである。

 それでは、皆さん、さようなら。

<< サッカーの授業 >>


【 私が、世界で「ポジショナルプレー」という言葉が流行らない理由を説明する。】
     
【 私が、日本人に教える「ポジショナルプレー」という言葉の意味。】



私は、日本人サッカー評論家たち、そして、日本のマスコミを批判している。
その理由は、世界で流行していない戦術用語を、「流行っている」とウソをつき、雑誌を売ろうとしているからだ。
私は、これを「新戦術、詐欺商売」と呼んでいる。
具体的に言うと、雑誌「フットボリスタ」、雑誌「ナンバー」、雑誌「ワールド・サッカー・ダイジェスト」、これらの雑誌がやっている。
また、評論家で言うと、西部謙司、北條聡、結城康平などがやっている。

現在、日本では、「ポジショナルプレー」という戦術用語が、サッカー評論家たちによって盛んに説明されている。
しかし、この「ポジショナルプレー」という言葉は、私が海外のスポーツ新聞を読んでもろくに登場しない。
検索機能を使い、海外のスポーツ新聞のサイトで「ポジショナルプレー」と入力して検索しても、記事がろくにヒットしないのである。
また、読者投稿欄を見ても、海外のサッカー・ファンがこの言葉を使用して議論するということは、一切、ない。 私は、未だかつて見たことがない。

この「ポジショナルプレー」という言葉は、元々、チェス、ビリヤードで使われていた言葉である。
それが、サッカー界でも使われるようになったのだ。
現在、ジョゼップ・グアルディオラ監督(マンチェスター・シティー)など、ごく一部のサッカー監督が、この言葉を使っているのだ。
日本では、グアルディオラ監督が異様に評価が高く、ファンが多いので、この言葉が紹介されているという訳である。
しかし、前述したように、他の国では、この「ポジショナルプレー」という言葉は、相手にされておらず、使用されていない。
私は、日本人はアホなので、まずこの言葉の意味をサッカー・ファンに説明をしていないと思う。
言葉の元々の「由来、概念・意味」について説明していないのだ。
そして、「世界ではろくに使用されていない」という普及状況、認知度についても説明しないのである。
むしろ、日本人は汚いので、
「読者に世界での言葉の普及状況、認知度について説明しない方が雑誌が売れるので、説明しない事にしよう」と思っているのだろう。

それでは、今回、私がチェス界、ビリヤード界でこの「ポジショナルプレー」という言葉が、どういう風に使われているか、皆さんに説明をする。

まず、チェス界では、この「ポジショナルプレー」という言葉は、試合の中盤、膠着状態(こうちゃく じょうたい)の時に使われる。
チェスというモノは、試合の中盤で、膠着状態になる事が多いそうだ。
チェスにおける「ポジショナルプレー」という言葉は、以下の意味である。
「膠着状態の最中、自分の戦況が少しでも良くなるように駒を動かす。そして、決定的な手を打てるような態勢を作れるように頑張る」
という意味だそうだ。
つまり、「決定打が打てるようにする為の準備動作」という意味である。

次に、ビリヤード界での「ポジショナルプレー」という言葉の意味について説明する。
ビリヤードでは、
「2発目にボールを穴に入れる事ができるように、その前の1発目の打撃で、球を良い状態・配置に動かすこと」
である。

皆さん、これを聞いてどう思っただろうか?
チェスにしろ、ビリヤードにしろ、「ポジショナルプレー」という言葉の使われ方が、似ていると思わないだろうか?
そして、皆さんは、「ポジショナルプレー」という言葉の意味についてイメージが出来たのではないだろうか? 概念を捉えることが出来たのではないだろうか?
つまり、チェスにしろ、ビリヤードにしろ、「ポジショナルプレー」という言葉は、
決定打を打つ前の準備動作、態勢作り」という意味である。

私は、北條聡、西部謙司、結城康平、雑誌「ナンバー」、雑誌「フットボリスタ」など、あいつらが「ポジショナルプレー」という言葉を頻用しているが、アホなのか、元々の言葉の意味から説明しないという振る舞いを見て来た。
その結果、聞き手が、「ポジショナルプレー」という言葉のイメージを作れず、困惑しているのも見て来た。
それにも関わらず、あいつらは、「ポジショナルプレー」と言い続けて、この言葉を発信しているのだ。
その結果、日本では、現在、サッカー・ファンが、
「『ポジショナルプレー』という言葉をイメージできない」、
「『ポジショナルプレー』って言葉をよく聞くけど、何だか分からない」
という人間で溢れているのである。
私は、それを見て、本当に日本人は説明が下手でアホだと思った。


話を元に戻す。
この「ポジショナルプレー」という言葉であるが、現在、世界では、全く流行っていない。
なぜなら、この「ポジショナルプレー」という言葉は、サッカー選手は、昔からやっているからだ。
「チームが、決定的な仕事ができるように選手が色々と動く」というのは、サッカー選手は、昔からやっているし、試合中、何回もやっている。
そんな動作は、当たり前であるし、普通のことである。
だから、世界のサッカー・ファンは、こんな言葉を「新語」として捉え、これを使って議論しようなどとは思わないのである。
試合中、「ボールを受けようとスペースに走る」、「ピンチの味方のパス・コースを増やそうと動く。フォローする」、「ゴールが決まるように、両サイドの選手が広がってポジションを取る」などというのは、自然の事である。
これを、「ポジショナルプレー」と呼んで、サッカー・ファンが議論する気にはならないという事である。
その結果、世界では、この「ポジショナルプレー」という言葉は、流行らないし定着しないという事だ。
やっている事に新しさもなければ、特異性もない。
だから、目新しくないので、わざわざ言葉を作り、そう呼ぼうという必要性が生まれないのである。

日本人のサッカー・ファンは、この事を知って下さい。
そして、日本人サッカー評論家、日本のサッカー雑誌にだまされないで下さい。

それで、ジョゼップ・グアルディオラ監督らは、これを「ポジショナルプレー」と呼んでいるが、一般のサッカー・ファンは、グアルディオラみたいなアホではないので「ポジショナルプレー」などという言葉を使う気が起きない。
その結果、世界では、サッカー・ファンは、「ポジショナルプレー」という言葉がろくに使われないという事である。


  それでは、皆さん、さようなら。



【 JKT48、トーク番組。】












釜本邦茂、杉山隆一らが銅メダルを取ったメキシコ・オリンピックは、「大会レベル」が非常に低い。
私は、これについてブログで盛んに書いて来た。
私は、過去にアメーバ・ブログもやっていたのだが、そちらで何回も書いたのである。
(注: 現在は、私のアメーバ・ブログは消滅している)。
その甲斐もあってか、昔よりかは日本人サッカー・ファンは、「昔のオリンピックは、レベルが低かったんだ」ということを理解し始めるようになった。
そして、昔のオリンピックの参加選手の内容というのも理解し始めるようになった。
日本人は、私の「説明活動」が実を結んだようで、以下のことを理解し始めた。
1960年代のオリンピックは、
「プロが参加できない」、「出場選手は、下部組織に在籍していた若い選手」、
「出場選手は、プロ契約できないので下部組織にまだ居た。そのようなレベルの低い若い選手」、
「下部組織に居る選手だったので、後にプロになれなかった選手も居た」、
「日本が対戦したフランス、スペインは、下部組織の若手選手と3部リーグのアマチュア選手を組み合わせた代表チームだった。A代表のレベルでは全くなかった」、
「東欧は、若手主体で臨み、23才以下の選手ばかり」、
「1960年代のオリンピックの得点王は、10代の選手ばかり。若い選手ばかり参加していたので、1960年、1964年大会の2つ大会は、得点王が10代だった。18才だった。」
などの知識を身に着けるようになった。

しかし、私がとても疑問なのは、どうして日本のサッカー評論家、アナウンサーらは、誰一人として私のような説明を、日本のサッカー・ファンに全くしないのだろうか?
という事である。
後藤健生、大住良之、西部謙司、湯浅健二、金子達仁、セルジオ越後、小澤一郎、倉敷保雄、八塚宏、下田恒幸などなど、色々、居るが、
どうして誰一人、昔のオリンピックのその出場選手の内容について詳細に説明をしないのだろうか?

むしろ、現在では、サッカー・ファンの方が、ネット掲示板では、
「昔のオリンピックは、レベルが低かったから」と言い出して、ファン同士でその大会レベルの低さを説明し始めているという状態である。

私は、これが非常に奇怪(きっかい)に思う。
私は、こういう事は、サッカー評論家、アナウンサーなどが、放送・雑誌を通じて、きちんと無知なサッカー・ファンに説明しておかないと駄目なことではないか? と思うのだ。

日本では、その説明が行われていないので、釜本邦茂、杉山隆一らが参加した大会レベルが分からず、過大評価が生まれてる。
また、説明が行われていないので反発が起きず、日本サッカー協会が、得点記録に関してFIFA基準を否定し、勝手にJFA基準というモノを作る事ができた。
そして、オリンピック関連の試合の得点を国際Aマッチとして扱い、得点数水増しをして、公式記録とした。
その結果、釜本の得点数は22点も増えた。
しかし、その経緯が、国民に伝えられていない。
私は、日本人サッカー・ファンのほとんどは、昔のオリンピックはレベルが低い事を知らないので、日本サッカー協会がこのような酷い事をやっていても、誰も怒らないのだと思う。
これに関して、日本で怒っているのは、私だけだろう。


まとめると、私は、日本のサッカー評論家、マスコミで仕事をする人間が、
オリンピックの本当の大会レベル。参加者の顔触れ・年齢」という件について、誰も国民に紹介しようとせず、50年以上、それを続けた。
その結果、酷いことが起きていると思っている。
それ故、私は、現在では一部のサッカー・ファン同士のみで、「あの時代のオリンピックはレベルが低い」と説明し合うという状態が起きているのだと思っている。

私は、この状況を見て、本当に日本という国は、不思議で奇怪な国だと思うのだ。
このような事は、普通の国では起きない現象だろう。


  それでは、皆さん、さようなら。



サッカー評論家、西部謙司は、現在、「サッカー名将列伝」という連載をやっている。
これは、サッカーの世界の監督を紹介して行く連載である。
インターネットで連載しており、全て無料で読めます。

私は、この連載は、酷いと思っている。
と言うのは、西部謙司は、「名将列伝」と題して連載しているが、この連載では、その取り上げた監督のコメントは、全く紹介されないからだ。
毎回、西部が、当時、その監督が率いていたチームの感想を述べて、
「この監督は、こういう監督だった」と勝手に書いて終わりだからだ。

西部謙司は、自分でインターネットを駆使して、毎回、取り上げる監督の過去のインタビュー記事などを見て、その監督の思想・哲学を調べるというのが面倒くさいので放棄しているのである。
西部は、自分でその監督の率いたチームを見て、「この監督は、こういう監督だ」として済まし、読者に説明して終わりなのである。


直近の連載は、本当に酷かった。
それは、ビセンテ・デルボスケ監督を取り上げたモノであった。
タイトルは、
戦術がジャマだった銀河系軍団。レアルにデルボスケの凡人ぶりは必要だった
である。

なんと、西部謙司は、「ワールドカップ、ユーロでスペイン代表を優勝させた」 という名将、デルボスケを、「凡人」 と呼んでいるのだ。

そして、西部の連載では、デルボスケ監督のコメントは、全く紹介されていないのだ。
デルボスケ監督は、「戦術が邪魔だった」などと一言も言っていないが、西部謙司は、勝手にそう決めつけて、デルボスケ監督の哲学を紹介しているのだ。
私は、これは非常に問題があると思う。

私は、先月、「J-Sports」という放送局の「Foot」という番組を見た。
「Foot」という番組が、無料放送だったので、私は見ることができた。
「Foot」は、「デルボスケ監督に直撃インタビュー」というモノを紹介していた。
これは、デルボスケ監督が既にレアル・マドリードを退任した後、2000年代に受けたインタビューであった。
このインタビューは、なんとデルボスケ監督の自宅で行われた。
「Foot」のスタッフが、わざわざデルボスケ監督の自宅に行き、家に入れてもらって、デルボスケ監督は、自宅の居間で、インタビューを受けていた。
私は、あまりにもプライベートな空間に日本のマスコミが入れているので驚いた。
そして、デルボスケ監督は、銀河系軍団と呼ばれていた時代のレアル・マドリードについての思い出話を披露した。
あのチームに関して、監督自ら解説したのだ。
私は、西部謙司が、デルボスケ監督のコメントを一切、紹介せずにコラムを書き、勝手なことを書いて終わりにしているので、それに対して怒りが生じたので、今回、このブログを書いている。

デルボスケ監督は、ジネディーヌ・ジダン、ラウル・ゴンザレス、ルイス・フィーゴなど、スター選手が居たレアル・マドリードについて、こう述べていた。
「私は、ジダンを中央でプレーさせた。マスコミは左サイドでプレーさせていたと言うが、中央でプレーできるようにしていた。
左サイドは、左サイドバックのロベルト・カルロスが攻撃参加するので空けておいた。それによりジダンが中央で自由にプレーできるようにした」
と述べていた。
私は、これを聞き、「なるほどな」と思った。
西部謙司は、ビセンテ・デルボスケ監督を「凡人扱い」して、「当時のレアル・マドリードは戦術が邪魔だった」などと乱暴なことを書き、見下したような評論をしている。
しかし、当事者であるデルボスケ監督は、当然だが色々考えて、選手が生き生きと一番能力を発揮できる仕組みを考え、実践していたという事である。
上記のようなことを思うと、私は、いかに西部謙司のコラムが酷いモノであるか説明できると思う。
つまり、西部謙司は、連載コラムで取り上げる監督のインタビューというのを、全く調べていないので、当事者である監督がどう思ってチーム作りをしていたかが全く分からないのである。
しかし、西部謙司は、全く分からないにも関わらず、自信を持って、
「この監督は、こういう監督だった。このチームは、こういうチームだった」とだけ述べて、連載コラムを毎回、終わりにしているのだ。
私は、この姿勢は、本当に酷いと思っている。
デルボスケ監督は、この番組のインタビューでは他にも、
「現在、ラウル・ゴンザレスは、ふさわしいポジションでプレーしていない。それがラウルが得点が減っている原因だ」
と述べていた。
私は、それを聞き、
「その通り。さすがデルボスケ監督は、チームの問題点を分かっている。デルボスケ監督の指摘は、本当に的確だ」
と感心をした。
恐らく、西部謙司は、デルボスケ監督のこういうインタビューを、一度も見たことがないのだと思う。
だから、西部謙司は、デルボスケ監督を見下したようなコラムを書けるのだと思う。

そういう訳で、日本のサッカー・ファンの皆さんには、西部謙司の連載コラムのやり方は、酷いと知って下さい。
西部は、面倒くさいので、資料を集めて調べるというのを真面目にやっていません。当事者の監督のインタビュー記事は調べていません。面倒くさいので、監督のインタビューを読んでないのです。 
だから、西部のコラムでは監督のコメントが紹介される事はありません。
その結果、西部は、監督の凄さを分かっていないので、取り上げる監督を見下したコラムを書いています。

そして、日本のサッカー・ファンは、西部謙司の意見にだまされないで下さい。
あれは、西部謙司が、よく調べずに怠慢さを発揮して、勝手に書いて終わりにしているだけのコラムです。


  それでは、皆さん、さようなら。




私は、今年、NHKの番組を見ていたら、ジャック・アタリという学者が出ていた。
このジャック・アタリという人物は、思想家、経済学者で、フランス大統領の相談役を務めている人物だそうだ。
世界で結構、有名な学者だそうだ。
私は、このジャック・アタリが日本について述べていた発言に驚いた。
それは、1970年代後半の日本についてである。
アタリは、当時の日本について、以下のように述べていた。
「日本は、経済成長をし、これからアメリカに代わる超大国になるのではないかと思って見ていた」
と述べていたのだ。
私は、驚いた。
フランス人の学者は、日本について、
「アメリカを超え、アメリカに代わる超大国になるのでは?」
という予想までしていたのだ。
しかし、その後、日本は超大国にならなかった。アメリカに代わらなかったし、世界を引っ張って行く「リーダーの国」にも全くならなかった。

日本は、1980年代、アタリが予想したように更に金持ちになって「バブル景気」で盛り上がったが、それだけだった。
日本は、それで終わった。

私は、日本が「バブル景気だけで終わった」というのは、日本に問題があったと思うのだ。
それは、精神的な問題である。
つまり、日本という国は、金儲けしか考えていなかったのだ。
日本人は、「アメリカを超えて、俺たちが超大国となって世界を引っ張り、世界のリーダーの国になる」という高邁な思想・考えは、全くなかったのだ。
むしろ、「アメリカを超えるなんてめっそうもございません。アメリカさん、私達は、あなたに死ぬまでついて行きます」
というような子分体質、舎弟体質しか有していないのが、日本という国であった。
それは、2020年の現在になっても全く変わらない。
私は、現在、中国を見ると、「中国は、アメリカを超えてやろう」という意志があるだろうと思う。
それは、経済面だけでなく、他の面に関しても、全部、超えてやろう。
世界のリーダーになってやるという意志があるだろう。
これは、1970年代後半の日本にはなかったモノだ。

私は、こういう考えが「ある、ない」は、かなり大事だと思う。
私は、なぜ現在、日本が没落したかというと、それは経済の問題だけではないと思う。 
日本は、経済しか考えてなかったから没落したのだ。
そして私は、今後、日本がまた盛り返したとしても、その時もまた経済しか考えてなかったら、再び没落するだろうと思う。
私は、日本が子分体質、舎弟体質のままで、「日本が、世界のどの国も超えた超大国になる」というぐらいの野望がないならば、日本が栄える日は、永久に来ないと思っている。


 それでは、皆さん、さようなら。


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