サッカー評論家で、西部謙司という男が居る。私は、こいつが、本当に酷いと思っている。
学問で「歴史学」というモノが在る。その為、日本のテレビ局が歴史モノのドラマを作る場合は、「時代考証」などと言って、歴史学者がドラマの内容がおかしくないか監修することが普通である。
しかし、日本のサッカー界は、マイナー業界なので「歴史学」などというモノは確立されていない。
その結果、「サッカー歴史学者」などという存在は居ない。
それ故、「西部謙司のような馬鹿が、ウソをまき散らす」という事が行われる。
西部謙司のような「にわかサッカー・ファン」で、なおかつ傲慢な人間が、自分の狭く浅い知識で勝手に創造した歴史を説明するという悪夢が展開されてしまう。
西部謙司にストップをかける人間が、日本には居ないのだ。
こいつの狭く浅い知識により発信される、「ウソ・憶測の酷い批評」を制止する人間が居ないのだ。
西部謙司が、サッカー選手のインタビューを調べる、海外からサッカー本を多数購入して読み込んでいる。又は、海外のスポーツ新聞を読み込んでいるなどのことをしているのならば、問題は起きない。
しかし、この西部謙司というとんでもない馬鹿は、上記のようなことはせず、「自分の憶測で歴史を説明する」という有り得ないことを行い続けている。
ある時代の有名チームについて説明する際、普通の人間は、「このチームの監督・選手のインタビューを調べたら、このようなことが説明されていた」という風に「調べて事実を紹介する」というやり方をするのが常識だろう。
しかし、この西部謙司という、とんでもない馬鹿は調べないのである。
そして、自分の憶測で「こういう事情だろう」などの文言を使い、このような結論で終わりにするのだ。
普通の人間は、どういう事情なのか、そこを調べて証拠を得ようとする。その調べた証拠を元にして書こうとする。
しかし、西部謙司という馬鹿は、調べるのが面倒臭いので調べない。そして、勝手に「こういう事情だろう」という結論にして終わりにするのである。西部謙司というとんでもない馬鹿は、自分がいい加減な性格であり、知識不足であるにも関わらず、「資料を多数、用意するのが大事である」という歴史分野において、資料調べということをしないのである。
そして、「専門家」という態度で偉そうに、日本人サッカー・ファンに説明しているのだ。西部謙司というのは、それぐらいの大馬鹿である。
繰り返すが、普通、「俺は、資料を調べていない」と思ったら、人様に向かって歴史を説明するのを避ける。そういう場合は、「調べてから書こう」という意識を持つ。それが、普通の人間の感覚である。
しかし、西部謙司というとんでもない馬鹿は、「調べない」。そして、「多分、こういう事情だろう」と書き、「自分の憶測で歴史を説明する」という事をするのだ。
そして、西部謙司は、「私は、こう思います」という私個人の意見ではなく、「このチームは、こういうチームだった」と断定的に書くのだ。調べていないくせに、自分の意見がその時代の多くの人間の考えを代表しているという感じで説明するのである。
これについては、「お前、調べてないだろ?」と、その薄っぺらさ、知識の浅さに、ツッコミを入れざるを得ない。西部謙司は、自分で自覚できないのだ。自分で、「俺のやっていることは、おかしい」という自覚ができないのである。それぐらいのとんでもない馬鹿なのである。
私は、こういう馬鹿が、日本のサッカー・ファンにサッカーを説明するのは、非常に問題だと思う。
西部謙司は、ビセンテ・デル・ボスケ、カルロ・アンチェロッティについて、「普通のおじさん」、「凡人」と説明していた。
海外のスポーツ新聞を読めば、この2人の名監督の長所について、関わった選手たちががコメントをしている。
しかし、西部謙司は、とんでもない馬鹿なので「調べない」。
そして、デル・ボスケ、アンチェロッティの2人が、西部謙司から見て、結構、普通に見えるので「普通のおじさん」という結論にして終わらすのである。
このブログの読者の皆さまには、この西部謙司という男が、いかにおかしなサッカー評論家であるかということに気づいて欲しい。
それでは、皆さん、さようなら。
参考資料です。
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これは、他の記事です。これは、アジカンという「ウソつき馬鹿男」の問題について書いています。
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