「サッカー日本代表の釜本記録水増し」に抗議している男のブログ。& 極悪ウィキ執筆者Athleta、別アカウントAth02問題。他に「日本代表の八百長試合事件」も抗議しています。

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カテゴリ: 奥寺康彦




1970年代後半、ドイツ・ブンデスリーガは、「欧州最高のリーグ」だった。
注: UEFAリーグ・ランキングで、1976~84年までずっと1位だった。

1977-78シーズン、ケルンは、国内リーグ、ドイツ・カップに優勝して、「2冠」を達成した。
20世紀、ドイツでは「2冠達成」は難しく、今より偉業とされた。
ケルンは、ドイツ史上3チーム目だった。
2冠達成チームは、20世紀中では、僅か4チームしかない。ケルンの2冠は、1937年、シャルケ、1969年、バイエルンに次ぎ、3チーム目だった。他は、1986年のバイエルンのみです。
現在まで、2冠達成チームは、リーグ史、84年で15チームある [ 2019年現在 ] 。
しかし、2000年以降の19年間で、11チームも生まれた。現代の方が、2冠を達成し易くなっています。   

当時、ケルンは、「稀な成功」を達成した訳だが、日本のサッカー・ファンはどんなメンバーだったのか顔触を、ご存じでない方が多いだろう。
故に、私が、その時代のケルンを、皆さんにご紹介致します。


[  ケルン 1977-78 ] 


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            ミュラー
 
ファン・ホール  ノイマン  奥寺康彦
 
   クルマン      フローエ
 
ツィマーマン シュトラック  ゲルバー コノプカ
 
         シューマッハ 



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【写真解説】    
ケルンのセンターフォワード、ディーター・ミュラー。
「1977、78年、2年連続、ブンデスリーガ得点王」。
  
ミュラーは、リーグ通算177得点 [ 当時、歴代4位 ] で引退した。
(2019年現在で、まだ歴代8位です)。
ドイツ代表では、「ユーロ1976」大会、得点王になった。
 彼は、1970年代後半、「世界屈指のセンターフォワード」だった。 


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【写真解説】 ケルンでシュートを撃つ、ミュラー。


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【写真解説】 
1976年6月17日。 写真、左、ミュラー。

「ユーロ1976準決勝、ドイツ 対 ユーゴスラビア」戦で、ヘディング・シュートを撃つ、FW、ディーター・ミュラー(ドイツ代表、22才)。
この試合、ドイツは、4-2で勝利した。
ミュラーは、3得点を決め、ハットトリックを達成した。
その後、ドイツは「準優勝」の成績で、大会を終えた。
決勝戦で、ドイツはチェコスロバキアと対戦した。2-2の同点で、その後、延長戦で決着がつかず、PK戦を行った。ドイツは、PK戦で敗れた。
ちなみに、ミュラーは、決勝戦でも1得点を挙げた。 


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【写真解説】
「ユーロ1976準決勝、ドイツ 対 ユーゴスラビア」(写真、2枚目)
写真、右が ヘディング・シュートを撃つ、ディーター・ミューラー。


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【写真解説】 
1978年 6月21日。
「W杯1978、2次リーグ、ドイツ 対 オーストリア」。
写真、右が FW、ミュラー(ドイツ代表、24才)。
左が DF、ブルーノ・ペッツァイ(オーストリア代表、23才)。

ドイツは、2-3で敗れた。
W杯1978で、ミュラーは、「4試合2得点」という成績で終えた。



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【写真解説】  
FW、トニー・ウッドコック(イングランド代表)。

1979-80シーズン序盤、FW、ロジャー・ファン・ホール(ベルギー代表)が大怪我をして戦列を離れた。その為、ケルンは、急遽、ノッティンガム・フォレスト(ENG)から、ウッドコックを獲得した。
ドイツ・クラブ史上、最高額の移籍金」で獲得した。
先シーズン、欧州チャンピオンズ・カップで、ノッティンガム・フォレストは優勝していた。欧州2連覇を達成した。ウッドコックは、「欧州王者チームのフォワード」だった。


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【写真解説】 
   1980年3月8日。
ブンデスリーガ、1979-80シーズン、
第24節、「ケルン 対 シャルケ」。
右、FW、ウッドコック。
左、DF、ベルント・ティーレ(シャルケ所属)。

試合は、1-1、引き分けで終った。

        

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【写真解説】 
中央、ケルンでボールをキープする、ウッドコック。



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【写真解説】
左、FW、ウッドコック(ケルン所属、イングランド代表)。
右、
FW、ゲビン・キーガン(ハンブルガー所属、イングランド代表)。
この当時、キーガンは、「2年連続、バロンドール受賞」(1978、79年)していた。欧州最高の選手だった。
当時、ブンデスリーガでイングランド代表のスター2人がプレイした。
この時代、ブンデスリーガは、「欧州最高のリーグ」だったので、名選手にとってレベル面で魅力のあるリーグだった。
それ故、彼らは、ドイツ挑戦をした。

   

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【写真解説】 
ウィング、奥寺康彦。

奥寺は、ケルン2冠達成シーズンの終盤は、「残り3試合を3試合連続ゴール」して優勝決定の立役者となった。
彼は、「アジア人で6番目に、欧州プロリーグ挑戦した選手」であり、しかも入団1年目だったが、優勝を決める大事な試合で活躍をした。

ヨーロッパがプロリーグ化して以降、奥寺氏の前に欧州挑戦したアジア人は居ました。
イラン人が4人、香港人が1人挑戦した。
アジアでは、イラン人ばかりが欧州に挑戦していた。
しかし、1部リーグでは誰も活躍できなかった。
2部リーグで活躍した人は居ました。しかし、1部では無理でした。
故に、私は、実質的にアジア人で挑戦した最初の成功者は奥寺であると思う。




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【写真解説】 
ケルン時代、ヘルタ・ベルリン戦、ドリブルする、奥寺康彦。


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【写真解説】 
1980年、ケルン外国人助っ人3人の集合写真
。(試合出場は2人のみ)。
番右(選手)イングランド代表FW、トニー・ウッドコック(24才)。 
イングランド代表で、42試合16得点。
ケルンで130試合39得点。アーセナルで131試合56得点。
中央がスイス代表主将、司令塔ミッドフィルダー、ルネ・ボッテロン(25才)。
番左が、奥寺(28才)。 
一番右は、カールハインツ・ヘダゴット監督。



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【写真解説】 
ウィング、ロジャー・ファン・ホール(ベルギー代表)。
1976年、「ドイツ史上、外国人選手、最高額の移籍金」で、ケルンに入団をした。 
彼は、先シーズン、クラブ・ブルッヘで「UEFAカップ準優勝」をして活躍した。
ケルンが、その活躍を見て獲得をした。
彼は、入団1年目(1977年)、ドイツ杯優勝に貢献した。
2年目(1978年)は、ケルンの2冠達成(リーグ、ドイツ杯優勝)に貢献をした。 

    

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【写真解説】 
1976年、ケルンでプレイする、ファン・ホール
(26才)。

ファン・ホールは、とても優れたウィングだった。
しかし、1979-80シーズン、第4節(1979年9月1日)、シュツットガルト戦で、大怪我をした。この後、シーズン全休した。
そして、このシーズンを最後に、ケルンを退団した。
彼は、怪我以降、全盛期のレベルを見せる事ができなくなった。彼は、日本では有名でないが、素晴らしいウィングである。
1970年代後半、奥寺と共に2人は、ケルンの「両ウィング」で活躍をした。


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【写真解説】 
1978年。 ケルンの仲間と共に、インタビューを受ける、中央(選手)FW、ファン・ホール。
一番左(選手)が FW、ディーター・ミュラー。
一番右が MF、クルマン。



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【写真解説】 
司令塔MF、ヘアバート・ノイマン。
1977年5月、名手、ウォルフガング・オベラート(W杯1974で、ドイツ代表の司令塔を務めて優勝をした)が引退してケルンを去った。
その翌シーズン、ノイマンは、ケルンの新司令塔として活躍をした。「2冠優勝」に貢献をした。
ノイマンは、1972年、19才の時、ケルンでデビューした。そして、1980年、27才まで8年間、在籍した。ケルンで、250試合に出場をした。


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【写真解説】 
1978年、ドイツ代表のユニフォームを着る、ノイマン(25才)。
ドイツ代表キャップ数は、僅か1試合だった。
ノイマンは、W杯1978に出場する予定だった。しかし、膝の故障で辞退した。私は、この話は、奥寺氏がテレビ番組で話していて知りました。


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写真解説】 ケルンでプレイする、ノイマン。



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【写真解説】 
ボランチ、ハインツ・フローエ(ドイツ代表)。
フローエは、W杯1974で優勝をした。
ユーロ1976では、準優勝をした。 
W杯1978では、ベスト8で終わった。
彼は、ドイツ代表でも活躍をした、名ボランチだった。


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【写真解説】 
写真、中央奥、白いユニフォームが、フローエ(背番号10番)。
W杯1978、2次リーグ。ドイツ代表で、イタリアと対戦中。
0-0で、引き分けた。

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【写真解説】 1976年、ケルンでのフローエ。


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【写真解説】
1977-78シーズン、ドイツ・カップ優勝して、スタジアムでファンに挨拶している。
左、 MF、フローエ
(30才)。
右、 FW、ディーター・ミュラー
(24才)。


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【写真解説】
1978年、ドイツ杯トロフィーを掲げる、フローエ。(写真、2枚目)。


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【写真解説】 
ケルン時代、
右が MF、フローエ。 
左が GK、  ハラルト・シューマッハ(ドイツ代表)。


W杯1978年開催時、フランツ・ベッケンバウアーは、「フローエは、ドイツで一番優れた選手だ」と称賛した。
奥寺は当時、ドイツ最高の選手とチームメイトだった。


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【写真解説】 
右奥、 ハインツ・フローエの銅像。
フローエは、ケルンで唯一、銅像が立てられる程、人気と実力があった選手だ。

 写真一番左は、クラブ副会長(2019年、現在)、 名ゴールキーパーだったハラルト・シューマッハ


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【写真解説】
ボランチ、 ベルンハルト・クルマン。
クルマンは、1970年、ケルンで20才でプロ・デビューした。
その後、1983年、33才まで、ケルン一筋で引退した選手である。
ケルンで、341試合に出場をした。
また彼は、ドイツ代表でも活躍した。W杯1974、ユーロ1980で優勝をした。
彼は、W杯1978にも参加した。


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【写真解説】
ケルンでプレイする、MF、クルマン。


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【写真解説】 
ドイツ代表でプレイする、クルマン(写真、左)




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【写真解説】 
ボランチ、ベルント・シュスター。
シュスターは、サッカー史に残る、名選手である。「1980年代を代表する、名ミッドフィルダー」である。
彼は、19才で、既に強豪ケルンの司令塔で、「20才で、バロンドールで2位になった」という天才ミッドフィルダーである。
シュスターは、10代で活躍していたので、スペインのビッグ・クラブ・バルセロナに目を付けられた。そして、20才で移籍してしまった。
彼は、ケルンで18才でデビューしたが、僅か2年しか在籍しなかった。
ちなみに、シュスターは、バルセロナ、レアル・マドリード、アトレチコ・マドリードの「スペイン3大クラブ、全てで司令塔を務めた」という、唯一無二の選手である。


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【写真解説】
ケルンでプレイする、シュスター。
1978-79シーズン、まだ19才だったが、ケルンの司令塔を務め、
欧州チャンピオンズ・カップで、ベスト4進出」に貢献をした。
奥寺は、彼のパスを受け、攻撃をしていた。
また翌1980年は、奥寺と共に、ドイツ杯、準優勝をした。


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【写真解説】 
1980年5月13日。
中央、ドイツ代表での、シュスター(20才)。
右が クルマン(30才。ドイツ代表、MF、ケルン所属)。
左は、ドイツ代表コーチ。

1980年、ドイツ代表で、シュスターとクルマンの2人は、「ユーロ1980」で優勝をした。
シュスターは、20才で、既にドイツ代表の司令塔だった。



【 守備陣、紹介。 】

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【写真解説】
CB、ゲルハルト・シュトラック。
彼は、長身(身長186センチ)のセンターバックだった。
1980年代前半は、ケルンの主将を務めた。また、ドイツ代表にも選ばれた。
ドイツ代表では、10試合に出場しました。


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【写真解説】   
ケルンでプレイする、シュトラック。


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【写真解説】
CB、ローランド・ゲルバー。
2冠達成シーズン、先発で活躍をした。
リーグ戦、全34試合に先発をした。


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【写真解説】
CB、ディーター・プレスティン。
1979年、ゲルバーからポジションを奪い、センターバックのレギュラーとなった。
彼は、1976年、20才でケルンでデビューすると、1989年、32才までケルン一筋でプレイした。
プレスティンは、ケルンで、計316試合に出場をした。


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【写真解説】
右サイドバック、ハラルド・コノプカ。 
コノプカは、1971年から12年間、ケルンに在籍した。451試合に出場をした。  
彼は、ケルンのレジェンドである。


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【写真解説】
左、コノプカ。 ケルンで、センタリングを上げている。


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【写真解説】
ドイツ代表でプレイする、コノプカ
(25才)。
コノプカは、W杯1978に参加して、1試合(イタリア代表戦)に出場をした。
注: 彼は、ドイツ代表キャップ数は、僅か2試合で少ない。


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【写真解説】
左サイドバック、ヘアバート・ツィマーマン。
ツィマーマンは、1974年、20才の時から、1984年、30才まで、ケルンで10シーズン、プレイした。
彼は、ケルンで、266試合に出場をした。  


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【写真解説】
ケルンでプレイする、ツィマーマン。


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【写真解説】
試合終了後、 ケルンのメンバー。

中央が、SB、 ツィマーマン(24才)。
左が  FW、奥寺康彦  (26才)。
右端奥が SB、 コノプカ (25才)。


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【写真解説】
ドイツ代表での、ツィマーマン。
ツィマーマンは、ドイツ代表で、W杯1978に出場をした。
ユーロ1980にも参加したが、試合出場はできなかった。
しかし、ケルンのチームメイト、クルマン、シュスター、シューマッハと共に、一応、優勝メンバーである。
ちなみに、彼のドイツ代表キャップ数は、14試合である。


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【写真解説】
GK、ハラルト・シューマッハ。
シューマッハは、サッカー史に残る、名ゴール・キーパーである。

彼は、ケルンで大活躍したが、ドイツ代表でも大活躍をした。
彼はドイツ代表で、 ユーロ1980優勝。 W杯1982準優勝、W杯1986準優勝。
「ユーロ1984最優秀GK」。
 「W杯1986、シルバー・ボール賞」[ 大会最優秀選手、次点の賞] 。

MF、ディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン代表)に次いで、2位という素晴らしい活躍をした。
シューマッハは、「1980年代を代表する 名ゴールキーパー」だった。


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【写真解説】 ドイツ代表での、シューマッハ。


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【写真解説】
ドイツ代表での、シューマッハ。(写真、2枚目)。


1977-78シーズン終了後、開催されたワールドカップ1978には、ケルンから、ドイツ代表に5人選ばれた。
(注: 「*」 印は、W杯1978参加選手
橙色
は、1970年代後半、代表選手。

[ ケルン 1977-78 ] (2冠達成、欧州最高得点率、2.5)。


4-2-3-1システム。
 
            *ミュラー
 
ファン・ホール  ノイマン  奥寺康彦(26才)
 
   *クルマン      *フローエ
 
ツィマーマン シュトラック  ゲルバー *コノプカ
 
         シューマッハ 


ケルン  1978-79 ] (欧州チャンピオンズ・カップ、ベスト4)
 

4ー2-3-1 システム
 
         ミュラー
 
ファン・ホール  ノイマン  グロバツ(奥寺康彦、27才)
              
   クルマン     シュスター(フローエ) 
 
ツィマーマン  シュトラック  ゲルバー  コノプカ
 
         シューマッハ


[ ケルン1979-80] (得点率、欧州5位、2.2)、(ドイツ杯、準優勝)(リーグ戦、順位5位)。
 
4-4-2 システム
 
     ウッドコック (ノイマン)  ミュラー
 
     奥寺康彦(28才) リトバルスキー
 
     クルマン      シュスター 
 
ツィマーマン プレスティン シュトラック コノプカ
                   
         シューマッハ   
 
【 解説 】   
このシーズンのケルンは、凄いメンバーだと思います。
奥寺氏は、「リーグ戦34試合中、28試合に先発した」。
完全に「レギュラー」と呼んで良い成績だと思います。
リーグ戦は5位でしたが、メンバーが凄いせいか、得点率は「2.2」でした。欧州5大リーグで、得点率は、5位でした(全94チーム中、5位)。




【 おまけ。準レギュラー 紹介。 】

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写真解説】 MF、ピエール・リトバルスキー。
リトバルスキーは、ドリブルが得意な選手だった。
彼は、クラブのレジェンドである。ケルンで、計14シーズンもプレイした。
リトバルスキーは、1978年、18才でケルンでデビューした。
翌1979-80シーズンは、奥寺氏と共に、レギュラーで活躍をした。
彼は、プロ駆け出しの頃、奥寺とチームメイトだった。
その後、彼は成長して「1980年代、ケルンのエース」となった。
リトバルスキーは、ドイツ代表でも活躍して、W杯1982は、準優勝。W杯1990では、優勝をした。

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【写真解説】  
ケルンでドリブルする、リトバルスキー。


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【写真解説】 
W杯1982、準決勝フランス戦で、ドリブルするリトバルスキー(写真、右)。
彼は、W杯1982で、準優勝をした。


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写真解説】 
W杯1990でプレイする、リトバルスキー。
W杯1990で、彼は優勝をした。


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写真解説】
MF と DF、ホルガー・ビルマ―。
ビルマーは、1977年、ケルンで19才でデビューした。
彼は、ケルンで活躍した後、1984年、25才の時、ビッグ・クラブ、バイエルン・ミュンヘンに移籍をした。
バイエルンで、3シーズン、活躍をした。


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【写真解説】 
右ウィング。ユルゲン・グロバツ
。(元々は、右サイドハーフでミッドフィルダーです)。
グロバツは、1971年、ケルンで18才で、デビュー以来、活躍していた。
しかし、1977年、奥寺入団を機に出場機会が減った為、ブレーメンにレンタル移籍した。
そして、翌1978年シーズン、ケルンに帰って来た。
彼は欧州チャンピオンズ・カップでは、奥寺とのポジション争いに勝ち、先発を務めた。
1978-79シーズン、国内リーグ戦で、グロバツと奥寺の2人は、共に、23試合先発した。同じ試合出場数だった。ちなみに2人共、27才で同い年だった。
しかし、欧州チャンピオンズ・カップでは、バイスバイラー監督は、グロバツの先発起用を選び、奥寺を控えにした。
奥寺氏が、欧州チャンピオンズ・カップでの出場数が、たった2試合と少ないのは、この年、グロバツとの争いに敗れたからである。
しかし、シーズン後、なぜかバイスバイラーは、グロバツを放出した。ちなみにグロバツは、レバークーゼンに移籍した。
そして、バイスバイラー監督は、翌1979-80シーズンからは、再び奥寺氏をレギュラーで起用した。
バイスバイラー監督は、グロバツを評価していたので、普通、放出されるのは、奥寺氏になるはずだ。
しかし、なぜかグロバツが放出され、格下のチームへ移籍した。


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【写真解説】 
グロバツ、全身写真。
グロバツは、その後、レバークーゼンで3シーズン過ごして、30才の若さで引退した。
恐らく、怪我等が原因で、引退したと思われる。 



【 更に、おまけ。監督紹介。 】


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【写真解説】
ヘネス・バイスバイラー監督。
この素晴らしいチームを作り上げたバイスバイラー監督です。彼は、「名将」と評価されています。
1970年代、ブンデスリーガで、4回も優勝しました。
(1970、71、75、78)。
彼は、ボルシアMGの監督を務め、3回優勝をしました。
その後、1978年にケルンで優勝をしました。
  

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【写真解説】 
1977-78シーズン、ケルン2冠優勝、記念写真。
この年のケルンは、ドイツで「歴史的チーム」と評価されている。

中段右から2人目が、FW、奥寺康彦。
その隣(右端)が、FW、ディーター・ミュラー。
(2年連続リーグ得点王。ユーロ1976年大会、得点王)。
中段左から2人目が MF   クルマン、後段右端が MF フローエ。
(2人はボランチで、W杯1974年優勝メンバー)。
中段左端が 司令塔MF     ノイマン。
前列左端が     FW、  ロジャー・ファン・ホール(ベルギー代表FW)。
前列左から2人目、CB、 プレスティン。
前列中央、     GK、  シューマッハ(ドイツ代表正GK)。
前列左から4番目、CB、 ゲルバー。
前列右端が    CB  シュトラック。 
後段左端、     DF、  ツィマーマン。
後段左から2番目、 DF、  コノプカ。


以上が主力メンバーで、リーグ最多得点、86得点(34試合)、欧州最高得点率 (2.5点)で優勝した。ボルシアMGと並んで、得点率1位でした。
ケルンは、欧州5大リーグ、94チーム中、1位の得点率でした。
他国の得点率1位との比較は、以下だ。             
1978年 ケルンボルシアMG(2.5)。
R. マドリード(2.3)、モナコ(2.1)、エバートン(1.8)、ビチェンツァ(1.5)より上。
ちなみに、バルセロは(1.4)だった。


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【写真解説】 
1978年、ケルン「2冠優勝」祝賀会。
写真、左、ドイツ杯トロフィーを持ち上げているのが、FW、奥寺康彦。
 

 
 以上です。

   それでは、皆さん、さようなら。




これは、他の記事です。これは、アジカンという「ウソつき馬鹿男」の問題について書いています。 

   ↓










1980年代中頃、ブンデス2強、ブレーメンバイエルン、両チームの外国人助っ人、計4人の顔触れを紹介します。

1980年代、欧州は、外国人枠は2~3人でした。
ドイツ ( ブンデスリーガ) 、イタリア( セリエA) は、2人。
イングランド、スペイン、フランスの3国は、3人でした。

という訳で、奥寺氏の時代(1980年代)は、ブンデスリーガの「外国人枠は、2人」でした。

ちなみに、「外国人枠が2人」なので、「1980年代、ブンデスリーガの上位チームの助っ人レベル」は、高いです。
上位チームじゃなくても、たった2枠なので、昔は現在と違い、「外国人助っ人選手の平均レベル」が、高かったです。
 
1980年代中頃、ブンデスリーガでブレーメンバイエルンは、「2強」の状態となりました。
ライバル・チームとなり、優勝争いを繰り広げました。
それでは、そのブレーメンとバイエルン、それぞれの「助っ人2人」を紹介します。
彼ら(計4人)は、これらのチームで「3~6年の期間」在籍して活躍をしました。


まず、ヴェルダー・ブレーメンは、MF、奥寺康彦 と DF、ブルーノペッツァイだ。

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【写真解説】 
サイドハーフ、サイドバック。プロ・リーグ化以降、欧州挑戦した6番目のアジア人選手、奥寺康彦
ブレーメンには、1981~86年まで在籍した。



最初のアジア人選手は、1920年代にFCバルセロナで活躍したフィリピン人、パウリーノ・アルカンタラです。
アルカンタラは、アマチュア・リーグで活躍しました。当時スペインは、アマチュア・リーグでした。
この時代は、まだヨーロッパはイギリス以外の国は、プロ化していませんでした。
そして、彼はフィリピン人ですが、3才でバルセロナに移住しました。
つまり、バルセロナで育ったフィリピン人でした。だから、彼の中身は、スペイン人でした。

その後、プロリーグ以降は、イラン人が4人、香港人が1人挑戦した。
アジアでは、イラン人ばかりが欧州に挑戦していた。
しかし、1部リーグでは誰も活躍できなかった。
故に、私は、実質的にアジア人で挑戦した最初の成功者は奥寺であると思う。

奥寺康彦は、「 プロ・リーグに挑戦した、6番目のアジア人」だったが、欧州最高得点率を出すチーム (ブレーメン)」の攻撃陣の1人として活躍した。
1980年代は、欧州人以外の選手は、「バロンドール選考対象外扱い」だったので、奥寺氏は、「バロンドール」(欧州最優秀選手賞) に関わる事はなかった。






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【写真解説】 
CB、ブルーノ・ペッツァイ
。身長188センチ。
ブレーメンには、1983~87年まで在籍した。
 
 ペッツァイは、「オーストリア史上最高のセンターバック」 と今でも言われています。
彼は、「1980年代前半、欧州最高のディフェンダー」でした。
「世界選抜で先発して、ベッケンバウアーとセンターバックでコンビを組む」ぐらい凄い選手でした。

ペッツァイは、
   フランクフルト時代(1978~83年)に、チームがUEFAカップ(1980年)、ドイツ・カップ(1981年)に優勝した年がありました。
またW杯1982に出場して活躍しました。
その結果、バロンドール投票で、14位(1980年)、11位(1981年)、12位(1982年)に入った事がありました。
バロンドールは、「フォワード と 攻撃的ミッドフィルダー」が上位に来る事が多い賞です。
だから、センターバックでこの順位は優秀です。
ちなみに、サッカーの「最優秀選手の投票」は、どのコンテストでも「攻撃の選手が有利」です。バロンドールも同じです。
皆さんは、「14位、11位、12位なら大した事ないじゃないか?10位以内にも入らないのか?」
と思ったかも知れませんが、ペッツァイの順位は、「ディフェンダーの中では、最上位レベルです」
ペッツァイは、1980年の投票で14位でした。
しかし、「センターバックの中では1位」でした。
ディフェンダー全体では2位でした。
ディフェンダーでは、マンフレート・カルツ(ドイツ代表、サイドバック)の10位に次ぎ、2位でした。
翌1981年は11位で、「センターバックの中では2位」でした。ディフェンダー全体でも2位でした。
アレクサンドロ・チバーツ(ソビエト代表、CB)の8位に次いで2位でした。
1982年は、12位でしたが、「ディフェンダー全体の中で、順位は1位」でした。
欧州のディフェンダーの中で、ペッツァイは、この3年間(1980~82年)は、毎年、最も安定して、上位に位置した選手でした。
つまり、彼は、「1980年代前半、欧州最高のディフェンダーだった」という事です。
 
しかし、ブレーメン時代の4年間(1983~87年)は、
「バロンドールのノミネート30位以内に一度も入りませんでした」。
彼の所属するブレーメンは、「リーグ2位が2回」で惜しくも優勝できませんでした。また、欧州の国際大会(UEFAカップ)では、早期敗退に終りました。
 その他に、1980年代中頃、オーストリア代表は、「ユーロ1984、W杯1986で予選敗退して、本大会出場できなかった」。
その為、彼は、クラブでも代表チームでも国際舞台で目立つ機会を逸しました。
故に、ペッツァイは、「国際舞台で活躍した他のディフェンダー」よりもインパクトが薄くなり、ノミネートにかからなくなった訳です。
1980年代、バロンドールの投票では、「ディフェンダーは、30位内に毎年、平均、4人ぐらいしか選ばれません」でした。
センターバックのみとなると、2~3人だけです。
故に、ノミネートされる段階で既にかなり難しいモノです。
だから、私は、「ペッツァイは、ノミネートされなかったから大きくレベル・ダウンした」と結論するのは、違うのではないかと思います。
ペッツァイは、ブレーメンの守備のリーダーを務め、「リーグ戦で2位に2回」なりました。
彼が居なければ、ブレーメンはこんなに良い順位にはなれず、毎年、優勝争いに加わる事も不可能でした。
ブレーメン時代、彼は一度もノミネートされませんでしたが、私は、「選ばなかった方がおかしいのでは?」と思います。
 彼は、ブレーメンが優勝していたり、 オーストリア代表がW杯、ユーロに出場していたら、30位以内(ノミネート内順位)には、確実に入っていたろうと思います。
 私は、ペッツァイは、チーム成績の影響を受け、ノミネートから外れただけで、依然として、ブレーメン時代も「欧州最高レベルのセンターバックだった」と思います。


一方ライバル・チーム、バイエルン・ミュンヘン の助っ人は、

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【写真解説】 
ベルギー代表、GK、ジャンマリー・パフ。
 バイエルン、GK (1982~88年、在籍)。

W杯1986で『大会ベスト・イレブン』に選ばれた」。
 1987年、  世界最優秀GK」。
バロンドールで最高6位(1983年)。

 1980年代中頃、パフは、「世界最高のゴールキーパー」だった。

 


もう一人がデンマーク代表MF、セーレン・レアビー

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【写真解説】 
デンマーク代表MF、セーレン・レアビー。
バイエルンには、1983~86年まで在籍した。

バイエルン時代、バロンドール投票で、レアビーは、12位(1985年)、13位(1986年)に入った年があった。
 ボランチでは、1985年は、ベルント・シュスター(3位)、ブライアン・ロブソン(9位)に次いで、3位だった。
1986年は、ボランチで、「欧州1位」の順位だった。
 つまり、彼は1980年代中頃、「欧州最高レベルのボランチ」だった。
また、彼は、アヤックス時代、「欧州チャンピオンズ・カップ1979-80シーズン、得点王」の経験もあった。

 

他の3人は凄い顔触れだが、そこに奥寺が居た凄さを日本人は分かっていない。
ドイツ2強の助っ人は、このように世界の一流選手達だった。
ちなみに、奥寺はブレーメン時代、バイエルンとの対戦成績は4勝3分2敗(リーグ戦)で勝ち越した。
 
そして、奥寺は、1985-86年シーズン後、日本に帰国した。
代わりに入団した新外国人は、現在でも「ノルウェー史上最高の選手」と評される、CB、ルネ・ブラツェットだ。


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【写真解説】 1987年1月。 
ブレーメン入団した、ノルウェー代表DF、ルネ・ブラツェット
(25才)。
1987~94年まで、6年半、在籍した。
彼は、長身で、身長193センチのセンターバックだった。


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【写真解説】 
ブレーメンでプレイする、ブラツェット。


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【写真解説】 1989年5月。 
ブレーメンでプレイする、ブラツェット
(28才)。


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【写真解説】 
1989年。 ブレーメンでのブラツェット(28才)。


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【写真解説】 1994年、5月14日。
 ブレーメンでドイツ杯に優勝した、ブラツェット
(33才)。


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【写真解説】
ノルウェー代表でヘディングする、ブラツェット。


ブラツェットは、ブレーメン時代、
バロンドールで20位(1992年)、15位(1993年)に入った。
1992年は、センターバックの中では、
ロナルド・クーマン (8位: HOL。バルセロナ所属)に次いで、欧州2位だった。
1993年は、センターバックの中では、
フランコ・バレージ (6位: ITA。 ACミラン所属)に次いで、欧州2位だった。
彼は、1990年代前半、「欧州トップ・レベルのセンターバック」で、「世界を代表するセンターバックの1人」だった。
ちなみに、ブラゼットは、「ノルウェー代表のW杯1994出場」に大きく貢献をした。
ノルウェーは、W杯1938以来、56年振りの出場だった。
彼は、ノルウェー代表では、主将を務めた。

当時ブレーメンは強豪で、助っ人レベルは高かった。
奥寺はアジア人なので、当時、バロンドール選考対象ではなかった。奥寺は、欧州時代は、主役タイプの選手ではなかった。チームのエースを支えている感じの選手だった。
だから、バロンドール投票の対象だったとしても、不利だったかもしれない。
しかし私は、在籍したブレーメンの外国人レベルが、バロンドール投票でこれ程、順位が高いならば、長年、そこで活躍した奥寺も彼らと同様に高いと考えている。
私は、日本人は奥寺の活躍した位置が分かっているのかと疑問に思わざるを得ない。


  それでは、皆さん、さようなら。




これは、他の記事です。これは、アジカンという「ウソつき馬鹿男」の問題について書いています。 

   ↓









Jリーグが出来る前の1980年代、奥寺康彦は、ドイツ・ブンデスリーガのブレーメンで「左サイドハーフ」を務め、優勝争いをしていた。
そして、
ブレーメンは、1985年、86年と2年続けて、欧州最高得点率のチーム
だった。
欧州5大リーグ、全94チーム中、1位だった。

ちなみに、奥寺氏は、欧州で1977年から9年も活躍した。そして、1970年代は、ケルンに所属していた。
その時、「ケルンは、1978年は、欧州最高得点率のチーム」だった。
だから、奥寺氏は、「欧州で活動した9年中、3年は、欧州最高得点率のチームに居た」のである。
私が何を言いたいかというと、奥寺氏は、1970年代、欧州最高峰レベルのチームに居て、引き続き、1980年代も欧州最高峰レベルのチームに居たという事だ。
奥寺氏の居たブンデスリーガは、1976~84年まで「UEFAリーグ・ランキング」で1位でした。欧州最高のリーグでした。
奥寺氏は、1986年までブンデスリーガで活躍しましたが、1985年と86年のブンデスのリーグ・ランキングは、それぞれ1985年は、欧州3位、1986年は欧州2位でした
つまり、彼は、キャリアの最後までずっとレベルの高いリーグに居たという事です。

そんな凄いチームで、日本人ミッドフィルダー、奥寺康彦は活躍していたが、1990年代に入り、日本人トップ選手のレベルが大きく低下した。
奥寺と違い、中田英寿のようなミッドフィルダーは、
「欧州最高得点率のチームに所属する事もなければ」、
「優勝争いするチームのレギュラーにもなれず」、
日本人ミッドフィルダーは、下位チームでしか通用しないレベルに下がった。
中田は当時、「欧州2位リーグだったセリエA 」 、ローマで通用せず、ずっと補欠で1年で退団する事になった。
また、奥寺は、30才過ぎても活躍したが、中田は30才前に引退して通用せず終了した。
つまり、日本人ミッドフィルダーのトップは、1980年代と比べて退化した訳である。
2000年代に入り、中村俊輔小野伸二稲本潤一などのミッドフィルダーも台頭したが、彼らも奥寺と違い、欧州最高峰レベルのチームに居た訳ではない。
稲本はビッグ・クラブ、アーセナルに入団したが、レンタルに出され、他のチーム(フラム)でプレイしていた。

そして2010年代、本田圭佑香川真司長谷部誠柴崎岳などのミッドフィルダーが出て来たが、彼らも欧州最高峰レベルのチームで活躍した訳ではない。
香川真司が良い例だろう。
ドルトムントという「欧州3位リーグだったブンデスリーガ」 の上位チームで活躍して優勝もした。
しかし、「欧州2位リーグのプレミア・リーグ」の上位チームだった、マンチェスターユナイテッドに移籍したら、レギュラーは掴めず、通用せずにイングランドを後にした。
つまり、香川は、「欧州3位レベルのリーグでしか活躍できない選手」だったのだ。
それ以上のハイ・レベルのリーグだと、もう通用しない。
本田圭佑は「欧州4位リーグだったセリエA」のビッグ・クラブ、ACミランに移籍したが、活躍できなかった。
ちなみにディフェンダーだが、長友佑都も同じ頃、ビッグ・クラブ、インテル・ミラノに居た。
しかし、この時期のインテルは、長友入団と同じ頃から弱くなり、彼の在籍中、一度も優勝争いをしなかった。
故に、長友は、本当に世界の一流レベルで活躍していたのか? というと疑問である。
長友在籍中のインテルは、大体、毎年、4~9位の辺りの順位で終っていた。
9位(2013年)、8位(2015年)、7位(2017年)などの酷い年があり、「本当にビッグ・クラブなのか?、中堅クラブだろ」という成績の年がしばしばあった。
故に、長友は本当に欧州最高峰レベルのチームに居たのか? というと微妙である。
長谷部誠は、「欧州4位だったブンデスリーガ」(2009年時)で、ヴォルフスブルク時代、1度、優勝した。しかし、それ以外の年は優勝していないし、優勝争いすら1度もしていない。
彼も香川真司と同じで、更にハイ・レベルなリーグ、スペイン・リーグ(欧州1位)、プレミア・リーグ(欧州2位)などでは通用しないだろう。
柴崎岳に至っては、スペイン1部ではなく、2部でばかりプレイしている。
これでは、奥寺と比較する段階にないだろう。

つまり、日本人ミッドフィルダーは、Jリーグが出来て、海外移籍を多くするようになり、欧州挑戦しているが、全員、奥寺康彦に遥かに及ばないレベルの実績で、全員、日本人ミッドフィルダーのレベルを低下させているのだ。
つまり、日本人トップ・レベルの選手は、1980年代からずっと退化している。
全く進歩できていないという事だ。

よく考えれば、Jリーグ発足以降、「欧州1位のリーグで活躍したミッドフィルダー」は1人も居ないのだ。
奥寺のように「欧州最高のリーグの強豪チームに所属して活躍したミッドフィルダー」は、1人も居ない。
中田英寿の時代のセリエAは、既に欧州2位リーグだった。
中田の欧州移籍2年目以降、セリエAは欧州2位リーグになっていた。
2000年以降、スペインが、欧州1位リーグである。
日本のバカ・マスコミは、「UEFAリーグ・ランキング」というのを知らないのである。
だから、当時、マスコミは勝手にセリエAを「欧州最強リーグ」と言い続け、その結果、バカな日本人サッカー・ファン達は、「中田の居た時代、セリエAはずっと欧州1位リーグだった」と、現在でも思い続けているのである。

日本のマスコミは、この酷い実態を国民にきちんと伝えるべきだろう。
日本人は、
Jリーグが出来て以降、なぜここまで日本人ミッドフィルダーのレベルは低下して、奥寺康彦のように欧州最高峰レベルのチームで、その攻撃陣の1人として活躍できなくなったのか」、
を考えるべきだろう。

[ ブレーメン、1984-86、基本システム] 
1984-85シーズン、1985-86シーズン、
2年連続で、「欧州最高得点率」 を達成した。

2年続けて「攻撃成績」 が、欧州5大リーグ、94チーム中、1位だった。

 4-3-1-2 システム

 
 フェラー      ラインダース(ノイバート)
                  
         マイヤー
 
  奥寺康彦        ジドゥカ
 
         メルマン(ボタバ)
 
オッテン  ペッツァイ  クツォップ  シャーフ
 
         ブルデンスキー
 

奥寺氏の「ブレーメン時代のポジションは、ウィングバック」と書く、サッカー評論家は「ニセモノ」 と判断して良いです。
確実に試合を見てないです。
奥寺氏の主たるポジションは、「左サイドハーフ」でした。


 それでは、皆さん、さようなら。

【 1982年、キリン・カップ。 ブレーメンのフォーメーション。 】

1982年6月、「キリンカップ1982」 に参加する為に、奥寺康彦を擁するドイツのクラブ・チーム、「ヴェルダー・ブレーメン」 が来日しました。
私は、この来日は、日本サッカー協会は、奥寺さんが所属していたのでブレーメンを招待したと思います。
ブレーメンは、「ブンデスリーガ、1981-82シーズン、5位」という成績でした。
当時、ブンデスリーガは、「欧州最高のリーグ」 でした。だから、「ブレーメンは、欧州の強豪チーム」 と言っても構わない地位に居たと思います。

この大会には、
ブレーメン、日本代表、シンガポール代表、フェイエノールト(オランダ)、日本鋼管の5チームが参加しました。
そして、「5チームで、総当たりのリーグ戦を行い、優勝チームを決める」という大会方式でした。
そして、ブレーメンは見事、優勝しました。

順位と対戦成績は以下です。

優勝    ブレーメン         3勝1分
2位、  日本代表          3勝1敗
3位、   フェイエノールト   2勝1敗1分
4位、  シンガポール代表      1勝3敗
5位、  日本鋼管          1分3敗


ブレーメンの詳しい試合結果は以下です。
         
1982年 6月2日、 日本鋼管 6-0 〇 勝利。
     6月4日、 シンガポール代表 6-1 〇 勝利   奥寺氏、1ゴール。
     6月6日、 日本代表 2-1 〇 勝利。 
     6月9日、 フェイエノールト 1-1 △ 引き分けました。


【ブレーメン、フォーメーション。】

[ ブレーメン、第1戦、第2戦のシステム。 ]

ブレーメンは、初戦と第2戦の対戦相手、日本鋼管、シンガポール代表は、「弱い」と予想したのか、4バックの攻撃的なシステムを採用しました。
恐らく、奥寺さんは、サイドハーフを務めました。
私は、この大会を見ていないので、100%の確証は掴めていませんが、ブレーメンのメンバー表を見ると、恐らく、この布陣で臨んだろうと思います。

4-3-1-2 システム

  ベーレンス   ノイバート

       マイヤー
         
      ブラーツ      奥寺康彦(30才)      
          メルマン

オッテン グルーバー フィヒテル  シャーフ

       ブルデンスキー      



[ ブレーメン、第3戦、第4戦のシステム。 ]

ブレーメンは、第3戦と第4戦は、日本代表フェイエノールトとそれぞれ対戦しました。
すると、用心したのか、この2チームとの対戦では、システムを3バックにして、3-5-2システムに変更しています。
恐らく、地元の日本代表、そして「オランダのビッグ・クラブ」、フェイエノールトが相手という事で、守りに力を入れる方針に変更したのだと思います。
しかし、奥寺さんがミッドフィルダーである事には、変わりはありませんでした。
私は、この試合を見ていませんが、メンバー表から考えられる布陣は、恐らく、これで当たっているだろうと思います。

 3-5-2 システム

  N. マイヤー    ノイバート

   ブラーツ     奥寺康彦 (30才) 
                                                   
   H. マイヤー  メルマン   シャーフ
              
  グルーバー フィヒテル オッテン

       ブルデンスキー
                          
         
という訳で、奥寺さんは、ブレーメン時代は最初、サイドバックをやっていました。
しかし、2年目以降は、サイドバック出場が減って行き、ミッドフィルダー出場が多くなって行った訳です。
誤解のないように説明しますと、奥寺氏は、2年目以降でも、サイドバックを務めていた時はあります。

奥寺さんは、「ブレーメン1年目は、右サイドバックを務めた」と話していますから、
この1981-82シーズンは、右サイドバックを務めたと思います。
しかし、オットー・レーハーゲル監督は、右サイドバックに、有望株、トーマス・シャーフ (21才)を起用したいという考えを持っていました。
シャーフは、このキリンカップでは、「全4試合、先発出場」しています。
しかし、先シーズンの1981-82シーズンで、シャーフは、「なんと試合出場がたった1試合」です。
しかも途中出場です。
つまり、彼は、「ほぼプロの試合に出た経験がない選手」でした。
レーハーゲル監督は、そんな駆け出しのシャーフを日本遠征に連れて来て、右サイドバックで起用して経験を積ませた。更に奥寺氏を右サイドバックからミッドフィルダーにポジション変更をして、新しい役割を命じていたという訳です。
ブレーメンは、シーズン終わったばかりで来日しましたが、レーハーゲル監督は、早くも新シーズンに向けて、新布陣を試していた。 日本遠征を「テストの場」として活用していた訳です。
ブレーメンは、大会優勝しましたが、真剣勝負で優勝を目指すと共に(賞金が懸かってましたからね)、同時並行で若手を試したり、新しい布陣を試したり、色々と実験しながら、見事、優勝を成し遂げたという事です。
つまり、私が何を言いたいかと言うと、
トーマス・シャーフの成長と共に、奥寺氏のサイドバック出場が減って行った
という事です。  
ちなみに、この後、トーマス・シャーフは、「ブレーメン、不動の右サイドバック」となって行きました。そして、なんと1995年まで計17年間もブレーメンに在籍しました。
1978年、17才の時から34才の引退まで在籍した。
ブレーメン一筋で活動して、引退しました。
彼は、在籍中、ブレーメンで数多くの優勝を経験して、現在では、「ブレーメンのレジェンド」となっています。
   
話をまとめますと、このように「キリンカップ1982」では、奥寺氏は「ミッドフィルダーで試合出場をしていた」と思われます。
しかし、私は、なぜか未だに日本人は、皆、「ブレーメンで、奥寺康彦はサイドバックが本職」と口を揃えて言うのか、不思議で仕方ありません。
このように凱旋してミッドフィルダーで試合をしていても、「ブレーメンで、奥寺はサイドバック」と言うのですから、日本人の「奥寺サイドバック、固定観念」の強さは、相当だなと思います。
  

【 「キリンカップ、1986年」。 ブレーメン・フォーメーション。 】

1986年にも、ブレーメン は「キリンカップ」に参加しました。
この「キリンカップ1986」 は、奥寺康彦さんの「ブレーメン最後の試合」となりました。
つまり、日本サッカー協会が、「ブレーメンを退団する奥寺さんの花道」として、「キリンカップ1986」にブレーメンを招待して、日本で「最後の試合」を行う企画を打ち立てたのです。
それにブレーメン側が乗っかった訳です。
1985-86シーズン、ブレーメンは、ブンデスリーガで2位」でした。
だから、相当、強かったと思います。
 しかも、「勝ち点は1位で、得失点差で敗れての2位」ですから、
ほとんど「優勝チームのバイエルンと実力的には大差ないチーム」でした。

この「キリンカップ1986」には、
ブレーメン、日本代表、パルメイラス、アルジェリア選抜の4チームが参加しました。

そして、
「4チームで総当たりのリーグ戦を行う。その後、リーグ戦上位2チームが決勝戦を行う。そして、優勝チームを決める」
という大会方式でした。

そして、ブレーメンは、大会主催者の期待通り、決勝進出を果たしました。
決勝の相手は、ブラジルのビッグ・クラブ、パルメイラスでした。
決勝戦は、ブレーメンが延長戦までもつれた末、4-2でパルメイラスを下して、見事、優勝をしました。ちなみに、前後半90分終わった段階では、1-1の引き分けでした。
奥寺さんは、「ブレーメン最後の試合」を、見事、優勝で飾りました。

パルメイラスは、この大会後、「1986年のサンパウロ州リーグ、2位」になりました。
だから、元々、ビッグ・クラブですが、当時、「南米の強豪」という名に恥じない実力を有したチームだったと思います。
そう考えると、この年のキリンカップの決勝は、「ドイツ2位」 と、「サンパウロ州リーグ2位」の対決で、「豪華な対戦」と呼べるモノだったのではないでしょうか。


[ キリンカップ1986 決勝。 ブレーメン・フォーメーション。 ]

ユーチューブにこの大会の決勝戦のダイジェスト映像(5分ぐらい)が残っています。
私は、それで確認しましたが、映像の時間が短か過ぎて、確認が難しかったです。
でも、大体、これで合っていると思います。
 
3-5-2 システム

 ブルグスミュラー  ノイバート
                                          
                          マイヤー
奥寺康彦(34才)      シャーフ
    ボタバ     メルマン
 オッテン  ザウアー クツォップ    

       レック


ブレーメンは、ボランチのミルコ・ボタバベノ・メルマンの2人が一緒に出場しています。
そして、グンナー・ザウアー(21才)がスイーパーでプレイしているようなので、恐らく、3-5-2 システムで戦ったと思います。
ザウアーは、「キリンカップ1986」の決勝に出場しましたが、1985-86シーズンは、なんと「途中出場1試合のみの試合出場」でした。
プロで先発出場した事がまだ1度もなく、「ほとんど1軍の試合に出た事がない」という選手でした。

この「キリンカップ1986」 には、名DF、ブルーノ・ペッツァイ (オーストリア代表)が参加していました。
しかし、第2戦の日本代表戦(ブレーメンが2-0で勝利)以降、試合に出場していません。
恐らく、怪我をしたのではないかと思われます。
決勝戦は、この大会、ブレーメンにとって、4試合目でした。
その為、第3戦以降、代わりに若手で経験の乏しい、ザウアーが出場する事になりました。
この決勝戦でブレーメンは、前半26分に、ザウアーがボール処理を誤り、そこをパルメイラスFW陣に突かれ、先制点を許しています。
経験が乏し過ぎる若手が、大事な試合でミスを犯してしまうという、たまに見かける悲劇が起きています。
ブレーメンは、その後、それを乗り越え、延長戦までもつれ、苦しんだ末、4-2で逆転勝利しました。
見事、優勝を果たしました。
恐らく、日本人は、
「奥寺さんのブレーメン最後の試合だったので、ブレーメンが優勝して良かった。お客さんは、ブレーメンを応援する人ばかりで、ホーム同然なので有利だったろう」、 
「当時、ブレーメンは強かったので、優勝したのは当たり前だ」と、そういう感じで、この大会を結論していると思います。
しかし、実は舞台裏では、守備の要、 ペッツァイが故障離脱して大きなトラブルが起きていました。その中で、それを乗り越え、優勝していた訳です。
 
この決勝戦では、奥寺氏はアシストをしました。
後半11分、奥寺氏が左サイドから、FW、フランク・ノイバートにクロスを送りました。
そしてノイバートが「1-1」の同点にした「ボレー・シュート」のアシストをしました。その事も補足として、皆さんにお伝えてしておきます。

ブレーメンは1985-86シーズンは、基本的に4バッグでした。
この大会、決勝戦は3-5-2システムで戦ってますが、それ以前のメンバー表を見ると、ペッツァイが故障する前までは、4バックで戦っていたのではないかと思われます。

ボランチのベノ・メルマン(32才)は、昨シーズン(1984-85 シーズン)まで「不動のレギュラー」でした。
昨シーズンは、「リーグ戦34試合、全て先発する活躍」でした。
しかし、今シーズン(1985-86シーズン)は、加入したボランチのミルコ・ボタバ (30才。入団1年目で、31試合先発した)にポジションを奪われ、メルマンの先発は、34試合から9試合に大きく減りました。
ブレーメンは、基本的に「ダブル・ボランチ」を採用していなかったので、メルマンの出場は大きく減りました。
つまり、この当時、2人が同時に先発する方が、珍しかったのです。
しかし、日本での「キリンカップ1986」で、2人は一緒に出場しました。

翌1986-87 シーズン、ブレーメンは「ダブル・ボランチ」を採用するようになりました。
これは、奥寺さんが退団したので、ミッドフィルダーに席が1つ空いたのが大きな理由だと思います。
この「ダブル・ボランチ」のシステムの採用によって、ボタバとメルマンは、ボランチで一緒に試合に出るようになりました。
メルマンは、再び先発が増えました。翌1986-87シーズンは、20試合に先発しました。

1985-86シーズン、ブレーメンの左サイドバック、ジョニー・オッテンは、故障の為、開幕戦から、リーグ前半戦を「全休」しました。
その為、1985-86シーズンの試合データを見ると、奥寺氏は、リーグ前半戦は、オッテンが抜けた穴を埋める為、左サイドバックで多く出場していたようです。
その後、リーグ後半戦開始からオッテンが復帰したので、それに伴い、奥寺氏は、「本職のミッドフィルダー」に戻りました。
1985-86シーズン、奥寺氏は、「34試合中、30試合に先発しました」。
そして、途中出場が3試合でした。
つまり、リーグ戦で、「34試合中、計33試合に出場しました」。
最後のシーズンでも、本当に活躍していました。
つまり、奥寺氏は、「欧州の強豪チームで、最後まで余裕で通用していたが、日本へ復帰した」わけです。
こんな凄い選手は、日本でこの先、また現れるでしょうか?
私は、中々、それは難しいのではないかと思います。


 それでは、皆さん、さようなら。




私は、1977年10月に、奥寺康彦氏がドイツの強豪ケルンに入団したという出来事を知り、
それでは、「その当時の奥寺氏は、手がつけられないような凄い状態だったのか?」という疑問が沸いた。
それ故、私は、当時、ドイツ杯に優勝してブンデスリーガで強豪だった、ケルンの名将ヘネス・バイスバイラーが、「外国人枠、2枠」という少なさでも、是非、奥寺氏を入団させたいと思った時の奥寺氏の活躍ぶりというのは、どれ程、凄かったのだろうかと思い、ケルン入団直前の日本代表での試合結果を調査してみた。

日本代表は、1977年6月下旬から2カ月間、欧州遠征を行った。
「ドイツ、オランダ、ベルギー、スペインの4カ国を2カ月間かけて周り、海外チームと18試合を対戦」
という大遠征であった。

日本代表チームの戦績は、「18試合を戦い、8勝2分8敗」だった。
奥寺氏は、なんと「18試合、全てに先発した」。途中交代は僅か2試合だった。
彼は、1試合も欠場する事なく、遠征中、全試合に出場した。
かなり過密日程の時期もあったが、全試合出場したのだから凄い。
連日試合しているケースも見られる。
奥寺氏は、「18試合7ゴール」という成績だった。
しかし、マラガ、バジャドリード、アメリカFC(ブラジル、リオ・デ・ジャネイロのチーム)など、我々、日本人でもかろうじで知っているレベルのチームとは対戦しても得点できなかった。
奥寺氏は、ドイツの全く聞いた事のない、分からないチームからは得点をしている。
恐らく、これらはドイツの下部リーグのチームであろう。

ちなみに、1968年、釜本邦茂らがメンバーに居た、「オリンピックで銅メダルを獲ったチーム」は、オリンピック前に欧州遠征に行き、「日本代表史上最多連敗記録 (11連敗)」を作りました。
未だにこの最多連敗記録は、破られていません。50年以上破られていません。
その当時と比べると、奥寺さんの頃は、日本のサッカー・レベルはかなり上がっていますね。


試合結果は、
1977年、【 試合会場 】
6月28日[ デュイスブルク]     西ドイツ陸軍選抜       〇  3-1 奥寺氏、 途中交代。
6月29日[ デュイスブルグ ]    ビクトリア・ブッフホルツ 〇 7-0  奥寺氏  2ゴール。
7月   5日[ デュッセルドルフ ]  カルクム・ビトラー   〇  3-0     奥寺氏、 1ゴール。
7月 7日[ デューレン ] シュバルツバイス・デューレン ✖  1-2。  
7月 9日[ グメルスバッハ ] グメルスバッハ     〇   2-1。
7月10日[ エッセン ] シュバルバイス・エッセン ✖  2-4。
7月16日[ ホフ ] バイエルン・ホフ      ✖  1-3 奥寺、1ゴール。
7月23日[ ハスフルト ]  ハスフルト    △  1-1。
7月24日[ ロッテルダム ] エクセルシオール    ✖  1-3     奥寺、   1ゴール。
7月27日[ エトリンゲン ]    エトリンゲン       〇     4-1    奥寺、   1ゴール。 
7月30日[ カールスルーエ] ビルフェルディンク 〇7-0  奥寺、1ゴール。途中交代。
7月31日[ ベブラ ]  ベブラ     〇    1-0。 
8月 5日[ ケルクラーテ ]  ローダJ  〇   1-0。
8月 6日[ アントワープ ]  ベルヒェム・シュポルト   △   0-0  奥寺、途中交代。
8月13日[ マラガ ] マラガ    ✖    0-2。
8月15日[ マラガ ] アメリカFC [ BRA ] ✖      2-4。
8月19日[ バジャドリード ] バジャドリード      ✖    0-2。
8月20日[ ブルゴス ]  ブルゴス [ SPA ]        ✖   1-2。
  

戦績は、「18試合で、8勝2分8敗」。

私は、奥寺氏が、ドイツの強豪ケルンからオファーを受けたという事で、この時期の奥寺氏は、手がつけられないぐらい活躍していたのかと想像していた。しかし、成績を見ると、そうでもなかったようである。
私は、奥寺氏が「ハットトリック」等の活躍をしたり、強豪クラブ相手にも得点をしていたなど、「ケルンから声がかかるのも当然」と思うような得点成績だったのかと予想していた。しかし、そうではなかった。
それにも関わらず、バイスバイラー監督は、奥寺氏の能力を見抜き、オファーを出した。
そして、奥寺氏はその後、「ブンデスリーガを代表する外国人助っ人として大活躍した」。
だから、いかにバイスバイラー監督の眼力が凄いかが分かる。
私は、当然、奥寺氏がドイツに行ってから、相当な努力をした事が、一番の成功理由だと思います。
しかし、この時、「日本代表という弱小チーム」でプレイしていた奥寺氏の素質を見抜いたバイスバイラー監督の目利きの凄さは、他の監督では見抜けないレベルのモノを見抜いてしまっていたという事ではないかと思いました。


 それでは、皆さん、さようなら。


【 以下は、参考資料です。】

「奥寺康彦、歴史 1」
http://rulli.livedoor.blog/archives/16679491.html

1980年代中頃、「2年連続、欧州最高得点率」達成。
奥寺が居たブレーメン・メンバー紹介
http://rulli.livedoor.blog/archives/19161499.html

レアル・マドリード、バルセロナより、攻撃力のあるチームに居た、奥寺康彦。
http://rulli.livedoor.blog/archives/18844410.html




今までに紹介できなかった奥寺康彦氏に関する、「歴史情報」を紹介します。
だから、寄せ集め状態で、テーマがあちこちに飛んで読みにくいと思いますが、ご了承ください。

奥寺氏の高校時代の愛称は 「怪獣」だったそうだ。
その高校生離れしたプレイぶりから、チームメイトからそう呼ばれていた。
奥寺氏の高校時代のチームメイトは、奥寺氏の人物評として、試合中の怪物的なプレイと、普段の穏やかな雰囲気から、「奥寺は、怪獣と羊の同居した人物」と表現している。

奥寺氏は、高校2年生の時の関東大会でスーパーゴールを決めた。
「相模工大付属校 対 浦和南」戦で、相模工大付属は4-3で勝利した。
この試合で相模工大付属は2-3で負けていたが、奥寺氏が2点取り、4-3で逆転勝利した。
相模工大付属の4点目のゴールは、奥寺氏がハーフウェイ・ラインから6人を抜き、GKともつれ合いながらシュートして決めたそうだ。
恐らく、W杯1986、準々決勝 「アルゼンチン 対 イングランド」戦で、ディエゴ・マラドーナが決めた有名なドリブル・ゴールのようなモノではなかったかと思われる。
奥寺氏に当時の詳しい思い出を聞いてみたいものだ。

奥寺氏は、高校時代、チームメイトからそのプレイの凄さから 「怪獣」と呼ばれ、関東大会では、このようなスーパー・ゴールを決めたりしていたが、大学から強い勧誘はなかったそうだ。
そして、知人から「古河電工サッカー部」へ入る事を勧められ、古河に入社したそうだ。
これ程の才能に関して、どこの大学も強い興味を示さなかったのだから、不思議な話である。
もしあの時、奥寺氏が古河に入社せず、
「大学から誘いがなかったので、サッカーを止めた」などの事態が起きていたら、日本、そしてアジアのサッカーの歴史は大きく変わっていただろう。
アジア人が世界で活躍するのは、奥寺氏が最初ではなく、韓国人チャ・ボングンが最初となり、また日本人が欧州で活躍するのは、更に20年以上、遅れていただろう。 

奥寺氏は、ブラジルのビッグ・クラブ、「パルメイラス」で武者修行した際、パルメイラスから「残れ」と勧誘されたそうである。
奥寺氏ほどの実力だと、ブラジルのビッグ・クラブが、「残れ」と勧誘する程だったという事だ。
このエピソードは、日本ではろくに知られていない。


奥寺氏は、ブラジルのビッグ・クラブ、「パルメイラス」で武者修行した時、
パルメイラスの監督は、名ボランチ、ジノ・サニ
(ブラジル代表でW杯優勝。ACミランで欧州チャンピオンズ・カップ優勝)
だった。
奥寺氏は、ジノ・サニから直接指導された時もあった。その時は、1対1でパス練習などをしたそうである。

奥寺氏のバイエルン・ミュンヘン戦の対戦成績は、6勝3分3敗(リーグ戦)である。
かなり勝ち越している訳である。
日本人の多くが、これについて知らない。
ブンデスリーガ史上、ビッグ・クラブ・バイエルンに6勝もしている。そして、勝ち越している選手は、恐らく、とても少ない。
奥寺氏は、ドイツ最終年、ブレーメン時代にホームでバイエルンと対戦した。
試合終了間際、仲間のDF、ミヒャエル・クツォップがPKを外して、0-0で引き分けた。
もしあれが決まっていたら、バイエルン戦、通算、「7勝2分3敗」になっていた。
タラレバの話で恐縮だが、あのPKが決まっていたら、奥寺氏のバイエルン戦の戦績は、更に凄いモノになっていた訳だ。
とても残念な話である。
ともかく、サッカー人生でバイエルン相手にこんなに勝ってるサッカー選手は、歴史上、数少ないだろう。

奥寺氏は、ドイツ時代9年間で、
「ドイツ1部リーグ戦、27チーム(1部リーグで計27チームと対戦した)」
との対戦成績で(注: ドイツ・カップの試合は含んでいません)、
負け越したチームが1つもありません。凄過ぎる成績だ。
2チーム以外、全チームに勝ち越しました。
奥寺氏は、
「ハンブルガー、カイザースラウテルン戦のみ、タイで終りました」。   
奥寺氏は、ハンブルガー戦は、6勝2分6敗。カイザースラウテルン戦は、5勝5分5敗。この2チームとの対戦成績は、タイに終わりました。
それ以外の25チームには、勝ち越しました。
奥寺氏は、
バイエルン・ミュンヘン、ボルシアMG、シュツットガルト、ケルン、ドルトムントなど強豪チームに全て勝ち越しの成績で終った。
奥寺氏は、ドイツ時代は、大体、1位や2位のチームに居た」訳である。
だから、この結果は、当然だと言える。
しかし、日本人は、この凄い話を、ほぼ100%近い人間が全く知らない。


奥寺氏は、ドイツ時代、有名選手が所属するチームと対戦して勝ち越している。
FW、カール・ハインツ・ルンメニゲ(ドイツ代表で、ユーロ1980優勝。 W杯1982、86準優勝。1980、81年 [ 2年連続 ]、バロンドール受賞。知らない人にご説明しておくと、バロンドールは、欧州最優秀選手賞です。)
MF、ロータ・マテウス
(ドイツ代表で、W杯1990優勝、W杯1982、86準優勝。1990年、バロンドール受賞)
FW、ユルゲン・クリンスマン
(ドイツ代表、W杯1990優勝、ユーロ1996優勝)
という、当時の「ドイツ代表・エース格」の3人とリーグ戦で対戦して、3人全員に勝ち越した。
ルンメニゲとの対戦は、5勝1分1敗。
マテウスとの対戦は、 4勝3分3敗。
クリンスマンとの対戦は、3勝1敗。
これも凄い話だが、日本人は全く知らない。
ちなみに、クリンスマン所属のシュツットガルトとの対戦で、勝利した試合は、3-1、3-1、6-0と全て大勝だった。
奥寺氏は、欧州最高の選手だったルンメニゲの居た時代のバイエルン・ミュンヘンと戦い、5勝もしている。しかし、日本人は知らないのである。本当におかしな状況である。
なぜ日本マスコミは伝えないのだろう?


1983年1月29日。
1982-83シーズン、第19節 
ブレーメン 対 ハンブルガー」(北ドイツ・ダービー)が行われた。
奥寺康彦は、この試合、ブレーメンの右サイドバックを務め、出場をした。
当時ハンブルガーは「ブンデスリーガ無敗記録」を継続中36試合無敗)った。
リーグ戦で、「1年以上、負けていませんでした」。
ブレーメンは、この試合に3-2で勝利した。
その結果、同じ北ドイツのライバル、「ハンブルガーSVの無敗記録」を止めた。


ちなみに、ハンブルガーの「36試合無敗記録」は、2013年にバイエルンが破るまで、30年間、「ブンデスリーガ最長無敗記録」でした。
この頃、ハンブルガーは欧州最強チームだったので、こんな偉大な記録を作ったのです。
私は、日本人に向かって、
「当時のブンデスリーガは欧州最高のリーグでレベルが高かった、凄いチームが多かった。ハンブルガーSV、バイエルン、ボルシアMG、ケルン、ブレーメンなどが強かった」
と説明していますが、日本人はアホなせいか、奥寺氏の居た世界を毎回、過小評価してそれが終わる事はありません。
話を元に戻します。
この試合は、ドイツでは「歴史的試合」とされています。
また、「欧州最強だったライバル・チームの無敗記録継続を止めた」というドラマ性から、ブレーメン・サポーターにとっては 「語り草」の試合となっています。
日本のマスコミ・記者はとてもアホなので、奥寺氏にこの1戦での経験についてインタビューする会社・人間は1人も居ません。
私は、奥寺氏の存命中に、誰かが聞いて「日本サッカー史の資料」として残すべきだと思いますが、日本人は頭が変なので、そういう意識は皆無です。
私は、当時の「欧州最強チーム、ハンブルガー」と戦い、その強さを実体験して、更に「直接対決(ダービー・マッチ)では勝ち越している」という貴重な人物が奥寺氏だと思います。
しかし、日本人はその話は聞きたいとは、全く思わない訳です。
彼らにとっては長谷部、大迫らに取材する方が何百倍も大事なことなのでしょう。
注: ブレーメン時代、奥寺氏はハンブルガーSVとの「北ドイツ・ダービー」は、通算5勝3分2敗で勝ち越しました

奥寺氏が「1FCケルン」に入団した経緯は、1977年6月から、日本代表が「ドイツで2カ月間に渡る長期合宿を行った」のがきっかけである。
こんな話を聞くと、「彼らはこんな休みが取れて、本当に会社員だったのか?」と思いますね。
とてもアマチュア選手とは思えない活動ですね。
そして、日本代表メンバーは、この合宿中に、ドイツの複数のプロ・チームに4、5人ずつのグループで派遣され、ブンデスリーガ開幕前の練習に混ぜてもらい強化を図るという方針だったそうだ。
他にも勿論、日本代表として現地チームやブラジルのチームと18試合も強化試合を行った
ドイツ、オランダ、ベルギー、スペイン、ブラジルのチームと試合を行った。ちなみに、対戦したブラジルのクラブ・チームは、ヨーロッパに遠征に来ていた。
話を元に戻す。
その時、奥寺氏は、プロ・チームへの派遣で、たまたまケルン参加が命じられた。そして、練習に加わったそうだ。
奥寺氏の予想として、「2軍の練習に混ぜてもらうんだろう」と思っていたそうだ。
そうしたら初日から、「1軍のスター揃いのメンバーと合同練習」だったそうだ。
これには、かなり面食らったそうである。
そして、1軍同士の紅白戦にも出場したそうだ。
すると、奥寺氏は紅白戦でウィングを務めたのだが、試合中、やたらと自分にボールが回って来るので「なんか、おかしい」と思ったそうである。
奥寺氏は、途中から、バイスバイラー監督が「奥寺にパスを回せ」とケルンの選手に指示を送っている事に気づいたそうである。
バイスバイラー監督は、紅白戦で奥寺氏がどれだけ通用するのか、そのドリブル等を観察したかったらしい。
その後、2日目、3日目も奥寺氏は1軍で練習する事になり、紅白戦にも参加した。
奥寺氏は、まさか自分が入団テストされているとは、つゆほどにも思ってなかったので、割とリラックスして試合をこなせたそうである。
そして、ケルンでの練習参加が終了する日、バイスバイラー監督が奥寺氏の元にやって来て、
「奥寺。俺は、お前をもう取るって決めた。結論を出した。ケルンに入団しろ」
とオファーを言い出したそうだ。
奥寺氏は、この時、驚き、足が震えたそうである。
まさか入団オファーを受けるとは思っていなかったので、突然のオファーにガタガタと足が震え出したそうである。
奥寺氏は、突然の事で、今すぐには決められない、会社にも相談しなければいけないという事で、決定を保留して日本に帰国したそうである。
ちなみに、バイスバイラー監督は、当時の日本人選手のレベルについて、
「もう少し鍛えれば、奥寺以外にもブンデスリーガで使えそうな選手は、5、6人は居る」
と答えていたそうである。
当時は、外国人枠がたったの2人でした。そして、日本サッカー自体に信用がありませんでした。なにせプロ・リーグはないし、W杯にも出場した事がない。だから私は、この時、奥寺氏にしかチャンスが与えられなかったのは、仕方ない事だと思います。
ちなみに、この前年、バイスバイラーは、ベルギー代表ウィング、ロジャー・ファン・ホールを、「外国人選手の移籍では、ドイツ史上最高額の移籍金」で獲得したそうです。
その時、マスコミ、サポーターから、「ロジャー・ファン・ホールは良い選手ではあるが、そこまで金を出して獲得するレベルの選手か?」という批判があったそうです。
しかし、ファン・ホールは活躍した。バイスバイラーの洞察力が正しかった事が証明されました。
その後、ファン・ホールは怪我により全盛期のレベルを失いましたので有名ではありませんが、彼はとても良い選手でした。
そして1年後に、バイスバイラーは奥寺康彦に懸けてこれまた成功したのですから、彼の才能を見抜く目というのが、いかに凄いかが分かります。

奥寺氏が入団して活躍した「1FCケルン」は、ドイツでは 「外国人選手が活躍できない」ことで有名だそうだ。
現地では、その理由として、
「ケルンはとても排他的な街で、他所者が溶け込むのが大変な土地だから」
と言われているらしい。
奥寺氏が入団する前から、「ケルンは外国人助っ人が活躍しない」とされていた。
それを乗り越えた奥寺氏は、凄いと思う。
奥寺氏以後も、ケルンに数多くの外国人助っ人が入団したが、本当に活躍していないのである。
皆さんも他のクラブと比較すればよく分かるだろう。
日本人FW、大迫勇也、日本人DF、槙野 智章もその内の1人だろう。
奥寺氏は、ケルンで活躍したが、「長期に渡り活躍したか?」というと、そうではない。
期間は、3年の在籍であった。
しかし、ケルンではクラブ史上、奥寺氏を上回る活躍をした外国人助っ人は、
トニー・ウッドコック
(イングランド代表FW、1979-82、1986ー88在籍、130試合、39ゴール)。
トニ・ポルスター
(オーストリア代表FW、 1993-98在籍、151試合、79ゴール)。
の2人ぐらいしか居ないのである (2019年現在)。
アントニー・モデスト
(フランス人FW、2015-17在籍、68試合40ゴール)が、素晴らしい得点率で、奥寺氏より活躍したと言えるかも知れない。しかし、彼は僅か2年の在籍で、ケルン自体のチーム成績が優勝争いするレベルでなく、(2016年は9位、2017年は5位)、ブンデスリーガのリーグ・レベルも落ちている時代なので評価は微妙ではある。
モデストはフランス代表に選ばれた事すらないレベルの選手なのだ。
しかし、モデストを奥寺氏の上としても3人ぐらいしか居ないのである。
つまり、何が言いたいかというと、
「奥寺氏は外国人助っ人が活躍するのが難しいとされているケルンで活躍した。そして、クラブ史上でも、奥寺氏を上回る活躍をした外国人は未だに数少ない」
という事である。

奥寺氏は、ケルン時代、「アジアの黒豹」という愛称も持っていたそうである。
ちなみに、ブレーメン時代は、この愛称では呼ばれていなかった。
色黒で足が速かったので、ドイツ人には黒豹が駆けるように思えたのかも知れない。
日本では、あまり知られていない話である。
元サンフレッチェ広島の浅野拓磨が、快足ゆえに「ジャガー」の愛称を宣伝しているが、「日本の豹」 、「アジアの豹」と言えば、奥寺氏が本家・元祖である。
しかし、奥寺氏がこの愛称を気に入っているかどうかは不明である。

奥寺氏は、1977-78シーズン、ケルンで「ブンデスリーガ優勝」をした。
この時、ケルンは、ボルシアMGと「同勝ち点で、得失点差で3点上回り」優勝した。
ブンデスリーガで、「同勝ち点で、得失点差で優勝が決まった」というのは、1963年にリーグ開始以来、このシーズンが初だった。

1977-78シーズン、1977年10月15日、ドイツ杯、3回戦、「ケルン 対 FSVフランクフルト」戦が、フランクフルトのホーム・スタジアムで開催された。
(注: 対戦相手のFSVフランクフルトは、長谷部誠が所属するフランクフルトとは違う。同じフランクフルトにある別のチームです)。
奥寺氏は、10月初旬にケルンに入団し、この試合でデビューする予定だった。
しかし、体調が優れず、欠場した。
そんな中、この試合にはたまたま「サッカーの王様、ペレ」が観戦に訪れていたそうである。
当時、ケルンは強豪だったし、監督のバイスバイラーは有名だったので、ペレはドイツを訪問したついでに、わざわざケルンの試合を見に来たのかも知れない。
ペレは、ケルンのメンバーに挨拶をし、奥寺氏も挨拶する機会を得たそうである。
ペレの前で試合をできなかった奥寺氏は、さぞ無念だった事だろう。
ちなみに、この試合、アウェー戦だったがケルンが3-0でフランクフルトを下した。
その後、この年、ケルンはドイツ杯に優勝した。決勝戦で、奥寺氏は先発した。

1978年2月18日、ブンデスリーガ、第26節、「ドルトムント 対 ケルン」戦で、奥寺氏はセンターフォワードを務めた。
センターフォワードのディーター・ミュラーが故障欠場したので、代わりに急遽、奥寺氏が務めたのだ。
アウェー戦だったが、ケルンは2-1で勝利した。
奥寺氏は無得点だったが、監督の評価は高かったそうだ。
奥寺氏は、ケルン時代、両ウィングを務めたし、このようにセンターフォワードまでこなした。

1977-78シーズン、最終節、「ザンクトパウリ 対 ケルン」戦(1978年4月29日)、ケルンは、5-0で勝利した。そして見事、リーグ優勝を果たした。
奥寺氏は、この試合、2得点をして大活躍した。
この試合は優勝の懸かった試合だったので、当時、この試合のダイジェスト映像は、ドイツ以外の国でも紹介されていたそうだ。
もう少し詳しく、この試合での奥寺氏の活躍を説明すると、奥寺氏は後半15分と41分にヘディングで2ゴール決めた
後半15分、右CKをニアでヘディングでゴール。
後半41分、右サイドからのクロスを左サイドでダイビング・ヘッドして決めた 
ちなみに、この後半41分のゴールは、2014年に「ブンデスリーガ・公式ユーチューブ・チャンネル」で「ブンデスリーガ史上最高のヘディング・ゴール」に選ばれた。   
前述のように、当時、奥寺氏の「ヘディング・ゴールの映像」は、欧州の国々にニュースで報じられていた。
その為、当時、日本から欧州へ、出張等でやって来た日本人サラリーマン達は、ヨーロッパ人から「日本人もサッカーするんだな」とか、「日本人が点を決めていたな」と、声をかけられたそうだ。
しかし、日本はサッカー超不人気国だったので、話しかけられたサラリーマン達は、「一体、何の話か分からない」ときょとんとしてしまう人達が多かったそうである。

奥寺氏は、ベンチ・メンバーの時は、いつもバイスバイラー監督の脇に座らされ、その試合中の会話を聞いていたそうである。
バイスバイラー監督の弟子には、
ユップ・ハインケス 監督 (レアル・マドリード、バイエルンで、欧州チャンピオンズリーグ優勝)、
ベルティ・フォックツ 監督 (ユーロ1996で、ドイツ代表監督で優勝)等、
監督で活躍した人物が居る。
私は、奥寺氏が名将バイスバイラーの脇に座り、監督の仕事ぶりを学んでいた事を思うと、彼が監督業に挑戦し続けなかった事は、残念に思う。
私には、奥寺氏が監督業に執着したのであれば、もしかして名将になっていたのではないか? という期待が、今でもあります。

奥寺氏は、1980年、欧州3年が終了した後、ケルンで「戦力外扱い」された。
しかし、その3年目のシーズンは、自身で手応えがあり、成長を実感していたそうである。
当時、周囲には、
「俺は、せっかくプロでやっていける自信がついたばかりだったんだよ。(チーム構想外になったけど)どこのチームに行ってもやって行けると思っている」
と語っていたそうである。
そして、実際にその言葉通り、
その後、彼は30才を過ぎても余裕で活躍し続けてしまったのである。

奥寺氏が1980年、ケルンで「構想外扱い」となった時、ベルギーのチームからオファーがあったそうである。
また日本の新聞報道では、ニューヨーク・コスモスの監督を務めていたヘネス・バイスバイラーが、
「奥寺氏の現状を見て、コスモスに入団させる可能性も」という報道をしたそうである。
結果として、奥寺氏はドイツで3年活動して慣れており、ベルギーに行くとまた新たに外国語を覚えるはめになるので、ドイツ2部でもヘルタ・ベルリンの方が良いという判断で、ヘルタに移籍した。
現在となっては、当時の真相は、奥寺氏に聞かなければ分からない。
一体、ベルギーのどのチームからオファーが来ていたのか、そしてバイスバイラーは、本当に奥寺氏に「奥寺、コスモスに来ないか?」と誘ったのかどうか、誰か奥寺氏にインタビューしてもらいたいところだ。しかし、日本のバカ・マスコミには無理な話である。非常に残念だ。
コスモスは当時、「選手全員の年棒契約総額が20億円を超える」と言われ、金満チームとして有名だった。
3年前までペレが所属していた。1980年はベッケンバウアーが所属していた。
「第一線を退いた選手が集まる、峠を越したスター軍団」という感じのチームだった。
現在、「年棒総額20億円」というのは、大した事ではないが、1980年当時は、凄かったそうだ。
年棒だけで考えたらコスモス移籍の方が良いかも知れないが、サッカー選手としての評価だと、欧州で実績を残さないと評価されないと思うので(現在でもそうだと思うが)、奥寺氏があの時、ニューヨーク・コスモスに移籍しなかった事は、本当に良かったなと思います。
また1986年、奥寺氏が日本に復帰する際、ブレーメンが契約延長オファーを出したが、他のチームも奥寺氏の獲得に乗り出して、オファーを出していたそうだ。
そのチームはどこだったかも奥寺氏に聞いて欲しいものだが、日本のバカ・マスコミはその種の好奇心はゼロなので、本当に役に立たない。

奥寺氏は、1977年、ケルン入団した際、3年契約をしたそうである。
そして契約最終年、1980年に、ケルン側から「契約延長オファー」を提示され、新契約を結んだそうである。その時は、何年契約だったのか、私の調査力では不明である。
つまり、ケルンでの3年の活躍が評価され、クラブはまだ奥寺氏に期待していた訳である。
実際、契約最終年、1979-80年シーズンの奥寺氏は、公式戦33試合も先発する活躍だった。
国内リーグ戦では34試合中、28試合に先発した。
2試合途中出場しており、リーグ戦、計30試合出場した。
ドイツ杯では、決勝戦まで勝ち進み、その内、5試合に先発した。
他に3試合途中出場しており、計8試合出場した。
つまり、ドイツ杯では決勝戦を含め、トーナメント全8試合、全て出場した。
よって1979-80シーズンは、ブンデスリーガ、ドイツ杯を合わせると、「公式戦、計33試合先発」した。
その為、奥寺氏は、上述したが、ドイツ3年目で成長を実感していたそうである。
しかし、新契約を結んだ途端に、新監督が就任した。それに伴い、奥寺氏は、なんと「構想外扱い」を受けたのだ。
当時、奥寺氏は、こんな展開が起きるとは、全く想像していなかったそうだ。



奥寺氏は、1980年、ケルンで「構想外扱い」となり、「ヘルタ・ベルリン」へ、レンタル移籍の形で半年、所属した。
その後、ブレーメンへ移籍した。
日本人の感覚だと、ケルンからブレーメンへ移籍したので、格下へ移籍した。少し「都落ち」みたいな感じがあるかもしれない。しかし、実際には、奥寺氏はケルン時代の1.5倍の年棒で契約した。つまり、レンタル移籍後、ブレーメンに入団した事は逆に良かった、成功したという事だ。
あのままケルンで契約を全うするより良い契約を勝ち取ったという訳である。
注: ケルンは、ドイツではベルリン、ハンブルク、ミュンヘンに次ぐ、第4の大きな街である。



1986年、奥寺氏 (34才)はブレーメンを退団する際、契約延長オファーを受けていたが拒否して、日本帰国した。
この時、奥寺氏はブレーメン以外のチームからもオファーを受けていたそうだ。
しかし、日本帰国した。
日本の古河での契約は、ブレーメン時代より遥かに良くないモノだったそうだ。
私の推測では、恐らくブレーメン時代の3割ぐらいしか得ていない。多分70%ダウンぐらいの契約だったと思われる。
しかし、奥寺氏は「余力のあるうちに日本サッカーに貢献したい」という想いがあり、日本復帰を決めたそうだ。
人の金の話を延々とするのはゲスで誠に恐縮であるが、私は、ブレーメンに移籍した事で、日本人の多くは、
「奥寺はケルンより更に小さいクラブに行ったんだろ。そこで待遇悪くなったけど活躍して、チームの成績は良かったんだよな」
と思っている人間が100%近いと思う。
しかし、それは違っていて、奥寺氏はケルン時代より高い評価を受け移籍して、更に高待遇の中、活躍していたという事を、皆さんにお伝えしたい。




ブレーメン時代の奥寺氏の同僚は、現役時代の奥寺氏のトレーニングに取り組む姿勢を称賛する人が多い。
奥寺氏のブレーメン時代のチーム・メイトには、1994年、ジェフ千葉で「Jリーグ、得点王」になった、FW、フランク・オルデネビッツが居る。
ちなみに、彼は、ヨーロッパ人初の「Jリーグ、得点王」に輝いた。現在でも欧州出身の得点王は、オルデネビッツのみだ (2019年現在)。
オルデネビッツは、現在、ヴェルダー・ブレーメンのスカウトを担当している。
2017年3月に来日した際、彼は、
「奥寺さんはプロの鏡で、どんなトレーニングでも果敢に挑んでいた。試合中でも日本人選手は、懸命に取り組む。みんな90分間どころか、120分間でも全力を尽くして勝とうとする。
それに比べると、現役時代の私は、トレーニングで時々、気持ちが入らないこともあった。
もし私に日本人のメンタリティーがあったら、物凄い選手になっていた」
と日本のマスコミに話した。


1980年代、ブレーメンの右サイドバックで、引退後、名将となったトーマス・シャーフは、フランクフルト監督を務めていた時代(2014-15)、所属選手の長谷部誠(フランクフルトのミッドフィルダー)に向かって
「私は、若い頃に、奥寺さんが練習に打ち込む姿を見て、日本人を尊敬するようになった」
と、話したそうである。
それ程、奥寺氏のトレーニングに打ち込む姿勢は、素晴らしいものだったのだろう。
シャーフは、35年も前の事を、わざわざ長谷部に話すぐらいだから、奥寺氏のトレーニングの様子は、余程、彼にとって感銘を受けた事だったのかも知れない。
シャーフは、奥寺氏の後輩である。 2人は先輩・後輩の関係である。
ドイツ人にそんな感覚があるのかは不明だが、日本的に言うとそういう関係である。
「新人選手、シャーフ」にとって当時、30才を超したベテラン選手、奥寺氏の姿は、とても良い「プロのお手本」だったという事だ。
2人は、一緒に数多くの試合を戦った。
2人は、先輩・後輩の関係のみならず、れっきとした戦友でもある。
奥寺氏が日本復帰するまでの4年間、数多くの試合(130試合ぐらい)を共にブレーメンで戦った。
まとめると、奥寺氏は、後輩のフランク・オルデネビッツ、トーマス・シャーフの2人から、「トレーニングに打ち込む姿勢が素晴らしい」と評価されていた。
2人共、随分と昔、35年以上前の光景であるが、未だにそれを覚えているという事である。


奥寺氏(30才)は、ブレーメン入団1年目は、右サイドバックを務めていたが、1982年、下部組織から右サイドバック、トーマス・シャーフ(21才)が1軍に上がって来た。 
当時、シャーフは有望株の選手で、クラブから期待されていた。
その時、レーハーゲル監督は、シャーフを先発で起用したいので、奥寺氏に向かい、
「右サイドバックから左サイドハーフへのポジション変更」を頼んだそうだ。
つまり、シャーフは、奥寺氏のキャリアに大きな影響を及ぼしていたのだ。
シャーフが現れなかったら、奥寺氏はブレーメン時代、そのままずっと右サイドバックの選手でキャリアを終えていたかも知れない。
私は、個人的にサイドバックより、サイドハーフを務める奥寺氏の方が面白いと思うし、奥寺氏はサイドハーフの方が向いていると思っている。
だから、シャーフの登場は、奥寺氏にとって良い展開であったと思う。
しかし、
「奥寺氏が、サイドバックとサイドハーフは、どっちを務めるのが好きであったのか」
は、未だに不明である。
当時、奥寺氏が、「ポジション変更」をどう思っていたのかは、未だに謎だ。
日本の記者は、その手の質問には全く興味がない。
そもそも、彼らは、奥寺氏のポジションを正確に知っていないレベルなので、そんな質問すら思い浮かばないのかも知れない。
ちなみに、トーマス・シャーフは、現役引退後、監督で成功したのだが、彼は、名将 オットー・レーハーゲルの「弟子」と呼べる監督である。
彼は、現役時代、ほぼレーハーゲルの下でしかプレイしていない選手なのだ。
レーハーゲルは、ブレーメンで1981~95年まで、14年も監督を務めた。
その間、シャーフは、ブレーメンで1982年にプロで初の先発デビューした。それ以前のシーズン、途中出場で2試合だけ出ていた。
そして、彼は、レーハーゲル在任中、1995年に選手引退したのだ。
1995年、レーハーゲルがブレーメン退団を決めたのと同時に、シャーフは現役引退した。
また、シャーフは、選手生活の最後の2年は、レーハーゲルのアシスタント・コーチを務めた(1993-95)。
彼は、まだ現役だったが、1993~95年は、「現役選手兼、アシスタント・コーチ」という珍しい状態の選手だった。 選手をやりながら、レーハーゲルを補佐していた。 
つまり、シャーフは、プロ・デビュー以来、「ほぼ 『レーハーゲル・サッカー』しか経験していない」という極めて珍しい人物なのだ。
キャリアの最後は、アシスタント・コーチまでやり、レーハーゲルのサッカーを学んだ。
そんな彼は、現役引退の4年後、1999年に、38才の若さでブレーメン監督に就任すると、その後、2013年まで、なんと14年間も長期政権を築いたのである。
師匠のレーハーゲルと同じく「14年連続で、ブレーメン監督を務めた」。
この間、シャーフは、ブンデスリーガ優勝 1回(2003-04)、
ドイツ杯優勝、3回(1999、2004、2009)、
UEFAカップ、準優勝(2009)
という成績を残した。
特に、2004年は、「ブンデスリーガとドイツ杯で2冠を達成した」という偉業で、クラブ史に残る壮挙であった。
またシャーフ在任中、ブレーメンは、2004年、2006年、2007年と、3シーズン、「欧州最高得点率」を記録したのである。
これは、「欧州5大リーグ、全98チーム中、1位」だった。
ブレーメンは中堅クラブであるが、中堅クラブの分際で、「3回も欧州1位の攻撃成績」となったのは、かなり凄い。
シャーフは、師匠 オットー・レーハーゲル監督ゆずりの「攻撃サッカー」を実現したのだ。
21世紀に入ると、ビッグ・クラブであるレアル・マドリード、バルセロナ、マンチェスターユナイテッド、チェルシー、アーセナル、バイエルン等は、20世紀と比べモノにならないぐらい金持ちになった。
上述のクラブと中堅クラブの格差は大きく開き、彼らは金の力に任せ、凄いメンバーを集めていた。
しかし実は、2000年代に、
ブレーメンは3回も欧州最高得点率を叩き出し、攻撃成績では上回っていた年が、3回もあった」
のである。
なぜか日本人の多くは、それを知らない。
恐らく100%近くの人間が、知らない。

話は大きく脱線したが、奥寺氏に「プロの手本」を見た後輩のシャーフは、その後、このようにブレーメンで監督としても大活躍をしたという話である。
そして、日本人選手、長谷部誠の監督までしたという話である。
という訳で、ブレーメンは、レーハーゲル、シャーフが共に14年も長期政権を築いた。
合計すると28年である。
両者のサッカー・スタイルは、シャーフはレーハーゲルの弟子なので、近いモノが当然、あるだろう。
つまり、ブレーメンは、頻繁に監督が替わる現代サッカーにおいて、「一貫したチーム・スタイルを長年、継続して成功を収めて来た」という珍しい存在のクラブであると思う。
この時期(28年間)で、「クラブ哲学」が、2人によって確立されたであろうと思う。
また21世紀に入り、国際化が更に激しく進んだ中で、長年、生え抜きシャーフを監督で起用したのを見ると、ブレーメンは、未だに「ローカル意識」がとても強く、「アット・ホームな良いクラブ」なのではないかと思う
悪く言えば、閉鎖的なのかも知れないが、本来、サッカー・クラブ自体が、「地元主義」を標榜した、「おらが街のチーム」と叫ぶ、田舎臭いモノだ。
だからブレーメンのように「生え抜きや、クラブ出身者を監督として重宝するスタイル」が、実は本道であろう。
日本人は、バイエルンだのドルトムントの話ばかりをするが、ブレーメンのこういった、現代では「珍しい顔」についても、少しは関心を持つべきだろう。
ちなみに、トーマス・シャーフは、現役時代、プロ生活17年で、通算362試合に出場して、「イエローカードは僅か13枚、退場はゼロ」という珍しい選手だ。
彼はディフェンダーだった。ディフェンダーで、ここまで警告・退場がないというのは、とても珍しいだろう。
彼は、奥寺氏に似て、フェア・プレイで戦う選手だったという事だろう。
この点も奥寺氏を手本にしたかどうかは知らないが、とにかく2人は反則が少ない選手だった。

奥寺氏が、ブレーメン時代に通っていたギリシア料理レストランの店名は、「クノッソス」である。
現在でも存在しているかどうか不明です。
大迫選手の応援で、ブレーメンに足を運んだ方は、先輩の日本人選手、奥寺康彦さんの行きつけだった店で食事するのも良いかと思います。
しかし、現在も存在しているかどうかは不明です。


 それでは、皆さん、さようなら。

【皇帝 フランツ・ベッケンバウアーから認められた、奥寺康彦。 】

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【写真解説】
1982年。ハンブルガー時代の「皇帝、フランツ・ベッケンバウアー 」 (36才)。 
1981年10月28日には、奥寺所属のブレーメンと「北ドイツ・ダービー」を戦った。

1981-82シーズン、リーグ戦で、ブレーメンは5位に終わった。
この年、「サッカー史上最高のディフェンダー」であり、
名将(監督としてW杯1986準優勝、W杯1990優勝)でもある
フランツ・ベッケンバウアーは、ドイツのマスコミに向かって、奥寺康彦について話した。
残念だが、奥寺の良さは、君らには理解できないし、説明しても分からない。
私やレーハーゲルのような人物にしか分からないよ
とだけ述べた。
それ程に、奥寺氏のプレイというのは、玄人を唸らせる、超一流でないと分かりづらいモノだったようだ。
奥寺氏は、得点は多くないので、どちらかというと地味な印象を与える選手だ。
しかし、名手ベッケンバウアーは、奥寺氏のレベルの高さを理解していた。
恐らく、戦術面での奥寺氏の優秀さに感銘を受けたのだろうと思う。
ちなみに、この当時、ベッケンバウアー (36才)は、ブレーメン(奥寺所属)の永遠のライバル、ハンブルガーSVに所属していた。
そして両者は、ブンデスリーガ第15節(1981年10月28日)、
「ブレーメン 対 ハンブルガー」、『北ドイツダービー』 で対戦した。
この試合は、奥寺氏 (29才)のブレーメンが3-2で勝利した。
得点者。 
ブレーメン:  ラインダース 前半6分、8分 コステデ 後半23分
ハンブルガー: バストルップ 前半25分  マガト  後半42分 
 
奥寺、ベッケンバウアー 、共にフル出場した。
メンバー表を見ると、恐らく、奥寺氏は、右サイドバックで出場したと思われます。
 
この年、ベッケンバウアーを擁したハンブルガーSVは、優勝をした(勝ち点、48)。 
ブレーメンは5位 (勝ち点 42)で終りました。



【ヘネス・バイスバイラー監督による、奥寺康彦、選手評。】

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【写真解説】 ヘネス・バイスバイラー監督。


選手評の前に、ヘネス・バイスバイラー監督が、直接、
「ドイツから、古河電工(当時、奥寺氏所属) に、電話して来た際の言葉」
を紹介します。
奥寺氏は、ケルンのオファーを最初、断わりました。
理由は、欧州挑戦するよりも、現在の安定した生活を続ける方が得策だと考えたからです。
他に、「バイスバイラー監督からオファーを受けた」と、古河電工、日本サッカー協会関係者に報告しても、2つの団体は無反応で、「回答なし」だったからです。
両団体共、この件に関して、奥寺氏を積極的に応援する姿勢は見られず、海外挑戦を後押しする雰囲気は全くありませんでした。
それ故、奥寺氏は会社に「(バイスバイラー監督からのオファーを)断って欲しい」と伝えました。
当時の奥寺氏の心境としては、
「名監督から、直々に誘われただけでも幸福だった」と考えて、この件に関して、区切りをつけたそうです。
しかし、その後、バイスバイラー監督は諦めず、直接、ドイツから電話で再勧誘して来たのです。これは、その時の内容です。
以下。

1977年、9月19日。 電話でのバイスバイラー監督の言葉。
「ケルンは現在、シーズン中で、ウィング、ハーネス・レアーに代わり、1日も早く、レギュラーとして、奥寺康彦が必要だ。
奥寺の待遇は、ブンデスリーガのトップ・クラスと同じにする。今すぐ、副会長かマネージャーを東京へ派遣する」
 
この電話を受け取った古河電工は驚き、折り返し、1FCケルンに国際電話をかけた。
「さっきの電話は、本当にヘネス・バイスバイラー監督だったのか?」
と確認作業をしたそうである。
そして、本人だと知り、2度びっくりしたそうである。
この電話により会社側の態度も変わり、
奥寺氏も「2度も誘われるというのは大変な事だ」と思い、海外挑戦を決めたそうです。 

この2週間後、奥寺氏はケルンと契約しました。
この当時、奥寺氏の年俸を上回る日本人スポーツ選手は、野球の読売巨人軍の強打者、王貞治氏しかいなかったそうだ。
奥寺氏は会社員だったが、ケルンとプロ契約した事で、日本のスポーツ界で一気に王貞治氏に次ぐ、高年俸のスポーツ選手になったのだ。
 
以下は、日本のサッカー誌 「イレブン」(1977年2月号)より。
「奥寺康彦、ケルン入団」 から3カ月後に、バイスバイラー監督が、日本のサッカー・ファンに向けた言葉です。
「最初にはっきり申し上げれば、奥寺康彦がブンデスリーガで成功を収める事は、間違いない事だと確信している。
奥寺は左利きであるが、右足でも同じようにボールをコントロールできる。
また日本人選手は、フィニッシュの際に、勇気がなく、いかにも恥じらいながらプレーする事が多いが、奥寺は違う。奥寺は得点能力があり、突破力もあり、足も速い。
また奥寺は、チームプレイにより攻撃を組み立てられる選手だ。ひとりよがりのプレイは決してやらない。
奥寺は状況を素早く把握する能力があり、それをチームの為に正しく活用している。
奥寺は、第一級の選手だ。そうでなければ、わざわざドイツに呼んだりはしない。
彼はブンデスリーガで、立派にやって行けるだろう。奥寺は言葉(ドイツ語)が完全にできるようになれば、ずっと気が楽になると思う」。
と述べた。
 
次に紹介するコメントは、
ケルン入団後、既に奥寺氏が活躍している最中の言葉です。詳細な発言時期は不明です。
「奥寺は、チームプレイをいつも大切にする。
試合中のどんな場面にもまずチーム全体のプラスを考え、自分自身のプラスはその次にする。
奥寺はケルンのフォワードの中で、最も守備をする選手だ。彼は、守備のタスク(仕事)を忠実にこなす。
奥寺が出場するゲームでは、ケルンの守備陣が相手の攻撃により裸にさらされる事はない。
奥寺と対面する相手は、確実に攻撃力を封じられてしまうからだ」

 


【オットー・レーハーゲル監督。
奥寺氏のブレーメン退団に際して、感想を述べた。】

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【写真解説】  
1980年代、ブレーメン監督、オットー・レーハーゲル。
 
 
ブレーメンは、1986年5月、MF、奥寺康彦の退団に伴い、アジア・ツアーを行った。
中国の大連、日本を訪れ、親善試合を行った。
当時ブレーメンは、
1985-86シーズン、ブンデスリーガで2位」となった直後だった。
文句なしの欧州を代表する強豪チームの1つだった。
しかも、このシーズンの2位は、
「勝ち点は1位だった。しかし、惜しくも得失点差で負けて2位に終わった」という内容だった。だから、ほとんど1位のバイエルンと実力的には大差のない2位だった。
 
日本開催の「キリンカップ 1986」は、奥寺氏のブレーメン引退試合となった。
キリンカップ1986は、
4チーム(ブレーメン、日本代表、パルメイラス、アルジェリア選抜)が参加して、グループ・リーグ戦を行う。その後、その上位2チームで決勝戦を行い、優勝チームを決めるという大会方式だった。
 
奥寺康彦氏は、この大会で全4試合、全てに出場した。
ブレーメンは、グループ・リーグでパルメイラス、日本代表、アルジェリア選抜と対戦して、1勝1分1敗の成績で、グループ2位となり、決勝戦へ勝ち進んだ。
グループ1位は、3連勝をしたパルメイラス(ブラジルのビッグ・クラブ)だった。
ちなみに、1986年のサンパウロ州リーグで、パルメイラスは2位だった。
決勝戦では、ブレーメンは、パルメイラスと対戦した。「1 対 1」の同点で決着が着かず、延長戦となった。
その後、延長戦で3得点をしたブレーメンは、最終的に、4-2でパルメイラスを下して優勝を果たした。
「欧州の強豪」 と 「南米の強豪」の対決は、ドイツの名門チームの勝利で終った。

この大会の詳しい内容は以下である。
[ ブレーメンのグループ・リーグの対戦成績 ]。
5月11日 [ 福岡開催 ]、パルメイラスと対戦して、0-4で敗れた。
対戦チーム・パルメイラスには、FW、三浦知良が居た。
奥寺と三浦カズの「日本人対決」が実現した。

5月14日 [東京、国立競技場開催]、日本代表と対戦して、2-0で勝利した。

5月16日 [名古屋開催]、アルジェリア選抜と対戦して、1-1で引き分けた。

前述した事と重複となりますが、決勝戦の内容です。
5月18日 [東京、国立競技場開催]、 
ブレーメンは、パルメイラスと決勝戦を戦い、90分終了して、1-1で決着つかず、延長戦を行った。ブレーメンは、延長戦で3得点して勝利した。最終スコア、4-2で勝利した。
ブレーメンは見事、優勝を果たした。
 
1986年5月18日、大会後の記者会見で、ブレーメン監督、オットー・レーハーゲルは、
日本記者から、「日本サッカーが発展するにはどうしたらいいか?」と質問された。
そして、「奥寺の経験、技術、人脈などを最大限に生かす事だ」と回答した。



この後、記者会見後のパーティーで、ブレーメンの関係者は、日本のサッカー関係者に本音を吐いた。
「日本のサッカー界は、奥寺の価値を知らないね。まるで分かっていない。
正直言って、帰国してらからの奥寺をどう生かすのか何の計画もないと聞いて、驚いてしまった。
奥寺の素晴らしさは、お世辞で言っているのではないんだよ。
もしサッカーの事が分からなくても、オクが国際的に活躍した事で、日本の国家に大変貢献したのだから、彼に何かの形で示しても良いんじゃないかな。
(サッカー界でポジションを用意する。又は、表彰する等)
それとも日本には奥寺クラスがウジャウジャ居るという訳かい?
奥寺の価値が分からず、オクの活用プランがないという事が、結局は、現在の日本サッカーの実力という事だよ。
それは言い過ぎにしても、もし自分達でできなければ、我々とかドイツ協会に相談してくれてもいいじゃないか」
と話した。
 
現在、奥寺氏のブレーメン引退から33年経ちました。
しかし、依然として、ブレーメンの関係者が、当時、日本人に対してぶちまけた不満というのは、未だに正論だと思います。未だに日本人は、奥寺氏の偉業を全く理解できていないのではと思います。
この33年間で、奥寺氏が日本サッカー協会の要職に就く事もなければ、日本マスコミが、奥寺氏の偉業を理解する事もなく、彼らが正確な知識を身に着ける為、奥寺氏に知見を求めようと懸命だったとも思えません。
彼らは、歴史に一切、興味がないので、永久に正確な知識など身に着けられませんし、永久に奥寺氏の偉業を理解する事ができません。
彼らは、芸能人を出演させ、ぬるい、おふざけ番組を作るしか関心も技量もないです。サッカーの本質を紹介する番組を作ろうという意志はありません。
恐らく、私のこのブログを読んで、「奥寺さんって、そんな凄い選手だったの」と思っているのが、現在の日本のマスコミ・レベルではないかと思います。

 
 それでは、皆さん、さようなら。



これは、他の記事です。これは、アジカンという「ウソつき馬鹿男」の問題について書いています。
   ↓









ブレーメンは、1985年、86年と「2年連続で、欧州最高得点率」を達成した。
日本のサッカー・ファンは、当時のメンバーがどういう顔触れなのか、ご存じでない方も多いだろう。
それ故、私が、当時のブレーメンをご紹介、致します。



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【写真解説】  
ブレーメンのエース。
 FW、ルディー・フェラー。(W杯1986準優勝、W杯1990優勝)。
ブレーメンの「クラブ史上最高の選手」です。


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【写真解説】 
W杯1990優勝トロフィーを持つ、ルディー・フェラー。
ドイツ代表でもエース・ストライカーだった。


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【写真解説】 W杯1990優勝直後、ドイツ代表チーム。
前列、右から3人目が FW、  ルディー・フェラー。
前列、左から2人目は MF、ピエール・リトバルスキー。
ちなみに、リトバルスキーは、1990年代、Jリーグ、ジェフ千葉で活躍しました。


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【写真解説】  
1983年7月15日撮影。 1983-84シーズンのブレーメン。
前列右から2番目、奥寺康彦(31才、日本人 MF)。
前列右端が ルディー・フェラー (23才、ドイツ代表、エース・ストライカー。昨シーズン、得点王 )。
前列右から3番目、ギュンター・ヘアマン (22才、W杯1990、ドイツ代表MF)。
前列左から3番目、クラウス・フィヒテル (38才、ディフェンダー。W杯1970、3位。ブンデスリーガ試合出場数、歴代4位 552試合)。
この年は、リーグ5位で終わった。
しかし、優勝したシュツットガルトとは僅か勝ち点3差で、最後まで優勝争いをした。


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【写真解説】  
ルディー・フェラーに次ぐ、チームのエース。FW、ウーベ・ラインダース (W杯1982準優勝)。
巨体で、身長187センチの大型フォワードだった。
彼は、ブレーメンに22才から8年も在籍して、レギュラーで活躍した。
1985年を最後に退団した。

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【写真解説】 長身FW、フランク・ノイバート。 身長が190センチ。


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【写真解説】  1983年1月29日。 
1982-83シーズン、第19節「ブレーメン 対 ハンブルガー」(北ドイツ・ダービー)を戦うブレーメンのフォワード、2トップ。
緑のユニフォーム、フェラー(左、22才) と ノイバート(右、20才)。
ブレーメンは勝利して、ハンブルガーの「ブンデスリーガ無敗記録」(36試合)を止めた。
この試合、ブレーメンは、3-2でハンブルガーを下した。
フェラー、ノイバート共に、1得点ずつした。
得点者は、
ブレーメン    :フェラー 前半41分、ノイバート 前半45分、メルマン 後半20分。
ハンブルガー:バストルップ 後半4分、ヤコブス  後半42分。

この試合、奥寺氏は、ブレーメンの右サイドバックを務め、フル出場をしました。
ハンブルガーは、ブレーメンに敗れるまで「36試合無敗 」でした。
1年以上、リーグ戦で負けておらず、「ブンデスリーガ無敗記録」を更新中でした。
この記録は、2013年にバイエルンに破られるまで、30年間、「ブンデスリーガ最長無敗記録」でした。
この頃、ハンブルガーは、欧州最強チームでした。
ハンブルガーは、1983年、欧州チャンピオンズ・カップで優勝をした。他に、ブンデスリーガ2連覇 (1982、83年)を成し遂げました。
だから、こんな偉大な無敗記録を作ったのです。
私は日本人に、
「当時のブンデスリーガは欧州最高のリーグでレベルが高かった。凄いチームが多かった」
(ハンブルガーSV、バイエルン、ボルシアMG、ケルン、ブレーメンなど)
と説明していますが、日本人はアホなせいか、奥寺氏の居た世界を毎回、過小評価して、それが終わる事はありません。
試合後、順位は、
首位ハンブルガー(勝ち点28)。
そして、勝ち点、僅か2差で、4位ブレーメン(勝ち点26)でした。
敗戦したハンブルガーのエース・ストライカー、ホースト・ルベッシュは、
「ブレーメンは、優勝する為に必要なモノを全て持っているチームだ」
と永遠のライバル・チームを警戒しつつ、称賛しました。
しかし、1982-83シーズン、優勝したのはハンブルガーでした。
このシーズン、両チームは、共に勝ち点1位 (勝ち点52)で並び、日程終了しました。
しかし、ハンブルガーが得失点差で8点上回り優勝をしました。ブレーメンは2位で終わりました。
つまり、この時代、欧州では、「北ドイツ」が一番サッカーのレベルが高かった訳です。
しかし、日本人はアホなので、
「奥寺が居たのブレーメンだろ? レアル・マドリード、ACミランとかビッグ・クラブに居たんじゃないんだろ」
と誰もが言い出して、話が通じないのです。
私が「当時、ブンデスリーガが、一番レベルが高かったんだよ」と繰り返し説明しても、彼らは理解できないのです。変な民族ですね。
奥寺氏は、
「俺達は、ライバルのハンブルガーのブンデスリーガ無敗記録を止めたんだよ」
と自慢しても構わないと思います。
しかし、彼がそういう事を日本のマスコミに一切、話さないのは、ある意味、不思議です。
この試合は、ドイツでは「歴史的試合」とされております。
また、
「当時、欧州最強だったライバル・チームの無敗記録継続を止めた」というドラマ性から、ブレーメン・サポーターにとっては 「語り草の試合」となっています。
日本のマスコミ・記者はとてもアホなので、奥寺氏にこの1戦での経験についてインタビューする会社・人間は1人も居ません。
私は、奥寺氏の存命中に、誰か聞いて日本サッカー史の資料として残すべきだと思いますが、日本人は頭が変なので、そういう意識は皆無です。
当時の「欧州最強チーム、ハンブルガー」と戦い、その強さを実体験して、更に「直接対決(ダービー・マッチ)では勝ち越している」という貴重な人物が奥寺氏です。
しかし、日本人記者・評論家は、奥寺氏からこの「歴史的試合」について聞いたり、またハンブルガーがどれ程、凄かったか、ブレーメンがどうして強くなったか等の話は、全く聞きたいと思わない訳です。
彼らにとっては、長谷部、大迫らに取材する方が何百倍も大事なことなのでしょう。


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【写真解説】
「ブレーメンが、ハンブルガーの無敗記録を止めた試合」。写真、2枚目。
右、 緑のユニフォームが、ブレーメンのFW、フェラー (22才)。
中央、倒れている選手が、ハンブルガーのDF、ディトマー・ヤコブス(ドイツ代表、29才)。


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【写真解説】 
司令塔。 攻撃的MF、ノーバート・マイヤー
彼は、ユーロ1984では、ドイツ代表の10番だった。


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【写真解説】 マイヤー、写真2枚目。



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【写真解説】 
右サイドハーフ。ボルフガンク・ジドゥカ
彼は、身長185センチの高身長ミッドフィルダーだった。


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【写真解説】 ジドゥカ、2枚目。 



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【写真解説】 左サイドハーフ。アジア人の欧州開拓者、奥寺康彦

1920年代にフィリピン人の「パウリーノ・アルカンタラ」という選手が居ました。
彼は、スペイン・リーグで大活躍をしました。
しかし、当時は、スペイン・リーグは、アマチュア・リーグでした。
ヨーロッパは、1920年代までイングランドとスコットランド以外は、全てアマチュア・リーグでした。
その為、プロリーグ化以降、最初に活躍したアジア人選手は、奥寺康彦です。

ちなみに、「欧州のプロ・リーグに挑戦したアジア人の順番」で考えると、奥寺氏は、6番目です。
奥寺氏の前に挑戦した人が居ました。
イラン人が4人、香港人が1人挑戦した。
アジアでは、イラン人ばかりが欧州に挑戦していた。
しかし、1部リーグでは誰も活躍できなかった。
2部リーグで活躍した人は居ました。しかし、1部では無理でした。
故に、私は、実質的にアジア人で挑戦した最初の成功者は奥寺であると思う。


奥寺は、「欧州最高得点率を出すチームの攻撃陣の1人」として活躍した。
また、奥寺氏は、バイエルン戦の成績は、通算 6勝3分3敗(リーグ戦)です。大きく勝ち越した。これは、ケルン、ブレーメン、両時代を通じての成績です。
ブンデスリーガ史上でも、ビッグ・クラブ・バイエルンに6勝もして勝ち越した選手はとても少ない。
奥寺氏は、ドイツ時代、「ドイツ1部リーグ戦、計27チーム」との対戦成績で、負け越したチームが1つもありません。2チーム以外、全チームに勝ち越しました。
「ハンブルガー、カイザースラウテルン戦のみ、タイで終りました」。   
奥寺氏は、ハンブルガー戦は、6勝2分6敗。カイザースラウテルン戦は、5勝5分5敗。対戦成績は、タイに終わりました。
それ以外の25チームには、全て勝ち越しました。
奥寺氏は、ハンブルガーとの対戦は、
ブレーメン時代は、5勝2分3敗で勝ち越しましたが、
ケルン時代は、1勝3敗で負け越していました。
その結果、通算、6勝2分6敗のタイとなりました。 

奥寺氏は、ドイツ最後のシーズン(1985-86シーズン)、
「リーグ戦、34試合中、30試合に先発をした。途中出場が3試合だった。
故に、『リーグ戦34試合中、33試合』に出場をした」。
奥寺氏は、「チームで、2位の試合出場数」だった。
ちなみに、1位は、CB、ミヒャエル・クツォップの全34試合出場です。
奥寺氏は、34才と高齢だったが、「欧州最高得点率を出すチームの攻撃陣の1人」として、主力でバリバリ活躍した。本当に凄過ぎる。
奥寺氏は、最高峰で余裕で通用していたが、シーズン終了後、日本復帰をした。 
私は、あのままドイツに居たら、一体、何才まで通用できたのだろうか? と思う。     
                                  

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【写真解説】 MF(ボランチ)、ベノ・メルマン。 彼は、主将だった。 


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【写真解説】 メルマン、写真2枚目。



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【写真解説】 
MF(ボランチ)、ミルコ・ボタバ(ユーロ1980優勝)。
彼は、「ブンデスリーガ、試合出場数、歴代5位。546試合」の記録を持つ名ミッドフィルダーである。ミッドフィルダーでは歴代1位です。
彼が引退して21年経つが、未だに「ミッドフィルダーで試合出場数、1位」です。(2019年、現在)。
注: 彼は、ボランチとディフェンダーができます。ディフェンダー出場の場合もあります。

1985-86シーズン、ボタバは、同じボランチのメルマンより多く試合出場した。
ちなみに、1985年、ボタバ(29才)は、ブレーメンに入団する前は、18才でデビューしてドルトムントで活躍した。8年間、活躍した。その後、26才から3年間、アトレチコ・マドリードで活躍をした。
 ボタバは、名手なので、外国のビッグ・クラブ、アトレチコ・マドリードからオファーを受けたのである。
スペイン・リーグでは、計95試合に出場した。
現在、「ブンデスリーガ、最多試合出場記録」 は、フランクフルトのディフェンダーだった、チャーリー・カーベル(1970~80年代に活躍した)が持つ、602試合である。
ボタバは、ドイツで計546試合、スペインで計95試合の出場である。だから、それらを合計すると、641試合である。カーベルより試合数が多い。
つまり、ボタバは、スペインに行ってなければ、「ブンデスリーガ最多試合記録」を作れた選手なのである。
  奥寺氏は、そんな凄いボランチと、共に戦った。

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【写真解説】 ボタバ、写真2枚目。




[ ブレーメン 1984~86年、基本システム。 ]

4-3-1-2 システム。 

  フェラー     ラインダース(ノイバート)

         マイヤー

   奥寺康彦       ジドゥカ

        メルマン(ボタバ)

 オッテン クツォップ  ペッツァイ シャーフ 

         ブルデンスキー


3-5-2 システムの場合。

  フェラー      ラインダース (ノイバート)
        マイヤー

ヘアマン(奥寺)メルマン  ジドゥカ シャーフ

 奥寺康彦   ペッツァイ  オッテン

        ブルデンスキー


1984-85シーズン、第19節、「ブレーメン 対 バイエルン」戦が行われた。
この試合、ブレーメンは、この3-5-2の布陣だった。4-2で大勝した。
 ブレーメンは、強敵バイエルンの攻撃力を封じる為、奥寺とペッツァイの「外国人助っ人2人」がセンターバックで出場した。いつもより守備に力を入れた布陣で戦った。そして、見事、成功をして大勝利を収めた。


4-3-3 システムの場合。 
          
       ノイバート
  フェラー      ラインダース
         
  マイヤー       ジドゥカ
       メルマン

奥寺康彦 ペッツァイ  オッテン シャーフ
                
       ブルデンスキー





【 ブレーメン守備陣、紹介。 】


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【写真解説】CB、ミヒャエル・クツォップ。 身長 189センチ。 デカいね。


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【写真解説】 
CB、ブルーノ・ペッツァイ。 身長188センチ。君もデカいね。
ペッツァイは、 「1980年代前半、欧州最高のセンターバック」でした
バロンドール投票で、ディフェンダーで最も順位が高かった。
現在でもペッツァイは、「オーストリア史上最高のセンターバック」と言われています。
彼は、「世界選抜で先発して、ベッケンバウアーとセンターバック・コンビを組む」ぐらい凄い選手でした。
私は、ブレーメンが優勝していたら、彼のバロンドールの順位はもっと上がっていたと思います。



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【写真解説】 右サイドバック。 トーマス・シャーフ。 彼は、後に名将になりました。


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【写真解説】 左サイドバック、ジョニー・オッテン。 たまにセンターバックもやります。


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【写真解説】  GK、ディーター・ブルデンスキー
ブルデンスキーは、ブレーメンに1972年から16年間も在籍しました。479試合も出場しました。凄い。
この記録は、ブレーメンの「クラブ史上、最多試合出場記録」です。
そして、これは、「ブンデスリーガ、歴代17位の試合出場数」です。 



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【写真解説】  1986年のブレーメンの選手達。 
一番左から、ディーター・ブルデンスキー (36才、黄色い服のGK)。
左から2番目 ウォルフガング・ジドゥカ(31才、右サイドハーフ)。
左から3番目(少し奥)ブルーノ・ペッツァイ(31才、CB)。
左から4番目 ベノ・メルマン (32才、ボランチ、主将)。 
一番右端、奥が、フランク・ノイバート (23才、FW)。

写真と関係のない話ですが、1980年代のブレーメンって、先発で身長185センチ以上が、5人居る時があったんですね。
ノイバート(190センチ)、ラインダース(187センチ)、ジドゥカ(185センチ)、ペッツァイ (188センチ)、クツォップ(189センチ)。
 「巨人チーム」 ですよ。




【 ブレーメン、準レギュラーのミッドフィルダーを紹介します。】


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【写真解説】 MF、ギュンター・ヘアマン。 
 彼は、3-5-2システムの場合、左ウィングバックを務めます。
他にボランチもできます。
ブレーメンには、1982年から10年在籍して、231試合に出場した。
彼は、W杯1990にドイツ代表として参加しました。 
試合出場はできませんでしたが、ドイツは優勝しました。
だから、一応、「W杯優勝メンバー」です。
という事は、奥寺さんは、ドイツ代表選手とポジション争いして勝ってたという事ですね。


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【写真解説】 右サイドハーフ、トーマス・ボルタ―
奥寺さんが居た時は、サイドハーフの他に、10番もやってました。更に彼は、後年は、右サイドバックもやってました。
彼は、ジドゥカの後継者ですね。2人は体型も感じも似ています。彼は、ジドゥカ程、体は大きくないですけどね。身長180センチです。
ボルターは、ブレーメンには、1984年から14年間も在籍して、 312試合に出場した。
           


【 おまけ。監督紹介。】


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【写真解説】 オットー・レーハーゲル監督
この素晴らしいチームを作り上げた名将です。
彼は、「ブンデスリーガ最多試合、指揮記録、830試合」を持っています。 
その他に監督として、ブンデスリーガの最多勝利、387、最多引き分け、205、最多敗戦、228、最多得点、1473、最多失点、1142の記録を持っています。レーハーゲルは、1981~95
年まで、14年間もブレーメン監督を務めました。
ちなみに、その後、レーハーゲルは、ギリシャ代表を率いて、「ユーロ2004」で優勝しました。



  それでは、皆さん、さようなら。



これは、他の記事です。これは、アジカンという「ウソつき馬鹿男」の問題について書いています。

        ↓











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【写真解説】 
1980-81シーズンドイツ杯、準決勝、「フランクフルト 対 ヘルタ・ベルリン」戦(1981年4月4日)での、奥寺康彦とDF、ブルーノ・ペッツァイ。
写真、
右、 白いユニフォームが奥寺氏(2部ヘルタ・ベルリン所属、29才)。
左、 赤と黒の縦縞のユニフォームが、ペッツァイ(フランクフルト所属、オーストリア代表、26才)。

試合は「フランクフルトのホーム」で開催された。そして、0-1でヘルタ・ベルリンが敗れた。
この準決勝は、1発勝負の大会規定だった。1試合だけ行われた。
奥寺所属のヘルタは、2部チームだがドイツ杯で準決勝まで進むという快進撃を見せた。
しかし、惜しくも決勝進出はならなかった。
2部チームが、1部のホームで試合するのだから、ヘルタが負けてしまうのは、ほとんど当然だろう。私は、大会ルールが非常におかしいと思う。
ヘルタが0-1で最小スコアで負けたのは、十分、健闘したと言って良いのではないかと思う。
ちなみに、この時、対戦相手のフランクフルトには韓国人FW、チャ・ボングンが居た。
この試合は1-0で終ったが、フランクフルトの得点は、前半30分、チャ・ボングンによる決勝ゴールだった。
彼は、この時代、フランクフルトのエースで、一番点を取っていた。
チャ・ボングンは決勝戦でも1ゴールを挙げ、1980-81シーズンのドイツ杯優勝を果たした。
決勝でフランクフルトは、カイザースラウテルンを3-1で倒した。
チャ・ボングンは、この大会、チーム最多の6得点(6試合)を挙げ、エースの活躍を見せた。
ちなみに、この年の大会得点王は、7得点を挙げた、
ホースト・ルベッシュ(ハンブルガー)
ジミー・ハートビッヒ(ハンブルガー)
トーマス・リマーク (ヘルタ・ベルリン)
の3人だった。

奥寺とブルーノ・ペッツァイの2人は、2年後、1983年からブレーメンでチームメイトとなった。
そしてブレーメンの外国人枠、2枠を占拠した。
奥寺は、日本に復帰する1986年まで、3年間、ペッツァイと共に戦った。
2人が共に居た期間では、ブレーメンは、リーグ戦で2位に2回なった(1985年、86年)。

これは、当時、欧州最高のリーグ(1976~84年)であった、ブンデスリーガに居た外国人助っ人のリストです。
奥寺氏は、1985年、1986年と2年続けて「ブンデスリーガ、最高齢助っ人」でした。
1986年時で、34才でした。
彼は、ブレーメンから1年契約延長オファーを受けた。だから、まだ「ドイツ最高齢助っ人」を続けられました。しかし、日本に復帰する決断をしました。
ブレーメンは1986年、欧州最高得点率のチームでした。リーグ戦は2位でした。
だから、その攻撃陣の1人だった奥寺氏に対して、クラブが契約延長オファーを出したのは、34才とは言え、当然だろう。
しかし、前述しましたが、奥寺氏は、帰国する事を選びました。


以下は、本題である「奥寺康彦が居た頃のブンデスリーガ、外国人助っ人のリスト」です。
 
 
[ ケルン ]
ロジャー・ファン・ホール(ベルギー代表 FW)。
プレーベン・エルケア(デンマーク代表  FW)。
奥寺康彦(日本代表  FW)。
ルネ・ボッテロン  (スイス代表 MF)。
トニー・ウッドコック  (イングランド代表 FW)。
ミヒャエル・ファン・デ・コルプト (オランダ代表 DF)。
 
[ ブレーメン ]
ブルーノ・ペッツァイ (オーストリア代表 DF)。
バロンドール投票:14位(1980年)、11位(81年)、12位(82年)。

奥寺康彦 (日本代表 MF、SB)。
 
[ バイエルン ]
ブランコ・オブラク (ユーゴ代表 MF)。 
 
ジャン・マリー・パフ (ベルギー代表 GK)。 
バロンドール投票: 6位(1983年)、11位(86年)、17位(87年)。
 
セーレン・レアビー (デンマーク代表 MF)。
バロンドール投票:12位(1985年)、13位(86年)。
 

[ ハンブルガーSV ]

イバン・ブルヤン(ユーゴ代表 DF)。

ケビン・キーガン(イングランド代表 FW)
バロンドール受賞(1978、79)[ 2年連続 ]。

ラース・バストルップ(デンマーク代表  FW)。
 
 
[ シュツットガルト ]
ドラガン・ホルツェル (ユーゴ代表 DF)。
ローランド・ハッテンベルガー (オーストリア代表  MF)。
ニコ・クラエセン(ベルギー代表 FW)。
ジジエ・シス (フランス代表 FW)。
アスゲイル・シーグルビンソン (アイスランド代表 FW。アイスランド史上最高選手)。
 
[ ボルシアMG ]
カーステン・ニールセン(デンマーク代表    MF)。 
アラン・シモンセン  (デンマーク代表  FW)バロンドール受賞(1977年)。

ベルント・クラウス(オーストリア代表 DF)。
カイ・エリック・ハーロブセン (ノルウェー代表 DF)。
エリク・トルシュトベット (ノルウェー代表 GK)。
 
[ カイザースラウテルン]
ロニー・ヘルストローム (スウェーデン代表 GK)。
ベニー・ベント (スウェーデン代表 FW)。
トルビョルン・ニルソン (スウェーデン代表 FW)。

[ ドルトムント ]
マルチェル・ラドゥカヌ(ルーマニア代表 MF)。
エルダル・ケッサシュ (トルコ代表 FW)。
 
[ フランクフルト ]
チャ・ボングン  (韓国代表  FW)。
ブルーノ・ペッツァイ (オーストリア代表 DF)。
ドラゴスラフ・ステパノビッチ(ユーゴスラビア代表 DF)。

  
[ フォルトゥナ・デユッセルドルフ ]
アートゥリ・エスバルドソン (アイスランド代表 FW)。
 
[ レバークーゼン ]
アーネ・ラーセン・オークランド(ノルウェー代表 FW)。
 
[ デュースブルク ]
クルト・ヤーラ  (オーストリア代表、MF)。

 

[ バッテンシャイト ]  (ブンデス2部)
カルロス・バビントン (アルゼンチン代表 MF)。

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【写真解説】
1982年5月15日。
1981-82シーズン、第32節 「ハンブルガー 対 ブレーメン」 戦。
ハンブルガー・エースFW、ホースト・ルベッシュとヘディングで競り合う奥寺康彦。

写真、左、赤いユニフォームが、ルベッシュ(ハンブルガー  & ドイツ代表FW、31才)。
右、白いユニフォームが DF、奥寺(30才)。

奥寺氏は、ハンブルガーとの「北ドイツ・ダービー」 を戦ったが、ブレーメンは敵地で0-5。歴史的大敗をした。
ハンブルガーのエースFW、ルベッシュ (ドイツ代表) は、この試合、ハットトリックの大活躍をした。
ルベッシュは長身(188センチ)のセンターフォワードで、ヘディングを得意としていました。
ヘディングが強かった奥寺氏でも、対応するのは大変だったのではないかと思われます。
ちなみに、ルベッシュは、この年、27ゴール(32試合) を挙げ、得点王に輝いた。
ハンブルガーはこの年、優勝した。勝ち点48でした。。
ブレーメンは、5位だった。勝ち点42でした。
ハンブルガーは、翌1982-83シーズン、再び優勝して国内リーグ2連覇した。
更に欧州チャンピオンズ・カップでも優勝した。
国内でも国際大会でも勝ち、「2冠」を達成しました。
この頃、ハンブルガーは欧州最強チームだった
注: ハンブルガーは1979年にリーグ優勝した後、翌1980年には、欧州チャンピオンズ・カップで準優勝してます。つまり、当時、5年ぐらいずっと強かったという事です。


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【写真解説】 
1981-82シーズン、第32節 「ハンブルガー 対 ブレーメン」 戦。写真、2枚目。
写真、一番右奥、白いユニフォームが DF、奥寺氏 (30才)。
恐らく、この試合は、右サイドバックで出場していたと思われます。


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【写真解説】
1982年8月25日。
1982-83シーズン、第2節 「ハンブルガー 対 ブレーメン」戦
写真、
中央が 奥寺康彦(ブレーメンMF、  30才)。

右が ユルゲン・ミレフスキー  (ハンブルガーFW、24才)。

この試合、奥寺氏のブレーメンは、敵地で1-1で引き分けた。
1980年代前半、ハンブルガーは欧州で最も強いチームの1つだった。
しかし、ブレーメン時代、奥寺氏は、ハンブルガーSVとの「北ドイツ・ダービー」 は 通算5勝2分3敗で勝ち越した。
ちなみに、奥寺氏は、バイエルン戦も、通算 6勝3分3敗 (リーグ戦)で、大きく勝ち越している。

  

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【写真解説】  1985年4月12日。
「 ブンデスリーガ、1984-85、第27節 ブレーメン 対 ボルシアMG 」。
左下、ブレーメンMF、ノーバート・マイヤーが、シュートを撃った瞬間。

この試合、ブレーメンが2-0で勝利した。 
得点者: 前半44分、ルディー・フェラー、 後半17分、マイヤー。

 写真、
左から2番目が MF、奥寺康彦(33才、ブレーメン、 MF)。
 一番左が MF、ノーバート・マイヤー (26才、ブレーメン、 MF)。
左から3人目が DF、  ウリ・ボローブカ(32才、ボルシアMG、DF)。


  それでは、皆さん、さようなら。


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【写真解説】 
1978年、「ケルン2冠優勝、祝賀会」 での奥寺康彦。

写真左、ドイツ杯のトロフィーを持っているのが、奥寺氏(26才)。 
写真中央、リーグ優勝トロフィーを持つ眼鏡のDF、ヘアバート・ツィマーマン(23才)の右肩後ろに顔だけ写る高齢の眼鏡の人物が、ヘネス・バイスバイラー監督(68才)。


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【写真解説】
1978年、2冠優勝して、サポーターに挨拶する奥寺とケルンのメンバー。
写真、
左奥が、奥寺康彦(日本代表FW、26才)。
右手前、  額が広い選手は、ロジャー・ファン・ホール(ベルギー代表FW、27才)。 

奥寺氏、ファン・ホールの2人は、ケルンの両ウィングだった。


【ヘネス・バイスバイラー監督の慧眼。】

ヘネス・バイスバイラー監督というのは、「ダイヤの原石」を見つける才能があったそうだ。
「名選手、発掘エピソード」が幾つか残っている。
20才でバロンドール(欧州最優秀選手賞)で2位になった名ミッドフィルダー、ベルント・シュスター(ドイツ代表 & ケルン所属)が、好例だ。
バイスバイラー(当時、ケルン監督)は回って、シュスターを見つけて来たそうだ。
彼はシュスターをケルンに入団させた。
また1972年当時、ボルシアMGの監督を務めていたバイスバイラーは、アラン・シモンセン(ベイレBK所属、デンマーク代表)にオファーを出して、彼をチームに入団させた。
その5年後、1977年にシモンセンは、バロンドール(欧州最優秀選手賞)を受賞した。
彼は身長165センチと小柄である。そして、ボルシアMGに入団した当初は、足は細かった。
その為、シモンセン(20才)が入団した当時は、誰も将来、彼が「バロンドールを受賞する名選手になる」とは、つゆ程にも想像をしなかったそうだ。
試合中のプレイぶりは、ひょろひょろとしていて、「そんな事は、想像できない」という状態だったそうだ。
しかし、バイスバイラー監督の指導の下、成長し、5年後にはバロンドールを受賞してしまったのである。
注: シモンセンがバロンドールを受賞した1977年時、バイスバイラーはボルシアMGの監督ではなかった。
また、レアル・マドリードで活躍した名ディフェンダー、ウリ・シュティーリケ(ドイツ代表)も、18才の時、バイスバイラー監督の勧誘を受けて、ボルシアMGに入団したそうだ。

そして、日本人、奥寺康彦である。
これもバイスバイラー監督がテストの末、奥寺を入団させた。
ドイツでは、「なんで日本人を獲得したんだ。なんで起用するんだ」という疑問があったらしい。
実際、当時の映像では、ドイツ人記者が直接、バイスバイラー監督に「なぜ日本人を起用するんだ?」と質問している映像が残っている。
これは失礼な質問だが、当時の時代背景を考えると当然かも知れない。
バイスバイラーは、欧州最高のリーグの強豪チームだったケルンに(前年にはドイツ杯を優勝していた)、プロ・リーグのない国で、尚且つ、遠く離れた日本から「無名の外国人助っ人」を入団させて起用していたのである。
奥寺は、最近まで「会社員」だった。しかも25才で、結構、いい年になっていた。18才の選手を将来性を見込んで入団させた訳ではなかった。
これは、現在のサッカー界なら考えられない話だろう。
奥寺氏以降、サッカー界でこんな移籍はあっただろうか? ないのではないか?

奥寺氏の話によると、ドイツ・メディアに限らず、ケルン入団当初のチームメイトも、
「こいつ(日本人)、サッカーできんのか?」というレベルの雰囲気だったそうだ。
それぐらい見下げられていた訳である。
しかし、バイスバイラー監督の指導の下、最終的に奥寺氏は、「ブンデスリーガを代表する外国人助っ人」になってしまった。そして、誰よりも長く生き残ってしまった。
ブンデスリーガ、最高齢助っ人(34才)」となった。しかも優勝争いする強豪チームの助っ人を務めていた。
ここでもバイスバイラーの「才能を見抜く力」が、いかに凄いモノだったかが分かる。

奥寺氏の話によると、年下の歴史的名手がケルンの1軍に上がって来た当時について、
「シュスターもリトバルスキーも最初はそんなうまくなかった。でも、数年経つと、凄い選手になっていた」
と語っている。
私は、「シュスターとリトバルスキーが上手くなかったなんてわけないでしょう。元から凄かったんじゃないの?」
と疑問を感じた。
しかし、それ程に、バイスバイラーは、「ダイヤの原石」のように他の人間ではよく気づかない才能について、きちんと見抜く事ができた。そして、一流選手のレベルまで伸ばす指導力があった監督だそうだ。


【 30代で、強豪クラブの助っ人だった奥寺氏の凄さ。実はアジア人では、奥寺氏だけだ。 】

最近、岡崎慎司(33才) が、マラガ(スペイン2部)に移籍が決まった。
奥寺康彦氏は、34才でブンデスリーガ1部、ブレーメンで優勝争いをしていた。もう少しで優勝する所であった。
岡崎を引き合いに出し比較するのも何だが、日本人サッカー選手で、奥寺氏ほど高齢になっても余裕でトップ・レベルで活躍していた選手はいないだろう。
なぜか日本人は、その点に関して、奥寺氏を称賛する事がないように思う。
日本人は、長谷部誠のようにレベル低下したブンデスリーガ(欧州3位、4位のリーグ)の中堅クラブ辺りでプレイするのが限界だろう。
長谷部は欧州最高のリーグや、欧州2位リーグ辺りの優勝争いするチームの主力ではない。
日本人は、30才を過ぎれば、香川真司のようにトルコに行ったり、中田英寿のように30才前で通用しなくなり引退というのが常識だろう。
韓国人もパク・チソンは、マンチェスター・ユナイテッドでは、半分くらいしか試合に出れず、30才になると、全く通用しなくなった。退団した。
その後、彼は、他のクラブに移籍しても活躍できず、33才で引退した。

韓国では、1980年代、名フォワード、チャ・ボングンが居た。彼は、レバークーゼンという中堅クラブに居た。
チャ・ボングンは、「アジア史上最高の選手」として有名である。そして、「UEFAカップに2回優勝」した事でも有名である。
彼は、35才の時、レバークーゼンで「UEFAカップ1988年」に優勝した。
しかし、レバークーゼンは、国内リーグで優勝争いする力はなかった。
大体、彼の所属チームは毎年、6~10位ぐらいの成績で終っていた。
「チャ・ボングンは10年もドイツに居たが、ブンデスリーガで優勝争いをした経験は一度もなく、キャリアを終えた」。
(注: ドイツ杯では1回、優勝した)。
一方、奥寺氏の所属チームは、「欧州9年中、5回」は優勝争いを演じた。
2部時代ヘルタでも、奥寺康彦は優勝争いをした。だから、正確に書くと、奥寺氏は、「欧州9年中6年」は、優勝争いに加わった。
しかも 奥寺氏は、「ブンデスリーガで6位より下のシーズンがないのだ」。
凄過ぎる。
優勝争いしなかった年でも、5位か6位という好成績で終えていたのだ。
これは凄い話である。
 
つまり、「30才を超して、優勝争いする強豪クラブで主力で活躍していたアジア人」というのは、今まで奥寺康彦氏以外、誰も居ないという事だ。
日本人は、ほぼ100%、この事実を理解していないだろう。
 
私は、これから先も、奥寺氏のような選手は、恐らく出て来ないと思う。
34才で欧州のトップ・レベルで助っ人をこなす」というのは難しい事である。
つまり、奥寺氏の実力は、際立っているという事だ。

 それでは、皆さん、さようなら。

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