「サッカー日本代表の釜本記録水増し」に抗議している男のブログ。& 極悪ウィキ執筆者Athleta、別アカウントAth02問題。他に「日本代表の八百長試合事件」も抗議しています。

JFAとウィキペディア執筆者の記録捏造が酷過ぎる。JFA幹部は自分達の記録を良くする為、基準変更をした。 そして1人のウィキペディア執筆者がデマを流し、日本国民をだましている。世界に広がる釜本80点のデマ。日本人はAthleta(Ath02)の悪行を知り、早く永久追放すべし

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ここは、私の第2ブログです。

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そして、訪問者がコメントを書いても、このブログには基本的には、表示しません。
それでもコメントを書きたい方は、書いて下さい。

カテゴリ: サッカー評論家、西部謙司を批判する。



サッカー評論家で、西部謙司という男が居る。私は、こいつが、本当に酷いと思っている。
学問で「歴史学」というモノが在る。その為、日本のテレビ局が歴史モノのドラマを作る場合は、「時代考証」などと言って、歴史学者がドラマの内容がおかしくないか監修することが普通である。
しかし、日本のサッカー界は、マイナー業界なので「歴史学」などというモノは確立されていない。
その結果、「サッカー歴史学者」などという存在は居ない。
それ故、「西部謙司のような馬鹿が、ウソをまき散らす」という事が行われる。
西部謙司のような「にわかサッカー・ファン」で、なおかつ傲慢な人間が、自分の狭く浅い知識で勝手に創造した歴史を説明するという悪夢が展開されてしまう。
西部謙司にストップをかける人間が、日本には居ないのだ。
こいつの狭く浅い知識により発信される、「ウソ・憶測の酷い批評」を制止する人間が居ないのだ。
西部謙司が、サッカー選手のインタビューを調べる、海外からサッカー本を多数購入して読み込んでいる。又は、海外のスポーツ新聞を読み込んでいるなどのことをしているのならば、問題は起きない。
しかし、この西部謙司というとんでもない馬鹿は、上記のようなことはせず、「自分の憶測で歴史を説明する」という有り得ないことを行い続けている。
ある時代の有名チームについて説明する際、普通の人間は、「このチームの監督・選手のインタビューを調べたら、このようなことが説明されていた」という風に「調べて事実を紹介する」というやり方をするのが常識だろう。
しかし、この西部謙司という、とんでもない馬鹿は調べないのである。
そして、自分の憶測で「こういう事情だろう」などの文言を使い、このような結論で終わりにするのだ。
普通の人間は、どういう事情なのか、そこを調べて証拠を得ようとする。その調べた証拠を元にして書こうとする。
しかし、西部謙司という馬鹿は、調べるのが面倒臭いので調べない。そして、勝手に「こういう事情だろう」という結論にして終わりにするのである。西部謙司というとんでもない馬鹿は、自分がいい加減な性格であり、知識不足であるにも関わらず、「資料を多数、用意するのが大事である」という歴史分野において、資料調べということをしないのである。
そして、「専門家」という態度で偉そうに、日本人サッカー・ファンに説明しているのだ。西部謙司というのは、それぐらいの大馬鹿である。
繰り返すが、普通、「俺は、資料を調べていない」と思ったら、人様に向かって歴史を説明するのを避ける。そういう場合は、「調べてから書こう」という意識を持つ。それが、普通の人間の感覚である。
しかし、西部謙司というとんでもない馬鹿は、「調べない」。そして、「多分、こういう事情だろう」と書き、「自分の憶測で歴史を説明する」という事をするのだ。
そして、西部謙司は、「私は、こう思います」という私個人の意見ではなく、「このチームは、こういうチームだった」と断定的に書くのだ。調べていないくせに、自分の意見がその時代の多くの人間の考えを代表しているという感じで説明するのである。
これについては、「お前、調べてないだろ?」と、その薄っぺらさ、知識の浅さに、ツッコミを入れざるを得ない。西部謙司は、自分で自覚できないのだ。自分で、「俺のやっていることは、おかしい」という自覚ができないのである。それぐらいのとんでもない馬鹿なのである。
私は、こういう馬鹿が、日本のサッカー・ファンにサッカーを説明するのは、非常に問題だと思う。
西部謙司は、ビセンテ・デル・ボスケ、カルロ・アンチェロッティについて、「普通のおじさん」、「凡人」と説明していた。
海外のスポーツ新聞を読めば、この2人の名監督の長所について、関わった選手たちががコメントをしている。
しかし、西部謙司は、とんでもない馬鹿なので「調べない」。
そして、デル・ボスケ、アンチェロッティの2人が、西部謙司から見て、結構、普通に見えるので「普通のおじさん」という結論にして終わらすのである。

このブログの読者の皆さまには、この西部謙司という男が、いかにおかしなサッカー評論家であるかということに気づいて欲しい。   

 それでは、皆さん、さようなら。



参考資料です。
  ↓



















これは、他の記事です。これは、アジカンという「ウソつき馬鹿男」の問題について書いています。 

   ↓






【 「サッカーの戦術は進歩している」という本を出版してしまい、今更、訂正できないので、頑固に間違い思想を、日本人サッカー・ファンに説明し続ける、西部謙司 と 雑誌「フットボリスタ」の酷さ。】


私は、「サッカーの戦術は進歩していない」という意見を述べている人間だ。
その理由は、2つある。
第1が、私自身が、昔からそのように感じていた。
第2が、海外の大御所サッカー評論家が、そのように述べていた。

という2つの理由からである。

私は、自分のアメーバブログ(現在は消滅している)において、1980年代後半、ヨハン・クライフという監督が、FCバルセロナ時代に使用していた戦術を紹介した。また、クライフの基本的な思想についても紹介した。
そして、2000年代に入り、ジョゼップ・グアルディオラが監督業をやり始め、そのサッカーがクライフの戦術と酷似している事も紹介した。
しかし、そのブログは、アメーバブログの運営から、ある日、突然、消滅させられてしまった。
だから、残念だが、皆さんにご紹介できない。
しかし、日本人に以前、紹介した事は確かだ。

つまり、現在、サッカー界で脚光を浴びているジョゼップ・グアルディオラ監督は、ヨハン・クライフの真似をしているだけなのだ。
グアルディオラは、選手時代、FCバルセロナでクライフ監督の下で、長年、プレーをしていた。
だから、その時、クライフから教わったサッカーを、監督になってやっているだけである。
しかし、西部謙司は、そのような事実があるにも関わらず、それを無視しているのだ。
そして、細かい所を挙げて、「グアルディオラのサッカーは革新」とか、「ここが進歩した」とか言って、「現代サッカーは進歩している」という内容のコラムを書きまくっているのだ。
そして、そのような本を数多く出版している。
西部謙司の基本的な主張は、「サッカーは、あるチームが戦術を生み出すと、それに勝つ為に、他のチームが新しい戦術を生む。そのようにして、サッカー界において戦術は進歩して来た」という意見である。
余談だが、北條聡というサッカー評論家も、恐らく、これと同じ意見である。
西部は、この思考に基づいて、数多くの本を出版して来た。そして、コラムにも、この意見を書いて来た。
しかし、現実は違うのだ。
現実は、グアルディオラ監督は、30年前に師匠のクライフが行っていた戦術を丸パクリしているのだ。 グアルディオラは、多くの戦術をクライフから盗んで、現在、それを行っているのだ。
グアルディオラは、自分で編み出した戦術は少なく、ほとんどクライフがやっていた事を、そのまま拝借してやっているのだ。
しかし、西部は、「戦術は進歩している」という本を数多く出版してしまった。
そして、そのメッセージを、日本のサッカー・ファンに長年、発信し続けてしまった。
それ故、西部謙司は、今更、「私は、間違っていました。グアルディオラは、クライフの真似をしています。グアルディオラは、クライフから学んだ多くの戦術を、現在、使用しています」
という事が、言えないのだ。
これは、西部謙司が、頑固で馬鹿だから言えないのである。
この男は、訂正すると、自分の面子(めんつ)に関わると思っているようで、真実を言えないのである。
この男は、「ポジショナルプレー」という戦術が、世界で流行っているという本・コラムを数多く出版して来た。
しかし、実際は、「ポジショナルプレー」は、世界で流行っていない。それを使用しているチームは少ない。
そして、「ポジショナルプレー」という戦術は、1980年代後半、ヨハン・クライフがとっくに使用している。
そして、1992年には、欧州王者にもなっている。
しかし、西部謙司は、これを「最新の戦術」と言って、現在、世界で流行っているとしてウソの宣伝をしている。

これは、雑誌「フットボリスタ」も同じである。浅野賀一という編集長も同じである。
結城康平、らいかーると、五百蔵容、北條聡、小澤一郎という連中も同じである。

私は、日本人の特徴として「自分が間違っていても、それを認められない」というモノがあると思っている。
つまり、「私は、間違ってました」と正直に言えないのである。
そして、悪い事に、事実・現実を歪めて、逆に「自分は正しい」と頑固さを発揮するのだ。
私の読者で数少ないマトモな日本人の方々には、これは奇妙に思えるかも知れないが、こんなおかしな行動が、当たり前にどこでも展開されているのだ。
西部謙司、浅野賀一、結城康平、その他、雑誌「フットボリスタ」に寄稿する連中は、「戦術は進歩している」という内容の本を出版し過ぎて、引っ込みがつかなくなり、その結果、事実・現実を歪めて、依然として「戦術は進歩している」という内容を、頑固に発信し続けるという行動に出ているのである。

私は、これらを見て、「お前ら、アホか?」と思っている。
こいつらは、それをやる事で、将来的に自分達の信頼性を失うのが、分かっていないのだ。
つまり、西部謙司、浅野賀一、結城康平らは、それぐらいアホだという事である。
こいつらは、ヨハン・クライフが30年前にやっていた事を、現在、グアルディオラがやっているのを見て、「新戦術」として宣伝してしまい、その後、「グアルディオラが、クライフの真似をしている」という事が分かっても、それを今更、認める事ができないので、そこは無視して「新戦術が出ました」、「戦術は進歩しています」という内容を、相変わらず、発信し続けているのだ。
そして頑固に、依然として認められず、「新戦術」とか「最新の戦術」という言葉を繰り返し使って日本人サッカー・ファンをだましているのだ。

皆さんに言っておきますが、「偽9番」とか、「偽サイドバック」(サイドバックが内側にポジションを取る)とか、「ポジショナルプレー」とか、これらは全部、1980年代後半、30年前にヨハン・クライフが行っています。
全然、新しくないです。
それにも関わらず、西部謙司、結城康平、浅野賀一ら、雑誌「フットボリスタ」に寄稿している連中は、「最新の戦術」と言って、日本人サッカー・ファンに説明をし続けています。

私は、こいつらの頑固さを見ると、本当に日本人というのは駄目だと思う。
私の数少ないブログの読者の皆様は、こういうサッカー評論家、サッカー編集長にはだまされないで頂きたいと思います。


 それでは、皆さん、さようなら。



私は、日本のサッカー評論家たちが、「世界で流行っていないサッカーの戦術用語を流行っている」として日本のサッカー・ファンに紹介することを批判している。
その筆頭というのが2人居て、西部謙司結城康平である。

私は、2010年代、日本のサッカー雑誌、サッカー評論家たちが、「ポジショナルプレー」、「ストーミング」 というサッカー戦術用語を、「世界で流行っている」として紹介していたのを見て来た。
私は、これが、非常に不思議だった。
と言うのも、私は海外のスポーツ新聞を読む人間である。
私が海外のスポーツ新聞を読んでいても、この「ポジショナルプレー」、「ストーミング」という言葉を、ろくに見かけないのである。
また、私は、海外のスポーツ新聞の読者投稿欄を見ても、海外サッカー・ファンが、「ポジショナルプレー」、「ストーミング」という言葉を使い、議論しているのを全然、見かけない。
私は、海外のスポーツ新聞で、サイト内検索というのをしてみた。
すると、「ポジショナルプレー」、「ストーミング」という言葉がろくにヒットしないのだ。
サッカー記事で、これらの言葉が、ろくに使われていないのだ。
「ストーミング」に至っては、ゼロ件という状態であった。
「ポジショナルプレー」も5件であった。そして、その内、詳細に説明しているのが2件であった。
そのような状態にも関わらず、日本のサッカー評論家、サッカー雑誌は、「世界でポジショナルプレー、ストーミングが流行っている」として、何回も宣伝していたのである。


私は、これらの現状を見て、自分のアメーバブログにおいて、この状態を読者に説明をした。
そして、その時、丁度、3日間ぐらい、たまたま、私のブログは、多くの人に読まれていた時期だった。 それ故、私が批判していたサッカー評論家の1人、結城康平が、これに反応した。
結城は、自身のツイッターで、以下のような投稿をした。

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結城康平は、自分で、「ストーミング」は流行っていると宣伝していた。
しかし、私から「そんな戦術用語は、世界のサッカー・ファンは使ってないぞ」と批判されているのを見たら、上記のように、「この言い方は身も蓋もないのだが、ストーミングは英語圏で単純に流行らなかった」という無責任な発言をして、この件を終わりにしたのだ。
この「ストーミング」という言葉は、英語圏だけでなく、スペイン語圏でも、フランス語圏でも流行っていない。世界で、全然、流行っていない。
しかし、結城康平は、それを、日本のサッカー・ファンに向けて、「流行っている言葉。サッカー界の新潮流」などとして宣伝していたのである。それにも関わらず、それがウソだと判明したら、上記のように、非常に無責任な発言をして終わりにするのだ。
私は、この態度は、問題ではないかと思う。
日本のサッカー評論家は、「ストーミングという言葉は、世界で流行ってません。流行っているとウソを書いて宣伝したことを謝罪します」ぐらいのことを述べるべきではないか? と思う。

そして、もう1人のサッカー評論家、西部謙司である。
この男は、なんと「ストーミング」という言葉を使った本を出版しているのだ。
それが、これである。


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【写真解説】 
サッカー評論家、西部謙司が、「2020年、7月」 に出版した本である。
書名は、「戦術リストランテVI 。 ストーミング vs ポジショナルプレー」である。



 昨年、7月、この本が出版された。雑誌「フットボリスタ」を出版している「ソル・メディア」という会社が出版をした。
 そして、繰り返すが、この本のタイトルにある、「ストーミング」という戦術用語は、世界で全然、流行っておらず、世界のサッカー・ファンに認知されていないのだ。
 これは、全然、普及していないのである。
 それにも関わらず、西部謙司は、こんな本を出版しているのだ。

 私は、このような結城康平、西部謙司の活動姿勢というのは、非常に問題だと思っている。
 こいつらは、「世界で流行っていない戦術用語を、日本のサッカー・ファンに向けて、『流行っています』として宣伝する。そして、私から流行っていないと指摘されると、謝罪は全くしない」。
そして、「日本のサッカー・ファンに向けて、すいません、私たちが、皆さんに宣伝していたあの戦術用語は、世界で全く流行っていません」という訂正コメントなどは、一切、出さないのである。
 その結果、現在では、日本のサッカー・ファンの中には、「『ストーミング』という戦術用語は、世界で流行っている言葉だ」と信じている人が居るのだ。 
私の予想だと、結構、居ると思う。
 なぜなら結城康平、西部謙司らは、「訂正コメント」とか、「謝罪コメント」などは、一切、出さないからだ。
 それぐらい、こいつらは無責任で誠実さがない連中である。

私が、これに関して、なぜブログをまた書いているかと言うと、それは理由がある。
それは、西部謙司が、最近、「世界のサッカーにおいて、ポジショナルプレーは標準装備されている時代となった」というコラムを書いているのだ。
 しかし、スペインのサッカー評論家は、「現在のスペイン代表チームは、ポジショナルプレーをやっていない」と説明している。
 また、私は、昨年、スカパーの無料放送日に、ジョゼップ・グアルディオラの長時間インタビュー番組を見た。そこで、グアルディオラは、「代表チームでは、練習時間が多く取れないので、ポジショナルプレーの戦術をやるのは難しい」と話していたのだ。
 そういう訳で、西部謙司が行っている、「ポジショナルプレーは、標準装備されている」などという説明は、デマである可能性が非常に高いのである。
 つまり、「ストーミング」も、「ポジショナルプレー」も、そんなに流行っていないのだ。
それにも関わらず、この西部謙司という男は、日本のサッカー・ファンに向けて、この2つが世界で流行っているとして本を書き、コラムを書き、それをやり続けるのだ。
そして、事実と違っていても、訂正・謝罪コメントなどは、一切、行わないのだ。

私は、このような状況を見て、日本のサッカー・マスコミは酷くないか? と思うのである。
流行っていない戦術用語を、「流行っている」と宣伝して、事実と違っても訂正・謝罪は一切せず、また変わらず、「流行っている」と言い続ける始末である。
私は、これでは、日本のサッカー評論家たちは、「平気でデマを流している」と批判されても仕方ないのではないか? と思う。


  それでは、皆さん、さようなら。

 


【 サッカー評論家、西部謙司の異常さ。】
            &
【 西部謙司が、「偽サイドバック」という言葉を勝手に作り、コラムに書き続ける問題。 】


私は、サッカー評論家、西部謙司結城康平らを批判している。
その批判理由というのは、この2人は、「新戦術」と言って、日本のサッカー・ファンを煽(あお)って自分の本・雑誌を買わせようとしている。私は、これを「新戦術、詐欺商売」と呼んでいる。
私は、この2人のその汚い手法を批判している。
この2人は、「新戦術ではないモノを、新戦術と言ってだまして本を買わす」というのを繰り返しているのだ。
また、この2人は、「世界で流行っていない戦術を、流行っているとウソをついてサッカー・ファンを煽(あお)り、本を買わせる」というやり方もしている。
「ポジショナルプレー」、「ストーミング」という戦術は、世界で流行っていない。
これを使用しているチームは少ない。 
しかし、西部謙司、結城康平は、これを流行っているとして日本人サッカー・ファンをだましている。


私は、他には、西部謙司が、「サッカーの歴史を説明する際に、出典を絶対に明かさない。読者に提供しない」という点を批判している。 
また、その他には、西部謙司が、「監督についての説明で、その監督のインタビューを一切、読まず、『この監督は、こういう監督だ』と結論してコラムを発表しまくる」という行為を批判している。
西部謙司は、面倒くさいので「監督のインタビューを調べて、その監督が、どういう意図でチームを作ったか」というのを調べず、勝手にその監督の考えを、「こうだ」と決めて説明するのである。
私は、そのいい加減さを批判している。そんないい加減な姿勢で書いた説明を、日本のサッカー・ファンが、「真実」だと思って信じる場合があるので批判しているのだ。

私は、結城康平に関しては、「戦術を、当事者の監督・選手よりも難解に語る」、「サッカーをわざと難解だとサッカー・ファンに思わせる。それにより自分の本を買わそうとする」という汚いやり方を批判している。


以上のように、この2人は、非常に問題のあるサッカー評論家である。

そんな2人であるが、更に問題がある。
この2人は、「偽サイドバック」という言葉を使っている。
しかし、世界では、「偽サイドバック」なんて言葉は、使用されていない。
私が調べたところ、サイドバックが中央側に寄って来てポジションを取る動きは、
タック・イン」(tuck in)と呼ばれている。
この「tuck」 という英単語は、「押し込む」、「詰め込む」という意味の単語である。
つまり、イギリス人は、「サイドバックを、内側に押し込む」という表現をしているのだ。
日本人のように、「偽サイドバック」などという呼び方をしていない。
単純に、「タック・イン」と呼んでいる。
私は、このような現実を見ると、日本人はイギリス人と同じく、この動きを、「タック・イン」と呼べば良いのでは? と思う。
なにも、勝手に世界の人間が使っていない新語、「偽サイドバック」という言葉を作る必要はないのではないか? と思う。
私は、西部謙司らが、「この偽サイドバックという言葉は、日本人しか使っていません。世界では使われていません。日本人サッカー評論家である我々が、勝手に作ったモノです」と前置きしてから、コラム、番組などで説明するのならば、まだ許せる面はある。
しかし、この西部謙司という男が、そういう説明を一切せず、自分達で勝手に言葉を作り、「偽サイドバック」とコラムに書きまくる姿勢が、理解できない。
私は、そういう行動をする事で、日本のサッカー・ファンが、「世界の人が、この動きを、『偽サイドバック』と呼んでいる」と誤解する可能性があるからだ。
 という訳で、私は、西部謙司というサッカー評論家は、本当にいい加減で誠実さに欠けると思う。
私は、サイドバックが、内側にポジションを取る動きは、「タック・イン」(押し込む)と呼べば良いと思う。
なぜなら、イギリス人が、そう呼んで、この動きを説明しているからだ。
私は、日本人が勝手に無理矢理、新語を作るより、世界の多くの人が使用している言葉を、そのまま使った方が、日本のサッカー・ファンにとって有益だと思っている人間である。
日本のサッカー評論家が、勝手に考え出した独自の言葉を教えられるよりか、世界の多くの人間が使っている呼び方を教えられて、それを使用した方が、都合が良いことが多いと思っているからだ。


 それでは、皆さん、さようなら。








【 注意事項 】

今回のブログは、「私のもう一つのブログ、アメーバ・ブログで掲載して、運営から閲覧禁止にされた記事」である。それを、そのまま、このライブドア・ブログに転載しています。
ライブドア・ブログは、アメーバ・ブログより規制が緩い。
だから、私は、アメーバ・ブログで閲覧禁止にされた場合、その記事をライブドア・ブログで発表している。
今回は、そのまま転載した内容である。だから、読者は、内容が飲み込めない部分があると思います。例えば、「新ブログ」だの、「旧ブログ」だのという箇所です。私は、アメーバ・ブログを2つ運営している。私は、アメーバ・ブログでは、新旧のブログがあるのです。
読者の皆様には、そういう事情を理解して読んで頂きたい。

という訳で、今回のブログは、元々は、アメーバ・ブログで書かれていたモノである。

【 後日談 】

ちなみに、私のアメーバ・ブログは、2023年の6月15日に、アメーバブログの運営から一方的に完全消滅させられました。「記事内容が、規約違反である」と言われて、ある日、突然、一方的に消滅させられました。



【 本編開始 】


【 サッカー評論家、西部謙司が、私のブログから内容を丸パクリしている問題。 西部謙司は、本当に泥棒評論家だ。】

         

【 日本人サッカー・ファンは、西部謙司が、「泥棒」 だと気づいてくれ。】

【 人のブログから盗んだ内容を、そのまま「グアルディオラ監督、決定版」として自分のコラムに書く酷さ。
 盗んだモノを、「決定版」、「今回は、特別の内容」と宣伝して、自分のコラムに平気で書く酷さ。】


 

【 西部謙司、泥棒の証明。 この男の酷さ。】

私は、サッカー評論家、西部謙司を泥棒だと思っている。
西部謙司は、恐らく、私のブログの読者であり、私がブログで書いた内容で良いモノがあると、それを自分の連載コラムで、そのまま書くという事を繰り返している。
私が、このブログで何か書くと、1カ月以内に、西部が、同じ内容を、自身のコラムで書いている場合が多い。
私は、新ブログにおいて、3月初旬、アヤックスの秘密」というタイトルの 「オレ紙」の記事を紹介した。 
それで、本日、新ブログに書いたモノを、このブログに移した。 そして、新ブログに書いてあった元記事は、削除した。 私は、新ブログではサッカー関連の記事を減らしたいと思ったので、こちらの旧ブログにサッカー記事を移したのである。
私は、そのブログ記事で、「マンチェスター・シティの試合写真付き」で、戦術を紹介した。
その後、私は、本日、インターネットをしていたら、昨日、2021年、3月7日、西部謙司が、
「フットボール・ゾーン・ウェブ」という媒体において、私と全く同じ内容のコラムを発表していたのを見つけたのだ。昨日、西部は、コラムを発表していたのである。
その西部のコラムのタイトルは、
ペップ戦術の 『集大成』 マンC、快進撃を導く “数的優位” 作りのメカニズム」である。
そのすぐ下に書いてある副題は、
公式戦21連勝のマンC、グアルディオラ監督がバルサ時代から貫く戦術の “決定版” を披露」である。

西部は、私と同じくマンチェスター・シティの戦術を解説していた。
副題では、上記のように「グアルディオラ戦術の決定版を披露」とまで書いて宣伝していた。
そして、西部は、「マンチェスター・シティの攻撃の際の図」を見せていた。
西部が紹介していた その図は、私が自分のブログで紹介した 「アヤックスの秘密」という記事と全く同じであった。
そして、西部謙司が説明しているマンチェスター・シティの攻撃戦術についての説明が、私が紹介した「オレ」紙の記者が説明している内容と全く同じであった。
この類似点は、どう考えても、あまりにも奇妙だ。
私は、西部謙司は、私のブログから内容を盗んで、自分のコラムに書いているというのを、これまで数回、目撃して来た。そして、また、西部は、私のブログから内容を盗んだようだ。
私は、日本人サッカー・ファンには、「西部謙司が泥棒である」という事実を知って欲しい。
こいつは、本当にどうしようもない人間だ。
平気で、人のブログから内容を盗んで書く。
しかも、私が、このブログで、その行為を批判しても、構わず、何回も繰り返している。
 

 

【 西部謙司が、私のブログから内容を盗んだと思われる証拠を説明する。】


 私が、「オレ」紙の 「アヤックスの秘密」 という記事で紹介したマンチェスター・シティの写真を紹介する。 それが、以下である。


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【写真解説】 ジョゼップ・グアルディオラ監督が率いている マンチェスター・シティの 
「ポジショナルプレー」。
 ご覧のように、マンチェスター・シティでは、両ウィングが、両サイドに大きく横幅を取って開いてポジションを取っている。
 これは、わざと、このようなポジショニングを取っている。


次に、西部謙司が、2021年、3月7日、「自分のコラムで発表していたマンチェスター・シティの戦術を紹介する際に使用した図」を紹介する。
 それが、以下である。

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【写真解説】  2021年、3月7日、サッカー評論家、西部謙司が発表したコラムで紹介されていた図。
これは、西部が、「マンチェスター・シティの攻撃戦術」を紹介する時に使用した図である。


 皆さん、どう思っただろうか? 明らかに、この2つの写真は、ほとんど同じだろう。
それで、なんと、この図に対する西部の説明が、私がブログで紹介した説明と全く同じなのである。
もっと詳しく知りたい人は、私が本日、この旧ブログに移したアヤックスの記事を読んで頂きたい。
今回、私が、その類似点を、このブログで少し紹介すると以下である。
私は、上記の写真で、
ご覧のように、マンチェスター・シティでは、両ウィングが、両サイドに大きく横幅を取って開いてポジションを取っている。これは、わざと、このようなポジショニングを取っている。
という紹介文を載せている。

更に、私は、「アヤックスの秘密」のブログ記事では、一部抜粋すると、次のような文章を載せた。 それが、以下である。

「グアルディオラ監督のFCバルセロナの場合、ウィングのペドロが、ポジショナルプレーに積極的に参加していますが、ボールにあまり触れずにプレーしています。
ペドロの動きは、相手ディフェンダーの注意を散漫にさせる事と、相手ディフェンダーを釘付けにして固定する役割を果たしています。それで、両ウィングの選手たちが行動を起こす時、それは通常、決定的な仕事をする時です (シュートを撃つ、ゴール前へ走り込む等)。 
彼ら 両ウィングが、試合中、ボールがある場所に行って、ボールに触りたいという誘惑に陥ることなく、その役割を果たすには、多くの戦術的な規律が必要とされます。」

以上である。


次に、西部謙司が、2021年、3月7日、昨日、自分のコラムで書いている説明文を、皆さんにご紹介したい。
 

「5-4-1で守るウルブスに対して、シティは中央のDF3人の間にラヒーム・スターリングとガブリエル・ジェズスがポジションをとる。これで相手DF3枚は動けなくなる。さらに右はリヤド・マフレズ、左はジョアン・カンセロが幅をとる。両サイドにこの2人が張っているので、ウルブスのウイングバックも動けない。これでウルブスの5バックを釘付けにして固定できる。(図参照)
<中略> 
相手のディフェンスラインを固定させて、その手前の数的優位を2人にするのはペップの十八番だ。バルセロナ時代からこのやり方は変わらない。
<中略>
幅とり役はポジション的には非対称だ。右側は右ウイングのマフレズ、左側はサイドバック(SB)のカンセロだった。
<中略>
カンセロは変幻自在のポジショニングで新境地を拓いていたから適材適所という感じではない。役目としてサイドに張らせていたのだろう。
<中略>
(バルセロナ時代、バイエルン時代、マンチェスター・シティ時代、グアルディオラはどのチームを率いても) 相手のフォーメーションと起用する選手によって形は変わるが、相手ディフェンスラインを固定させ、外枠を作り、中央に数的優位を作るという手法自体は一貫している。」

以上である。

 皆さん、これを見て、どう思っただろうか?
 これは、私が書いたブログと、西部が昨日、自分のコラムで発表した内容は、ほぼ全く同じだろう。
 使われている写真も同じである。
 つまり、西部謙司は、「私がブログで使用した写真と同じ図」を、自分のコラムに載せたのである。 そして、私のブログと全く同じ説明をしているのだ。
 私は、これは、どう考えても、「西部は、『 泥棒 』と言えるだろう」と思う。
 私のブログを見て、この男は、「そっくりそのまま、写真から、文章から、全部マネして、コラムに書いてしまえ」 と思ったという事だろう。
 私は、この類似点は、偶然とは言えないと思う。
 私は、西部謙司が、これまで私のブログから内容を盗んで、自分のコラムに書いたのを、このブログで批判して来た。
 それで、今回、西部は、批判を受けていても、またしても、これ程、そっくりそのまま、真似をして、「さも自分で、全て考えました」、「自分で考え出した文章です」という感じで、日本人サッカー・ファンに発表しているのである。
 私は、この一連の西部謙司の行動を見て、「この男は、最悪だ」と思った。
 私は、こんな泥棒体質、はっきり言って、「単なる泥棒」が、偉そうにコラムを書いて発表し続けていることに驚いた。
 私は、他にも、西部謙司という男が、「出典」を明らかにしないという点について、以前から批判してる。
 恐らく、この男は、私のブログから内容を盗んで発表し続けているように、他の所からも盗んでいて、「さも自分で考え出しました」 という体(てい)で文章を発表し続けているのだろう。
西部謙司は、自分で考え出したモノではなくても、「出典を隠すこと」で、それを自分が考え出したモノだという印象を、読者に与えることができる。 だから、それをやっている。
 今回の西部謙司のマンチェスター・シティのコラムが、まさしく、それである。
 
私は、日本のサッカー・ファンが、西部謙司という人間のこの酷さに早く気づいて欲しいと思っている。
 

 

 以下が、西部謙司が昨日、発表したマンチェスター・シティのコラムである。

       ↓


以下は、「ヤフーニュース」で、西部謙司のコラムが配信されたモノである。内容は、上記のモノと同じである。

                       ↓



 

それでは、皆さん、さようなら。



サッカー評論家、西部謙司は、現在、「サッカー名将列伝」という連載をやっている。
これは、サッカーの世界の監督を紹介して行く連載である。
インターネットで連載しており、全て無料で読めます。

私は、この連載は、酷いと思っている。
と言うのは、西部謙司は、「名将列伝」と題して連載しているが、この連載では、その取り上げた監督のコメントは、全く紹介されないからだ。
毎回、西部が、当時、その監督が率いていたチームの感想を述べて、
「この監督は、こういう監督だった」と勝手に書いて終わりだからだ。

西部謙司は、自分でインターネットを駆使して、毎回、取り上げる監督の過去のインタビュー記事などを見て、その監督の思想・哲学を調べるというのが面倒くさいので放棄しているのである。
西部は、自分でその監督の率いたチームを見て、「この監督は、こういう監督だ」として済まし、読者に説明して終わりなのである。


直近の連載は、本当に酷かった。
それは、ビセンテ・デルボスケ監督を取り上げたモノであった。
タイトルは、
戦術がジャマだった銀河系軍団。レアルにデルボスケの凡人ぶりは必要だった
である。

なんと、西部謙司は、「ワールドカップ、ユーロでスペイン代表を優勝させた」 という名将、デルボスケを、「凡人」 と呼んでいるのだ。

そして、西部の連載では、デルボスケ監督のコメントは、全く紹介されていないのだ。
デルボスケ監督は、「戦術が邪魔だった」などと一言も言っていないが、西部謙司は、勝手にそう決めつけて、デルボスケ監督の哲学を紹介しているのだ。
私は、これは非常に問題があると思う。

私は、先月、「J-Sports」という放送局の「Foot」という番組を見た。
「Foot」という番組が、無料放送だったので、私は見ることができた。
「Foot」は、「デルボスケ監督に直撃インタビュー」というモノを紹介していた。
これは、デルボスケ監督が既にレアル・マドリードを退任した後、2000年代に受けたインタビューであった。
このインタビューは、なんとデルボスケ監督の自宅で行われた。
「Foot」のスタッフが、わざわざデルボスケ監督の自宅に行き、家に入れてもらって、デルボスケ監督は、自宅の居間で、インタビューを受けていた。
私は、あまりにもプライベートな空間に日本のマスコミが入れているので驚いた。
そして、デルボスケ監督は、銀河系軍団と呼ばれていた時代のレアル・マドリードについての思い出話を披露した。
あのチームに関して、監督自ら解説したのだ。
私は、西部謙司が、デルボスケ監督のコメントを一切、紹介せずにコラムを書き、勝手なことを書いて終わりにしているので、それに対して怒りが生じたので、今回、このブログを書いている。

デルボスケ監督は、ジネディーヌ・ジダン、ラウル・ゴンザレス、ルイス・フィーゴなど、スター選手が居たレアル・マドリードについて、こう述べていた。
「私は、ジダンを中央でプレーさせた。マスコミは左サイドでプレーさせていたと言うが、中央でプレーできるようにしていた。
左サイドは、左サイドバックのロベルト・カルロスが攻撃参加するので空けておいた。それによりジダンが中央で自由にプレーできるようにした」
と述べていた。
私は、これを聞き、「なるほどな」と思った。
西部謙司は、ビセンテ・デルボスケ監督を「凡人扱い」して、「当時のレアル・マドリードは戦術が邪魔だった」などと乱暴なことを書き、見下したような評論をしている。
しかし、当事者であるデルボスケ監督は、当然だが色々考えて、選手が生き生きと一番能力を発揮できる仕組みを考え、実践していたという事である。
上記のようなことを思うと、私は、いかに西部謙司のコラムが酷いモノであるか説明できると思う。
つまり、西部謙司は、連載コラムで取り上げる監督のインタビューというのを、全く調べていないので、当事者である監督がどう思ってチーム作りをしていたかが全く分からないのである。
しかし、西部謙司は、全く分からないにも関わらず、自信を持って、
「この監督は、こういう監督だった。このチームは、こういうチームだった」とだけ述べて、連載コラムを毎回、終わりにしているのだ。
私は、この姿勢は、本当に酷いと思っている。
デルボスケ監督は、この番組のインタビューでは他にも、
「現在、ラウル・ゴンザレスは、ふさわしいポジションでプレーしていない。それがラウルが得点が減っている原因だ」
と述べていた。
私は、それを聞き、
「その通り。さすがデルボスケ監督は、チームの問題点を分かっている。デルボスケ監督の指摘は、本当に的確だ」
と感心をした。
恐らく、西部謙司は、デルボスケ監督のこういうインタビューを、一度も見たことがないのだと思う。
だから、西部謙司は、デルボスケ監督を見下したようなコラムを書けるのだと思う。

そういう訳で、日本のサッカー・ファンの皆さんには、西部謙司の連載コラムのやり方は、酷いと知って下さい。
西部は、面倒くさいので、資料を集めて調べるというのを真面目にやっていません。当事者の監督のインタビュー記事は調べていません。面倒くさいので、監督のインタビューを読んでないのです。 
だから、西部のコラムでは監督のコメントが紹介される事はありません。
その結果、西部は、監督の凄さを分かっていないので、取り上げる監督を見下したコラムを書いています。

そして、日本のサッカー・ファンは、西部謙司の意見にだまされないで下さい。
あれは、西部謙司が、よく調べずに怠慢さを発揮して、勝手に書いて終わりにしているだけのコラムです。


  それでは、皆さん、さようなら。


(注)
今回の記事は、アメーバブログで、運営から「閲覧禁止の措置」を受けたので、
ライブドア・ブログに書いています。
これは、アメーバブログで書いたモノを、そのまま転載しています。


【 サッカー評論家、西部謙司を批判する。
日本人評論家は、歴史観がおかしい。】

              &

【 日本人は、1990年代のACミランの凄さを分からないのか?
日本人は、欧州の「無敗記録」というのを知らないのか? 】

                                   &

【 1990年代前半、ACミランがFCバルセロナのサッカーを
欧州チャンピオンズ・リーグ決勝で、4-0で破壊している。
「欧州チャンピオンズ・リーグ史上、最悪のスコア」である。
しかし、その事実を避けて説明しない西部謙司の酷さ 】。

                               

【 西部謙司は、
「ACミランのサッカーは、10年後、FCバルセロナのサッカーによって負けた」
と説明している。
しかし、1994年、ACミランがFCバルセロナを破壊した試合は、一切、説明しない酷さ。
また、10年経ったら、ACミランのメンバーは高齢化して引退していた。
しかし、その点については考えず、
「リオネル・メッシ、チャビ・エルナンデス、アンドレス・イニエスタら
FCバルセロナのサッカーが、ACミランのサッカーを倒し、
『サッカーは進歩した』」と説明する西部理論の珍妙さ。 】



私は、このブログにおいて、結城康平、林舞輝、西部謙司、そして日本の雑誌「フットボリスタ」、「フットボール批評」、「ワールド・サッカー・ダイジェスト」、「ナンバー」などがやる、「新戦術、詐欺商売」というのを何度も批判している。
その理由は、私は、
サッカーというスポーツでは、戦術はほとんど出尽くした」という考えを持っているからである。
私は、
「サッカーは、『11人 対 11人』で、ルールはほとんど変わらず、100年以上、歴史が積み重なり、先人によって色々なアイディアが実行され、新しいモノはもう出にくい」
という考えを持ってます。
そして、私は、海外の著名な評論家が、これと同じような考えである事も紹介した。
私は、最近、この「新戦術、詐欺商売」をやっている1人である、西部謙司の記事を読んだ。 
その記事は、2020年1月25日に発表されたモノである。
私は、とても驚いた。ツッコミどころ満載の記事であった。
その記事では、西部が「サッカーの戦術に関する基本的な見解」を披歴していた。
それが以下である。

記事タイトルは以下である。

“バルサの模倣者”を食い尽くすリバプール。黄金期ミランの進化系…戦術は転がりながら前に進む


私は、この時点で、もう驚いていた。

つまり、西部謙司は
現在のリバプールは、1980年代後半から1990年代前半に黄金時代を築いたACミランより上である。進化したモノだ
という考えを表明しているのだ。
私は、これにとても驚いた。

「当時のACミランより、現在のリバプールの方が上だ」などと考えている人物が、この世に居るという事にとても驚いた。
そして、西部謙司は、この記事の中で、自身のサッカー観を披歴していた。
それが以下である。


「攻撃が優勢になったら、次には守備が優位になる。
ただ、同じようなことを繰り返しているようでいて、やっぱり前には進んでいる。
リバプールのプレスは、かつての(1990年頃の)ミランのそれとは違っていて、元に戻っているわけではない。戦術は回りながらも、転がるように前に進んでいるのだろう。
プレッシングのミランが登場してきた時は衝撃的だった。
ゆっくりとパスをつないで組み立てていこうとする古典的で技巧的なチームは、ことごとくミランのハイプレスに食い尽くされていた。
だが、そのミラン方式のプレスが世界的に普及した頃、今度はスペイン代表とバルセロナが規則的な守備戦術の隙間を突くパスワークで、ミランの追随者たちを総ナメにしてしまう。
 今は、バルサの戦術をようやく吸収したチームがリバプールのカモにされている。
そして、そのうちリバプールの模倣者が次の波にさらわれていくのだろう。」


以上である。


私は、これを読み、ツッコミどころが満載だと思った。
そして、日本人評論家たちが、
「歴史と共にサッカーは常に右肩上がりで進化しているモノだ」
という強固な考えを持っていることを確認した。
また日本人評論家というのは、「歴史を丹念に見る」という姿勢が不足しているように思った。

まず第一に、西部謙司は、「当時のACミランの強さ」 というのを理解していないと思った。
当時のACミランは本当に強くて、イタリアでは、「強いミランにはもう飽きた」というフレーズが生まれたぐらい、本当に強かった。
ACミランは1990年代前半、リーグ戦で、「58試合無敗」という記録を作った。
そして、ミランがパルマに敗れて、無敗記録が終わった時は、大きなニュースになった。
負けたことがビッグ・ニュースになる」というそういう凄いチームだったのだ。
このミランの「58試合無敗」 という記録は、欧州5大リーグでは、未だに「最長無敗記録」である。
21世紀に入って、バルセロナが凄いと言ったって、その無敗記録は、「43試合」である。
リオネル・メッシのバルセロナは、1990年代のACミランの記録は破れなかったのである。
それぐらい当時のACミランはとんでもなく強かった訳であるが、西部謙司は、現在のリバプールの方が進化した形だと言っているのだ。
現在のリバプールは、欧州チャンピオンズ・リーグには優勝したが、
「1990年以来、リーグ優勝していないチーム」である。
このチームと1980年代後半から1990年代前半にかけてのACミランを比べて、どうして「現在のリバプールの方が上だ」と西部が言えるのか? 
私はそこが理解できない。
私は、結城康平、林舞輝、「Leo the football」 という連中が、1980年代、1990年代の歴史を勉強していない「ニセモノ」という事は知っていたが、年配の評論家である西部謙司に至っても、こんな見解を述べているのだから 本当に驚いた。

日本国において、「まともなサッカー評論家」というのは、居ないのではないだろうか?
誰も歴史について勉強してないので、歴史を知らないので、とんでもなく変なことを言っている評論家だらけなのだ。
日本人は歴史に興味がない民族だと思うが、「お前ら、ちょっと歴史を学べよ」と痛切に思う。
これでは、西部の話を聞いた若い世代が、本当に現在のリバプールが凄くて、当時のACミランより上だと思って知識を得てしまうだろう。
私は、「58試合無敗」をやって、約30年経っても、未だに欧州5大リーグにおいて、この記録を破れるチームがなく、「永久に破れないかも」というレベルの記録を作った、当時のACミランの凄さを、現代の若い世代が「軽視する」という現象が起きそうで、本当に問題だと思っている。
私は、ACミランのファンではなく、むしろACミランは大嫌いなチームであるが、西部のこの見解は、とても問題だと思っている。 
そういう訳で、私は、このブログを読んだ方には、
「当時のACミランは凄い。現在のリバプールなんかより遥かに凄い。現在のリバプールが進化型なんて笑わせるな。西部の見解は的外れである」
ということをアナウンスしておく。

そして、西部は戦術について、

「戦術面において、現在のリバプールのプレスはACミランのプレスより進化したモノである」 、故に、「現在のリバプールの方が、当時のACミランより強い」と述べているのだ。

私はこれを読んで、本当に驚いた。
西部は、ACミランの「タソッティ、バレージ、コスタクルタ、マルディーニ」のディフェンス・ラインと その前に居たボランチのフランク・ライカールによる あのディフェンスを何だと思っているのだろうか? 
あの守備より、現在のリバプールが上だと言うのだろうか?
あのレベルのディフェンスを現在のリバプールがやれと言っても不可能だろう。

DF、ファビオ・カンナバーロ
(「2006年、バロンドール受賞」。 ワールドカップ2006優勝)は、
1990年代のイタリアのディフェンダーの方がレベルが高かった」と述べているが、その理由は、このACミランのディフェンスを見て来た影響が大きいだろう。
あれを見て来たので、カンナバーロはワールドカップに優勝し、バロンドールも受賞したが、
「俺達の世代の方がレベルが高い」とは口が裂けても言えないのだろう。
私は、それぐらい当時のACミランというのは、凄い存在だと思っているが、日本人 評論家は、「現在のリバプールは、ACミランの進化型」などと、とんでもないことを言っている。
ACミランには、FW、マルコ・ファンバステン、FW、ルート・フリットという歴史的名手が前線に居た訳だが、現在のリバプールの選手なんか彼らには敵わないだろう。
私は、攻守において、当時のACミランは、現在のリバプールなど軽く上回っていると思うが、西部謙司によると、リバプールの方が進化しているそうだ。
私は、全く理解できない。西部は、サッカーの基本情報を把握していないのではないだろうか? 
そうとでも考えないと理解できない評論家である。
また、西部は、「『バルセロナのパス・サッカー』が、ACミランのプレスを崩した」と説明している。

しかし、バルセロナの「パス・サッカー」を生み出したヨハン・クライフ監督が率いた、
当時のチームは、1994年に「欧州チャンピオンズ・リーグの決勝戦」で、
ACミランと戦い、「0-4」という歴史的惨敗を喫している。
欧州チャンピオンズ・リーグの決勝戦で、0-4という敗戦は、大会の歴史的にも「史上最悪レベル」である。
「4点差つけられて敗れた」のは、史上最悪のスコアの1つだ。
クライフは、「バルセロナの哲学」を生み出した人物である。
そのクライフが、欧州の最高の舞台で大惨敗を喫したのだ。
そういうサッカー・ファンには、忘れられない歴史がある。
この決勝戦は、非常に有名な決勝戦だと思うが、どうして西部の記憶から、この決勝戦が消えているのだろうか?
私は、そこが不思議で仕方がない。
最盛期のACミランは、バルセロナの「パス・サッカー」を破壊した事で、非常に有名な歴史を作った訳だが、どうして西部の解説では、
「ACミランの戦術は、バルセロナに敗れたこと」になっているのだろうか?
これを日本のサッカー・ファンに向けた説明とするのは、おかしいだろう。
誤解を生む説明だろう。

という訳で、西部の説明というのは、非常におかしい。
西部は、
「1980年代後半から1990年代前半にかけて強かったACミランの戦術の真似をしたチームがサッカー界に増えたが、それをバルセロナが倒した」
と説明しているが、ACミランは全盛時に、「バルセロナの哲学」、その大本を生み出した ヨハン・クライフのチームを破壊していたのである。

バルセロナは、1990年代前半、「スペイン・リーグ、4連覇」を達成していて、とても強いチームだった。
しかし、ACミランはそのバルセロナに対して、欧州の大会の決勝戦で、4-0で圧勝してしまったのである。
その後、21世紀に入り、クライフの弟子であるジョゼップ・グアルディオラ監督が、クライフの真似をして「欧州王者」になった訳だが、西部は、そこで 「ACミランのサッカーが負けた」と説明しているのだ。
バルセロナは、1990年代に既にACミランに「大惨敗」をしたのだが、西部はその歴史は説明せずに、21世紀に入り、バルセロナが強くなって、ACミランのサッカーは通用しなくなったと話しているのだ。
こんなおかしな話もないだろう。
西部の説明は、「都合が良過ぎる」と言わざるを得ない。
私は、「西部は、都合の悪い敗戦を避けて説明している」という気がしてならない。
私の説明を聞けば、「西部の歴史の説明」がおかしい事が分かるだろう。
そういう訳で、私のブログを読んだ方には、西部のような歴史観を持つことを止めることをお勧めします。
サッカーは、右肩上がりに進化している訳でもなく、常に前に転がっている訳でもないです。
前の時代よりレベル・ダウンすることは、当然あります。
戦術的にも「前の時代の選手のレベルより、選手のレベルが低くなっている状況がある」わけですから、優れようがないです。
元々の守備能力において、前の時代の個々の選手のレベルの方が高いのに、後の世代が上回り、チームとして優れているという珍妙な話もないでしょう。
という訳で、今回の話をまとめますと、
西部謙司、雑誌「フットボリスタ」、「フットボール・ゾーン・ウェブ」などによって、
「1980年代後半から1990年代前半にかけてのACミランを見下す」、
「現在のリバプールの方が、『伝説のチーム、1990年頃のACミラン』より上だ」
という見解にだまされないで下さい。
当時のACミランは本当に凄いチームです。
西部謙司が、当時のACミランについてよく知らないだけです。
日本人 サッカー評論家は、全員、歴史についてきちんと勉強してから記事を書いて下さい。
こんな事をしていたら、
「『サッカー史に残る 最高レベルの伝説のチーム』を、日本の若者たちが全員、見下し始める」
というあり得ない事態が起きます。
日本人 サッカー評論家たちは、そのような責任を意識し、歴史をきちんと勉強する所から始めて下さい。

以下のリンク先は、今回ブログで取り上げた、西部謙司の記事です。

              ↓
https://www.football-zone.net/archives/242767

【 評論家、西部謙司と北條聡は、人にモノを教える上での『常識』が、一切、無い。
 それを日本人に教える。】
            &
【 評論家、西部謙司と北條聡が、日本のサッカー・ファンに説明する『偽9番』発祥の時期は、イギリスのマスコミが説明する時期と、なんと40~50年も違う。】
            &
【 評論家、西部謙司と北條聡は、『歴史』をサッカー・ファンに講義するならば、その出典を明らかにしろ。
この2人の説明の仕方は、本当に酷い。】




最初に言っておきますが、今回の記事は、途中から再投稿記事です。 
私は、日本のサッカー評論家で歴史を紹介して活動している者が、西部謙司 北條聡であると知った。
この2人によって、日本のサッカー・ファンは、歴史を学んでいる人間が多いようだ。
しかし、この2人が、本当に酷い。
その理由は、2人とも、「歴史を説明する際、その出典を明らかにしない事」である。
現在、ユーチューブで、芸人の中田敦彦という男が、チャンネルを持ち、講義をしている。
(芸人と言いつつ、漫才・コントを作ることを放棄した ニセモノ芸人だと思うが、今回は、一応、芸人と呼んでおく)。
その中田敦彦は、講義をする前に、「今回、私は、この本を読んで講義をしています」という出典を明らかにするという作業をやっている。
中田は、「これから話す内容は、この本で学んだことを話しています」と視聴者に背景を説明しているのだ。 
本は、事前に数冊を見せる事もあり、そのようにして、自分が学習をした本を紹介している。
中田は、歴史を授業する際も、当然だが、学んだ本を視聴者に講義前に紹介してから講義を始めている。
それにより視聴者は、中田の講義で不審な点があれば、
「その大元の本の内容に問題があるのでは? 」とか、
「中田が今回、利用した本の著者は信頼に足りるのか? 著者は、元々、どういう考えを持ったタイプの人間だったのか?」とか、
色々、その不審点に関して、視聴者が探って判断する余地は残されているのである。
しかし、西部謙司、北條聡というサッカー界で歴史の講義をやっている評論家共は、
毎回、「自分が学んだ本が何であったのか、決して明らかにしない」という姿勢なのである。
それ故、視聴者は、彼らの歴史を聞いても、
「西部、北條は、一体、どこの本から、それらの知識を得て、歴史をサッカー・ファンに教えているのか?」
というのが、一切、分からないのである。
だから、彼らの述べる内容に不審点があっても、その出典が分からないので、視聴者はそれより先に判断する材料がないのである。
私は、彼らの態度というのは、本当に問題があると思っている。
現在、私のようなサッカー・ファン、スポーツ・ファンが、何かを書いた際に、出典を添えることを当然にやっている。
ウィキペディアにおいても、出典を明らかにすることを求められる。
それは昔から「常識」だと思うが、この2人は、そういう行為は全くしないのである。
私が、なぜ、今回、このブログを書いているかと言うと、彼らが「偽9番という戦術が生まれたと主張する時代」というのが、私が得た知識と40年も違うからである。
私は、昨年、イギリスの新聞、高級紙「ガーディアン」を読んで、
1890年代に『偽9番』の戦術は生まれた」という記事を読んだからである。
具体的に言うと、イングランドでプロ・リーグが開始された僅か6年後の1894年である。
一方、西部、北條の2人は、イギリスと違って、西部は、1940年代、北條は1930年代と言っている。
約40~50年も違うのである。
北條は、
1930年代のオーストリア代表で、マティアス・シンデラーがやったのが最初だ
と説明をしている。
西部は、
1940年代、リーベル・プレートが始めたのが最初だ
と説明している。
しかし、彼ら2人は、その出典を一切、明らかにしていない。
一方、私は、
「イギリスのガーディアン紙で、1894年に『偽9番』の戦術が初めて使用された」と説明して、出典を伴わせて読者の皆さんに説明をしている。
西部謙司、北條聡というのは、社会常識がゼロという事である。
彼ら2人は、何度も、「1930年代、オーストリア代表が『偽9番』の戦術を使用した」とか、「1940年代のリーベル・プレート」と説明をしているが、毎回、この2人は、「その知識をどこから得て話しているのか?」、
「その知識は、どこの本に書かれていた話なのか?」 という一番、重要な点については説明をしないのである。
こんなやり方で、通ると思っているのだ。
この2人は、サッカー界で出版業に携わっているそうだが、それでも常識が身に着いてないのだ。 本当に呆れる。
この2人は、「人にモノを伝える上での常識」がないのだ。

私は、このブログで、『偽9番』の発祥について説明する際、
「イギリスの新聞、『ガーディアン』で読んだ」 と、読者に出典先を明確にしている。
事実を紹介する際、裏付けとしての証拠を提示するのは非常に大事だからだ。
しかし、西部、北條は、「プロ評論家だが、一切、出典を明らかにしない」 のである。
私が、西部、北條の説明を聞いた時、最初に思ったことは、
「お前ら、一体、それはどこで得た知識を話してんだよ? 出典先を明確にしないと分からねーだろ?。
お前らは、毎回、どこで学んだ知識を日本のサッカー・ファンに伝えてんだよ?」
という事である。
この2人は、自分達から歴史を聞いた視聴者が、このような疑問を持つことを想像しないのだろうか?
私は、そこが一番、不思議である。
普通、学問をした経験があるならば、「それは必要最低限やらないと問題だ」という意識が、当然、生まれると思うが、この2人は、まるでないのである。

日本人の皆さんは、西部謙司、北條聡の酷さを知って下さい。
こいつらは「ニセモノ」だと知って下さい。
私は、西部謙司も、北條聡も認めていない。 
彼らの説明のやり方は、本当に常識がないからだ。
また、西部謙司に関しては、過去におもしろい事があったので認めていない。
私は、ウィキペディアで、
リーベルプレート、ボカ・ジュニオルスのページで、歴史の部分を1人で全て書いた
という人間である。
現在、リーベルプレート、ボカ・ジュニオルスのウィキペディア・サイトを見て、歴史を読んだ方が居られたら、その人たちは、私一人から歴史を学んだのと同じである。
私が書く前は、この偉大な2チームの歴史が、なんと誰も書いておらず、真っ白だったのだ。
そして、過去に西部謙司は、「私が書いたウィキペディア記事から、ボカ・ジュニオルスの歴史を学んで、それで記事を書いているのを見た事があるから」だ。
書かれている内容が、「いかにも、たった今、ウィキペディアで読んで学びました」みたいなモノであった。
だから、西部は、ウィキペディアを読んで得た知識を、すぐ書いて商売しているレベルであり、多くの本を読んで、本格的に勉強した評論家ではないと感じたからである。


私は、西部謙司、北條聡らが、決して出典を明らかにしないのが謎である。
一般人以下の常識しか持ってないことを、この2人は痛切に反省したらどうだろうか?
一般人でも、多くがブログを書き、出典を明示している。
この2人は、一般人から『 常識 』を学び、人にモノを教える上での常識を身に着けたらどうか?
これは、小学生でも分かる理屈である。



以下は、今年、2020年1月16日に、私がアメーバブログに書いた記事です。
『偽9番』の発祥について書いた記事です。


  < サッカーの授業 >


【 日本人サッカー評論家達がいかに酷いかを教える。 
新戦術詐欺商売。サッカーの母国イングランドとの違い。】


私は、昨年、インターネットをしていたら、
イギリスの高級新聞紙 「ガーディアン」 (2019年1月24日発行) で、
『偽9番』という戦術は、昔からあった」 と書かれている記事を発見した。
その記事が面白かった。
その記事は、以下の文章で始まる。

It is 125 years since the first false nine.

上の英文を訳すと、

「『偽9番』の戦術が使われて、125年が経つ」

となる。

しかし、日本では、全く違うのである。
皆さんも、日本のマスコミが、
「『偽9番』、新戦術」という言葉を何回も書いているのを見かけた事がないだろうか?
日本人評論家達の手にかかると、イギリスと全く正反対になるのである。
私は、日本人はわざとやっているとしか思えない。
例えば、2016年6月13日に「Dear Magazine」というサイトにおける、サッカー評論家、結城康平の記事では、
「このパスサッカー隆盛の時代は、革命家ペップ・グアルディオラによって更に完成度を増す。 世に知られる「偽9番」、もしくは「0トップ」と呼ばれる戦術の導入は、ボランチにとって悪夢に近い状況を生む。ただでさえ流動的なバルセロナの中盤を抑えつつ、下がってくるCFメッシの対策までしなければならない」。
と書かれているのだ。

また、結城康平は、2019年1月22日の「フットボリスタ」のサイトに寄稿した記事では、
「ポジショナルプレーという優位性をベースにしたポジションの再定義は、試合の中での『ポジション』という概念自体にも影響を与え、『ゼロトップ』や『偽SB』といった新たな戦術を生み出すことになった。」
と書いている。
つまり、イギリス人が、「125年前からある」としているモノを、日本では、最近、
革命家ペップ・グアルディオラ監督が、『偽9番』を発明した」という事として、伝えられているのである。
私が読んだ、その新聞記事では、続けて、記事の本文は、このような文章から始まる。

At times it feels in football there is nothing new,
merely the reinvocation of old ideas.

上の英文を訳すと、以下のようになる。
「サッカーでは、新しいものは何もないと感じることがあります。単に古いアイデアを掘り起こし、使っているだけです」。

続いて、以下の文章が書かれている。

It is well over 100 years since GO Smith started operating for the Corinthians
as what we would now term a false nine and yet still the idea of a team operating
without a fixed focal point in the centre of their attack can cause chaos.

上の英文を訳すと、
「ゴー・スミス監督が、コリンティアンズで、現在、『偽9番』と呼ばれている、カオス(混乱)を引き起こす為に、攻撃陣の中央の選手(センターフォワード)を固定しないチーム戦術のアイデアを使用してから100年以上が経ちます」
となる。
私は、このブログで、読者の皆さんに、
「サッカーというスポーツは、『11人 対 11人』で、ルールもほとんど同じで、100年以上、歴史が積み重なり、『新しい戦術』などと言うのが出て来る方が難しい。それは稀である」
と繰り返し、説明しています。
つまり、イギリス人のサッカー評論家は、私と全く同じ考えで活動をしているのです。
その見解・事実をイギリス人読者に伝えている訳です。
この姿勢は、日本人サッカー評論家達と全く逆です。
日本人は、「新しい戦術が出ました!!」と大声を出し、日本人サッカー・ファンをだまして商売をしていますが、イギリス人はそのような「卑劣な商売」をせず、きちんと読者にまず「サッカーの歴史」を伝えて、「過去に、現在、話題となっている戦術は使われていました」という真実を伝えるよう努力をしている訳です。
この両者の比較を見て、いかに日本人というのが汚い民族だか分かるでしょう。
日本人サッカー評論家達は、サッカー・ファンをだましても平気なんです。
だまして金儲けできればそれで良いんです。
私は、日本人サッカー評論家達は、まず歴史を学ぶべきだと思います。
そして、「新戦術、詐欺商売」という邪道を直ちに止めるべきです。
100年前から既に使われている戦術を、「新戦術」として知識不足の日本人サッカー・ファンに教えたり、100年前からある戦術を使っている現在の監督を、「革命家」として紹介するのは、全くおかしな事です。許される事ではないでしょう。

雑誌「Number」 、「フットボリスタ」、「ワールドサッカー・ダイジェスト」、「サッカー批評」など、これら雑誌は全て同じです。
「新戦術が出ました」、「時代は変わりました」、「戦術の進化」、「現代サッカーでは」などという言葉を頻用し、読者に「時代は変わっている。乗り遅れるな。覚えておかなければいけない」という強迫的メッセージを送り、時代の変化を強調して金を稼ごうとしているだけなのです。
イギリス人が、きちんと読者にサッカーの歴史を教えて、正直に「この戦術は、昔から使われてます」と説明するのとは大違いです。
私は、本当に日本人というのは、醜いと思います。
あまりにも評論家に詐欺師が多過ぎます。詐欺雑誌、詐欺出版社が多過ぎます。
読者をだまして、何の得があるんでしょうか?
それよりきちんと「サッカーの歴史」を教えるべきではないでしょうか?



 それでは、皆さん、さようなら。

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