「サッカー日本代表の釜本記録水増し」に抗議している男のブログ。& 極悪ウィキ執筆者Athleta、別アカウントAth02問題。他に「日本代表の八百長試合事件」も抗議しています。

JFAとウィキペディア執筆者の記録捏造が酷過ぎる。JFA幹部は自分達の記録を良くする為、基準変更をした。 そして1人のウィキペディア執筆者がデマを流し、日本国民をだましている。世界に広がる釜本80点のデマ。日本人はAthleta(Ath02)の悪行を知り、早く永久追放すべし

私は、「他のライブドアブログ」を主体に活動をしています。
ここは、私の第2ブログです。

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私は、コメントされても返信しません。
そして、訪問者がコメントを書いても、このブログには基本的には、表示しません。
それでもコメントを書きたい方は、書いて下さい。

タグ:サッカー日本代表

【 私が、日本サッカー協会に、
「『日本代表チームの八百長試合。無気力試合』を批判したらブロックされた」という件について紹介します。】

【 サッカー女子日本代表は、泥棒です。客が八百長試合に呆れて試合中に8割が帰った。しかし、返金しない。】


私は、女子日本代表チームが、国際試合で「八百長試合。無気力試合を行った」という事について批判した。
日本サッカー協会の「女子日本代表チームのX(旧ツイッター)」で、直接、その八百長の件について批判をした。
すると、ブロックされた。
女子日本代表チームは、2023年10月29に行われた、パリ・オリンピックのアジア予選、
日本 対 ウズベキスタン」戦で、「八百長試合。無気力試合」を行った。
ちなみに、この2国の監督は共に、日本人だった。
この試合で、日本代表は、開始早々、得点をした。2得点をした。前半15分までに2得点をした。
すると、その後、75分間に渡り、無気力試合を行った。(注:試合時間は90分です)。
この75分間で、両チーム共に、シュート数は0本。試合終了まで0本」という酷さだった。
女子日本代表のボール支配率は、91パーセントでした。
しかし、75分間でシュートは0本でした。
女子日本代表チームは、敵のゴール前まで行ってもシュートを打たない。戻って帰る。
またゴール前まで行く。そして、戻るを繰り返しました。

ちなみに、この試合で日本は、1試合のチーム・パス記録で、「史上最多パス記録」を作りました。世界記録を作りました。
パス数は、1466本でした。
2014年に男子のバイエルン・ミュンヘンがブンデスリーガの試合で最多記録を作りました。
その記録は、1033本でした。
ちなみに、バイエルンの監督は、ジョゼップ・グアルディオラでした。
この記録は、2014年3月25日のブンデスリーガ、『バイエルン・ミュンヘン 対 ヘルタ・ベルリン』戦で達成されました。
女子日本代表チームは、その男子のバイエルン・ミュンヘンのパス記録1033本を、433本も大幅に上回る「サッカー史上最多パス記録」を作りました。
両チームの出場選手全員で八百長をしたので、この試合で「世界新記録」が生まれました。
この記録は、凄まじい記録です。 
恐らく、永遠に破られない可能性が非常に高いです。


この2チームにとって、無気力試合を行う事は、アジア予選を戦う上で、都合が良かった。
「日本代表は、プレーオフでオーストラリアと試合をする事を避ける事ができる。そして、格下の北朝鮮と試合する事ができる。一方、ウズベキスタンはプレーオフに進出する事ができる」。
この結果、この2国の共謀による「八百長試合」の被害を受けた、韓国フィリピンの2国は予選敗退をした。

客は、前半途中から異変に気付きました。「選手達が無気力試合をしている事」に気づきました。
だから、怒ってブーイングをしました。
しかし、女子日本代表チームは、客の怒りを完全に無視しました。
そして、後半になっても変わらず、両チーム共、同じ事をしていました。
だから、客は、
「自分たちがいくらブーイングしても、2チーム共、得点する気がないんだ。無気力試合をやり続けるんだ」
と気づきました。
その為、後半開始序盤の時点で、この試合の結末を知ったお客たちは、どんどん帰り始めました。
試合開始の時は、観客は2000人でした。それが後半開始後、すぐに半分以下になったそうです。
バックスタンドに居た客の80パーセントは帰ったそうです。
こんな酷い試合があるでしょうか?


私は、この件に関して、激しい嫌悪感、怒りを覚えた。
これは、スポーツを破壊している」と思った。
だから、日本サッカー協会のXで、直接、批判を行った。


それが、以下である。


スクリーンショット 2024-08-02 170452
【写真解説】
私は、女子日本代表チームを批判した。「八百長試合。無気力試合」の件について批判をした。
「『八百長、談合試合』。『無気力試合』をしたにも関わらず、国民と中国に謝らないのはおかしくないですか? このチームの道徳は異常過ぎませんか?」と書いて批判をした。
本当は、被害を受けた国は、韓国とフィリピンである。しかし、私は、間違えて中国と書いてしまった。




スクリーンショット 2024-08-02 170530
【写真解説】
私は、他にも批判投稿をしました。
「『八百長、談合試合』、『無気力試合』をした。日本は、オリンピックに出場する資格はない。この日本代表は、サッカー史上で最悪の事をしたチームの1つです。これを読んで下さい」。
と書いて批判をしました。



 私は、以上のように、日本代表の「八百長試合」を批判した。そして、同時に自分のブログで、「八百長の件について詳しく抗議している内容のリンク」を一緒に添えて投稿をした。
すると、日本サッカー協会からブロックされた。
それが以下である。


スクリーンショット 2024-08-02 170331

【写真解説】
これは、「女子日本代表チームのXが、私をブロックした証拠」です。



以上のように、この人たちは、最低な人間達です。自分たちが、スポーツマンシップ、フェアプレーにかなり反した、「サッカー史上でも一番酷いレベルの悪行をした」にも関わらず、それを批判されると、「押し潰す」という対応をしました。
私は、これは、信じられません。
普通は、謝罪するのではないか? と思います。
ここまでの酷い事をしたにも関わらず、謝罪せず、「全く悪いと思っていない」という考えなのは、信じられません。
これが、スポーツを行う団体の幹部がする事なのでしょうか? あまりにも道徳が異常ではないでしょうか?

1982年のワールドカップで「ヒホンの恥」と名付けられている八百長試合の事件があります。
その試合は、80分間の無気力試合でした。ドイツとオーストリアが八百長をしました。
サッカー界では有名な事件です。
この試合と、女子日本代表がした事が、本当に酷似しています。女子日本代表は、75分間の八百長でした。八百長時間は、5分間しか変わりません。
だから、ほとんど酷さは同じです。
私は、男子サッカーの歴史上最悪の試合が、「ヒホンの恥」とするならば、女子サッカーの歴史上最悪の試合は、この女子日本代表チームが犯した「タシュケントの恥」だと思います。



この人達は、「サッカー史上最悪の試合」をした人間たちです。
「75分間に渡る八百長試合」をしました。
この連中は、「観客がブーイングをしても八百長をやり続けた最低の人間たち」です。
「客がどんどん帰り始めても、最後まで八百長をやり続けた最低の人間たち」です。
しかも「全く客に謝罪しない」という最低の人間です。




監督: 池田太。

キャプテン:  熊谷紗希。

選手:長谷川唯、清水梨紗、山下杏也香、長野風花、猶本光、宮澤ひなた、林穂之香、千葉玲海菜、遠藤純、清家貴子、高橋はな、南萌華、三宅史織、杉田妃和、中嶋淑乃。

計17人が、悪行をした。


私は、日本サッカー協会が、この件について問題だと思っていない事を知ったので、この後、「日本サッカー協会の理事」を務めている、川澄奈穂美に直接、訴えました。
川澄は、元日本代表選手で、現在はアルビレックス新潟に所属している現役選手です。
私は、川澄奈穂美の「X」を通じて訴えました。
私は、彼女の「X」に、
「あなたは、日本サッカー協会の理事を務めている。だから、この問題について取り組んで欲しい」
と書いて訴えました。
すると、川澄は、完全無視しました。
だから、私は、あの女は、人間のクズだと思います。
理事を務めているが、女子日本代表チームが、八百長試合をしても無視する」という人間です。

ちなみに、川澄奈穂美は、2012年のロンドン五輪、グループステージの「日本 対 南アフリカ」戦で八百長試合をしています。
この試合の観客は、24200人でした。
この時、女子日本代表チームは、監督の佐々木則夫から、「シュートを撃つな。撃ってもわざと外せ」という指示を受けていました。これを90分間、行いました。その結果、試合は「0-0」で終了しました。
これは、「日本が、決勝トーナメントで苦手なフランスと対戦したくない」、「移動したくない」という理由で行われました。
つまり、川澄奈穂美は、過去に今回の女子日本代表がしたような汚い事をしていた人間なのです。
だから、彼女は、「今回の八百長試合を見ても問題だと思わない」という感想なのだと思います。
私は、これを見ると、本当に「フェアプレー、スポーツマンシップがない人間のクズしか居ない」と思いました。


最後に、私が、日本サッカー協会の「X」に投稿した時、添付したモノのリンクを紹介します。
それは、以下のリンクを踏むと読めます。






これは、試合後の映像です。
「八百長試合」をしたにも関わらず、全く反省していない最低な人間達の映像です。



【動画解説】
これは、女子日本代表が、「八百長試合をした後の選手インタビュー」です。
ディフェンダー、南萌華のインタビューです。
この女は、「サッカー史上最悪の試合」をしたにも関わらず、全く反省していません。
本当に最低の人間です。この女は、道徳がない人間です。
女子日本代表は、パリ・オリンピックアジア予選で「八百長試合」をしました。
この試合で、「75分間の無気力試合」をしました。
観客は、両チームが無気力試合をするので怒り、前半にブーイングをしました。
しかし、女子日本代表チームは、観客の声を無視して、前半15分から試合終了まで無気力試合を止めませんでした。
その結果、後半序盤で客がどんどん帰り始めました。
客は2000人居ました。しかし、その8割が試合中に帰りました。
南萌華は、目の前で客が帰ったのを見ても、全く反省をしない。自己正当化だけをする最低の人間です。
この女は、スポーツ史上最悪の選手の1人です。



  それでは、皆さん、さようなら。




日本サッカー界の他の酷い話です。
    ↓




























































































































<< サッカーの授業。 >>

【 50年以上、日本のマスコミ、サッカー評論家、当時の代表選手達が協力して、日本国民に隠している秘密。
今年も、こいつらは隠すのか? 日本国民をだますのか? 

なぜ、日本のマスコミ、評論家、当時の日本代表選手達は、
「昔のオリンピックは、レベルが低かった。他の国の大会参加選手は、下部組織に居た選手だった」という真実を、日本国民に正直に伝えないのか? 】
     &
【 釜本邦茂らの日本代表が参加した、「1968年のメキシコ・オリンピックに参加した強豪国の出場選手の年齢リスト」を紹介する。 
どうして日本は、この大会の試合を国際Aマッチにするんだ? 明らかに、その行為は、おかしいだろ!!。

サッカー評論家、後藤健生の「昔のオリンピックに関する説明」の酷さ。】



今年、日本国で、東京オリンピックが開催される。
私は、数年前から、このブログで、
1968年、日本代表チームが銅メダルを獲得した大会は、レベルの低い大会だった。他の国の出場選手は、下部組織に居る選手だった。プロ契約を勝ち取れないので、アマチュア選手の状態だった。
外国のチームは、そのような選手達で作られた代表チームだった。
だから、レベルの低い大会だった。日本代表チームが銅メダルを取ったのは、大した価値はない」という事を伝えている。
そして、
FIFA(国際サッカー連盟)が、1999年に『1960年代以降のオリンピックは国際Aマッチの大会として認めない』という声明を出した」という事も伝えている。
私は、このブログを開設して、延べ人数で1万人ぐらい訪問している。だから、この事実が日本社会に広まると思っていた。
そして、私のブログを読んだ日本のサッカー評論家、アナウンサー、サッカー雑誌の製作者などが、正直に日本国民にこの事実を伝えるだろうと予想していた。
しかし、私の予想と違い、依然として、誰一人として
「1968年、日本代表チームが銅メダルを獲得した大会は、レベルの低い大会だった」とか、
「外国のチームの出場選手は、下部組織に居た選手達だった」、
「FIFAは、この大会を国際Aマッチの大会と認めていない」など、
そういう真実を日本国民に伝えないのである。
私は、その他にこのブログで、当時の日本代表チームは、大会直前に「11連敗」をした。
この11連敗という記録は、サッカー日本代表チームの「史上最多連敗記録」であるという事も説明している。
この記録は、53年経っても、未だに破られていない記録である。
ちなみに、この「最悪の連敗記録」を作った時の日本代表チームのフォワードは、釜本邦茂である。
また、釜本邦茂 と 日本サッカー協会は、オリンピックでの得点を国際Aマッチに勝手に集計して釜本の得点記録を増やした。
本来は、FIFA基準では、三浦知良が、55得点で日本1位である。
しかし、釜本邦茂は、自分が2位になるのが嫌なので、勝手にJFA基準(日本サッカー協会基準)というのを作った。そして、自分の得点を22点も増量した。
これにより、自分を1位にした。
私は、以上のような事も、このブログで伝えている。
しかし、日本のマスコミ、サッカー評論家、アナウンサーは、誰一人として、このような真実を、日本のサッカー・ファンに伝えようとしないのだ。
現在、ユーチューブという新しいメディアが出来て、日本のサッカー評論家、アナウンサーなどが、連日、話している。しかし、誰一人として、昔のオリンピックの実態について本当の事を語らない。
そして、当時の銅メダルを獲得した日本代表チームの選手達も、誰一人として「昔の大会のレベルの低さ。参加選手の年齢の低さ」を話さない。
という訳で、私は、この状態は異常だと思っている。
今年、日本で東京オリンピックが開催される。
私は、今年、日本で開催されても、今まで通り、日本のマスコミ、評論家、アナウンサー、当時の選手達は、真実を話さず、実態を隠して「正しい歴史」を日本国民に紹介することを拒否するのだろうか? と思っている。
現在の感じだと、どうやら今年も日本のマスコミの連中は、日本国民に真実を隠し、色々な酷いことも隠して、釜本邦茂らを持ち上げるサッカー記事・番組などを製作するようである。
私は、これが本当に酷いと思っている。
「真実」を伝えることを拒否している時点で、マスコミとしての役割を放棄しているのではないか? と思う。
私は、国民に本当のことを伝えないのは、国民にとって不幸だと思う。
日本のマスコミは、53年間も隠し続けているのだから、本当に酷い話である。

サッカー評論家で、後藤健生という人が居る。この男は、「JFA基準」(日本サッカー協会基準)というモノを作成したメンバーの1人である。
「日本サッカー協会による独自基準」を作成したメンバー6人の内の1人である。
つまり、後藤は、「釜本邦茂の日本代表の得点数増加」を手助けした人物である
この人物は、2021年、4月15日に、「スポルティーバ」というメディアで配信したコラムで、1960年代、釜本邦茂が参加したオリンピックについて以下のように、日本人サッカー・ファンに説明をしている。
当時のオリンピックは年齢制限のないフル代表によるAマッチだった」と書いている。
これだけで、当時のオリンピック参加選手の実態に関する説明を終わりにしている。
この後藤健生というサッカー評論家は、当時のオリンピックに出場している選手たちが、「非常に若い」、「下部組織に居た選手ばかり」という真実を説明していない。説明する事を避けている。
そして、釜本邦茂が偉大に見えるよう、現在のJFA基準が正当であると思わせる為に、上記のような文言を書いたのである。
「年齢制限が無い」と言ったって、明らかに他の国の多くは、下部組織に居た選手ばかり出場していた。だから、後藤のその説明は、「まやかし」、「虚仮 (こけ)」である。
しかし、この後藤健生というサッカー評論家は、多くの日本人サッカー・ファン、日本国民をだましたいので、上記のような文言を書き、これだけで、当時のオリンピックの説明を済ましているのである。


【 釜本邦茂らの日本代表が参加した、「1968年のメキシコ・オリンピックに参加した強豪国の出場選手の年齢リスト」を紹介する。】

私は、日本サッカー協会が、「1968年のメキシコ・オリンピックの一部の試合を、国際Aマッチとして認めている事」を批判している。
その理由は、上述したが、この大会に参加している選手たちは、強豪国ではその多くは下部組織に在籍していた選手だったからだ。プロ契約を勝ち取れず、アマチュアの状態だったので参加している選手たちだった。この中には、その後、プロになれずに引退している選手も居た。
注: 外国のオリンピック出場選手の中には、「プロの1部リーグの試合に出場している選手」も居ました。例えば、ブラジル代表です。
このような選手達は、「次のオリンピックまでは、プロ契約せずアマチュア状態である」と宣言していました。
オリンピックに出場する為に、「アマチュア状態のまま、プロのリーグ戦に参加する」という事をしていました。
大体、「下部組織から1軍デビューして、オリンピックが開催される年の1年だけアマチュア状態」という感じでした。
「オリンピックに出場する為に、その何年も前からずっとアマチュア状態で居る」というのは、さすがに経済的に得ではありません。
だから、「オリンピックに出場する為に、1年だけアマチュア選手。そして、オリンピックが終わったらプロ契約する」という感じでした。


そして、20代中頃、20代後半で参加した選手たちは、下部組織に在籍していなかった。
しかし、彼らは、「アマチュア選手」だった。プロ・リーグより下のアマチュア・リーグのチームに在籍している選手達だった。主に3部リーグなどに所属している選手たちだった。3部だとプロ契約できない人ばかりなのだ。
例を挙げると、当時のスペイン代表、フランス代表の20代中頃以上の年齢の選手たちは、3部リーグのチームに所属していた選手だった。
フランス代表は、「下部組織在籍の若い選手と3部リーグに居た25才以上のアマチュア選手の混合チーム」だった。
日本は、1968年のメキシコ・オリンピックでフランス、スペインと対戦しました。それぞれ決勝トーナメントの準々決勝、グループステージで対戦をしました。
注:日本サッカー協会は、フランス、スペインとの試合を国際Aマッチ扱いにしていません。
オリンピック本大会では、アフリカの国との試合のみを国際Aマッチ扱いにしています。
そして、アジア予選では、全ての試合を国際Aマッチ扱いにしています。

この大会でスペイン代表に27才の選手が居ました。イシドロ・サラ(Isidro Sala:ジノーラFC、所属)という選手です。チーム最年長です。
下記の表に載っています。
私がこの選手について調べたら、3部リーグのチームに所属している選手でした。
恐らく、スペインは当時、3部リーグはアマチュア・リーグだったと推測されます。
つまり、スペインもフランスと同様に「下部組織に居た若い選手と3部リーグのアマチュア選手を組み合わせたチーム」でした。
このように大会に参加しているチームが、日本以外は、ほぼどこの国もベスト・メンバーではないと思われます。
唯一、ナイジェリア代表は、ベスト・メンバーを用意した可能性があります。
しかし、これについては詳しく調べない限り、分かりません。
繰り返しますが、この大会は、ほぼ全ての国が、選出した選手に関して本気ではありませんでした。
「国際Aマッチであるかどうか?」という基準は、「本気度」です。
本気度で考えると、この大会は、あまりにも多くの国がベスト・メンバーを用意していません。
故に、私は、「1968年のメキシコ・オリンピックの試合は、国際Aマッチの大会と認めるべきではない」という考えを主張している。
現在のオリンピックは、「23才以下が出場資格」である。その為、現在のオリンピックは、「国際Aマッチと認められていない大会」である。
昔のオリンピックは、同じく若い選手ばかり出場していた。だから、FIFA基準では、それが理由で国際Aマッチと認められていない。
また、上述したように若くなくて参加した選手たちは、3部リーグに所属していた選手たちだった。彼らのレベルは、A代表のレベルでは全くなかった。
以上の事を考えると、私は、釜本邦茂らが出場した昔のオリンピックとその予選(1960~80年代開催)は、国際Aマッチの大会だと認めるべきではないと考える。
そして現在、日本サッカー協会が、独自基準を作って、昔のオリンピックの試合を「国際Aマッチ扱い」をしている事は、おかしいと指摘しているのだ。
それに加え、私は、日本サッカー協会が、現在、釜本邦茂がオリンピックで決めた得点を、「国際Aマッチ扱い」 にして集計している事は、「明らかにおかしい」として批判している。
私のブログの読者の皆様は、これから私が紹介する、1968年のメキシコ・オリンピックに参加した強豪国の選手年齢リストを見て欲しい。
どこの国も、大体、20才前後である。
皆さんは、こんな若い選手ばかりの大会を、「日本が、国際Aマッチの大会と認めている」のは、おかしいと思うだろう。

以下が、「1968年のメキシコ・オリンピックの強豪国の参加選手リスト」である。


【 「1968年、メキシコ・オリンピック」 の強豪国の参加選手リスト。 】

備考:画像をクリックすると、拡大されます。


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以上である。

 皆さんは、日本のマスコミにだまされず、この資料を見て「客観的な視点」を持って頂きたい。
 


  それでは、皆さん、さようなら。


   

【 日本ウィキペディアのサッカー・ページの酷さ。 一人の利用者が、長年に渡り横暴を続けているが、日本のサッカー・ファンは、それを知らない。】


私は、ウィキペディアから永久追放となった人間である。
その理由は、「Athleta」というハンドル・ネームの人間の謀略により永久追放となったからだ。
ちなみに、この男は、他に「Ath02」というアカウントでも活動している。ウィキペディアでは、2つアカウントを持ったらいけないのだが、この男は屁理屈をこねて2つ目を作った。
私が、ブログでこの男の酷さを紹介し始めて以降、この男は、2つ目のアカウントを作った。
この男は、「2つ目のAth02で活動すると気が楽だ」と思ったらしく、2つ目を作ったようだ。
ちなみに、この男は、釜本邦茂のウィキペディアにおいて、
「FIFA(国際サッカー連盟)は、2014年の時点で、釜本邦茂の日本代表の得点は、80得点と認めている」という大嘘を書いている。

このAtheletaという男は、釜本邦茂のウィキペディアで、他の人間が記録を訂正すると、追い払うのである。
このAtheletaという男は、他の人間から訂正されると、自分で再び 「釜本、80点」と訂正する。
その他に、この男は、「ウィキペディアの管理者」と呼ばれる権力者と仲が良いので、「自分に向かって文句を言う人間。自分が書いた記事を訂正する人間」を、ウィキペディア管理者と協力して永久追放に追い込むのである。
この男は、訂正する人間を、「ウソを書く人間」、または「言葉が荒く、無礼な人間。ウィキペディアに参加する上で、問題のある人間」ど難癖をつけて永久追放に追い込むのである。
私は、私以外にも、このAtheletaという男の謀略により、ウィキペディアから永久追放にされた人間を知っている。
その永久追放にされた人は、イタリアのサッカー・チームのナポリの、「ナポリ日本人会」というウィキペディア・ページを作ろうとしていた。
しかし、Atheletaに邪魔をされた。
その人は、それについてAtheletaに文句を言ったら、Atheletaにより永久追放にされていた。
私は、どう考えてもこの件は、「永久追放にすべきではない」と思った。
Athletaが、「彼がウィキペディアで活動する全権利を奪う」という極めて無慈悲な事をするのは、あまりにも酷だと思った。
つまり、私は、「これぐらいで永久追放という極刑に追い込むとは、酷過ぎる」と思った。
しかし、Atheletaにより、ナポリの日本人サポーターは永久追放にされていた。
ナポリの日本人サポーターは、その後、自分のブログで、Atheletaについて文句を書いていた。
私は、彼の気持ちは、痛い程、分かる。
私は、「人の表現の自由を奪う」というのは、非常にむごい事だと思う。
それにも関わらず、このAthletaという馬鹿男は、この行為を平気で行い続けている。
それぐらいの極悪非道な人間である。
という訳でまとめますと、日本のウィキペディアのサッカー・ページは、Atheletaという男が支配している。
上述しましたが、Atheletaは、「ウィキペディアの管理者」という権力者と仲が良い。
だから、「自分が気にくわないウィキペディア利用者が居ると、『ウィキペディアの管理者』と協力して永久追放に追い込む」という事を、何回も繰り返している。
私は、この現状が酷いと思っている。
しかし、日本人の多くは、この酷い現状を知らずに、ウィキペディアに書いてあるサッカー情報を「信頼できる」と思って信じている人間だらけなのである。
私は、それが本当に酷い状況だなと思っている。
このブログを読んだ方は、それを知って頂きたい。


 それでは、皆さん、さようなら。

【 サッカー評論家、戸塚啓が流すウソ。釜本邦茂を、「アジア人、オリンピック、最初の得点王」と紹介する酷さ。
1956年のメルボルン・オリンピックで、インド人、フォワード、ネビル・ドゥスーザが、得点王になっている。 ドゥスーザが、アジア人初得点王である。】



【 特集。 アジア人初、オリンピック得点王、ネビル・ドゥスーザ。】


昨日、なぜか知らないが、雑誌「ナンバー」、雑誌「スポルティーバ」というスポーツ雑誌のインターネット・サイトで、釜本邦茂を称賛するコラムが、2つ発表されていた。
同じ日に、一気に「釜本称賛コラム」が、突如、発表されていた。
戸塚啓、後藤健生という2人のサッカー評論家によって、それぞれ発表されていた。
相変わらず、この2人は、「当時のオリンピックに参加していた選手の年齢、レベル」というモノを、日本国民に紹介していなかった。
また、「日本サッカー協会が、FIFA(国際サッカー連盟)の国際Aマッチ基準を否定していること」も紹介していなかった。
そして、JFA(日本サッカー協会)により、FIFA基準よりも22点も水増しされた釜本邦茂の得点数を紹介して、「釜本は、日本代表で得点数が1位」と紹介していた。
FIFA基準(国際サッカー連盟基準)では、三浦知良が、1位である。
しかし、この2人のサッカー評論家、戸塚啓、後藤健生は、日本サッカー協会の犬であり、日本国民に真実を伝えるよりも、釜本邦茂をただただ称賛し、誇大に見せるということを相変わらず続けている。
この2人は、おかしな事をやっている人間を批判しない。
この2人は、日本サッカー協会の記録捏造を支持し、当時のオリンピックの大会レベルを正確に日本国民に伝えず、隠してコラムを書くという酷いことを、毎回、やっている。
私は、この2人はこういう事をしていたら、この先、自分のサッカー評論家としての信頼がなくなる危険があると考えていないのだと思った。

私のブログの読者の皆様には、戸塚啓、後藤健生の酷さを知って頂きたい。


それでは、今回の本題である。
サッカー評論家、戸塚啓は、その雑誌「ナンバー」のコラムで、以下のように釜本邦茂を紹介していた。
「釜本邦茂は、1968年のメキシコ五輪でアジア人初の得点王を射止め、銅メダル獲得の立役者となった。」
である。
私は、このコラムをヤフー・ニュースの記事で読んだ。
そして、コメント欄を見た。「ヤフコメ」と俗に言われているモノである。
そこで、投稿者の1人が、
釜本は、アジア人初ではないです。1956年のメルボルン・オリンピックで、インドの選手が得点王になっている
と書いていた。
私は、驚いた。
私も、戸塚啓と同じく、釜本邦茂がアジア人で初のオリンピック得点王だと、ずっと思っていたからである。
私は、日本のマスコミが、20世紀からずっとそう伝えているのを見て来た。その為、釜本が最初だと思っていたのだ。
その後、私は、この投稿者の話が本当かどうか、すぐに調べた。
すると、1956年のメルボルン・オリンピックで、本当にインド人選手が得点王になっていた。
その選手の名前は、ネビル・ドゥスーザ(Neville D'Souza)という選手だった。
ドゥスーザは、「試合に出場して、4得点を挙げて得点王に輝いた」。
ドゥスーザは、オリンピックで、オーストラリア、ユーゴスラビア、ブルガリアと対戦した。
準々決勝、地元オーストラリアと対戦した試合で、インド代表は、4-2で勝利をした。
この試合、ドゥスーザは、ハットトリックを達成した。
準決勝、インドは、ユーゴスラビアと対戦をした。インドは、1-4で敗れた。
しかし、ドゥスーザは、1得点を挙げた。
この後、インドは、3位決定戦を、ブルガリアと戦った。
そして、0-3で敗戦をした。
ドゥスーザは、この大会で計4得点を挙げて、得点王に輝いた。
ちなみに、この大会は、得点王になった選手が、3名居た。
ドゥスーザの他に、同じく4得点を挙げた選手が、2名居た。
それは、ユーゴスラビア代表、FW、トドール・ベセリノビッチ(26才)、ブルガリア代表、FW、ディミタール・ミラノフ(28才)である。

この1956年のメルボルン・オリンピックは、11月下旬から開催された。
そして、12月初旬に終わった。

通常、昔のオリンピックは、10月、11月などに開催された場合、ヨーロッパの国は、若手で編成された代表チームで参加する。
その理由は、ヨーロッパのクラブ・チームは、この時期、プロのリーグ戦、真っ只中だからだ。
その為、東欧のチームは、オリンピックよりも、ヨーロッパのクラブ・チームの国際大会、「欧州チャンピオンズ・カップ」に参加することを重視していた。
だから、東欧の代表チームは、10月、11月開催の場合、オリンピックが開催されていても、ベスト・メンバーでは参加していなかった。
東欧のチームは、8月開催のオリンピックの場合は、ベスト・メンバーで参加していたが、10月、11月開催だと、手抜きした若手主体メンバーで参加していたのである。
私が、今回、疑問に思ったことは、得点王になったベセリノビッチ、ミラノフの年齢である。
2人共、それぞれ、26才、28才であり、オリンピックに参加する年齢としては、高齢である。
そして、2人共、当時のA代表チームで主力選手だった。率直に言えば、名選手だった。
私は、このような代表主力が、大会に参加している事に驚いた。
欧州チャンピオンズ・カップは、1955年から始まった。
そして、このメルボルン・オリンピックは、1956年に開催された。
私は、1956年の欧州チャンピオンズ・カップを調べた。
すると、1956-57シーズンの欧州チャンピオンズ・カップには、ユーゴスラビアからはツルベナ・ズベスダ(日本では、「レッド・スター」と呼ばれているチーム)が参加していた。
そして、得点王になったベセリノビッチは、ツルベナ・ズベスダの選手ではなかった。
パルチザン・ベオグラードの選手だった。 だから私は、ベセリノビッチは、オリンピックに参加したのだと思っている。
もう1人のミラノフは、CSKAソフィアというチームに所属していた。
そして、CSKAソフィアは、欧州チャンピオンズ・カップに出場していた。
ミラノフは、欧州チャンピオンズ・カップに出場して、1956-57シーズンは、得点を決めていた。
しかし、このメルボルン・オリンピックに参加していた。
私は、このシーズンの欧州チャンピオンズ・カップの日程を見た所、メルボルン・オリンピックと重なっていなかった。
だから、ミラノフは、オリンピックに参加したのだと思っている。
以上の事を考えると、この1956年のメルボルン・オリンピックは、レベルの高い大会だった。
釜本が得点王になった1968年のメキシコ・オリンピックと違い、東欧の国々が、主力選手を参加させていた。

私は、以前、釜本邦茂が得点王になったメキシコ五輪の東欧国の代表チームのメンバーを調べた。
そうしたら、ほとんど23才以下のメンバーで占められていた。
そして、代表の主力選手、20代中頃、30才ぐらいのメンバーはろくに参加していなかった。
つまり、インド人、ネビル・ドゥスーザの方が、釜本邦茂より難易度の高いオリンピックで得点王になったのである。 だから私は、ドゥスーザの方が凄いと思っている。


私は、ドゥスーザは、もしかして才能的には、釜本より凄い選手なのでは?と思っている。
ドゥスーザは、インド代表での成績は、「15試合、10得点」という成績だった。
ちなみに、ウィキペディアのポルトガル語版でのドゥスーザのページでは、
「当時のインド代表は、ワールドカップ1950年大会のアジア予選を勝ち抜いたが、本大会に参加するのを辞退した。そして、次回のワールドカップ1954には、アジア予選に参加すらしなかった」と書かれている。
当時のインド代表は、ワールドカップに参加することに消極的だったようだ。
インドは、ワールドカップに参加しなかったが、その後、1956年のメルボルン・オリンピックに参加したら、ベスト4という好成績を残したのである。
私は、上述したが、この大会は、釜本らが参加した1968年のメキシコ五輪よりも、東欧のチームのメンバーのレベルが高いので、インドがベスト4まで勝ち進んだのは凄いと思っている。
という訳で、今回のブログをまとめると、日本のマスコミは伝えないが、釜本より先にオリンピックで得点王になったアジア人が居たという事である。
それはインド人の選手で、ネビル・ドゥスーザである。

 
 それでは、皆さん、さようなら。









私は、釜本邦茂は、ヨーロッパに移籍しても通用しなかったと思っている。その理由は、得点能力が低いからである。

釜本本人は、ヨーロッパ挑戦をしていたら「通用する」と言うような口ぶり・態度であるが、私は、無理だと思う。

その理由を、私がこれから説明する。
まず、現在、「Jリーグ」で活躍をしたフォワードが、ヨーロッパ挑戦すると、「日本時代よりも得点できない」という法則がある。
これが起きる原因は、
「日本の国内リーグよりも、ヨーロッパのリーグがレベルが高いから」である。
私が調査した所、
「未だかつてヨーロッパに行ったら、日本時代より得点能力が上がった。得点成績が良くなった」という選手は、1人も居ない。
「ヨーロッパに行ったら、見違えるほど成長して得点成績が見違えるほど良くなった」
という選手は、1人も居ないのである。

それ程に、ヨーロッパで活躍することは、日本人フォワードにとって困難という事である。

そして、「優秀だ」と評価されていた日本人は、「『二桁得点』 をするのがやっと」という状態になる。
「10ゴールできたら、万々歳(ばんばんざい)」という感じになる。

日本で20得点していた選手は、ヨーロッパに行くと、大体、得点数は半減する。うまく行ったシーズンでも10点取るのがやっと
という感じになる。
例を挙げると、高原直泰、前田大然などがそうである。

私は、上記のような法則を、釜本邦茂の場合にも当てはめて考えるとする。
つまり、「釜本1人だけ、通常の日本人に起きる法則が起きない。釜本だけヨーロッパに行ったら、日本時代より得点成績がアップした」
と処するのは、おかしいし、公平ではないと考えるという事である。

釜本邦茂の日本時代の成績は以下である。

シーズン   試合数  得点


1967           14     14    

1968         9     14
1969        12     10
1970        14       16
1971        14     11
1972           14     11
1973        16      9
1974        18     21
1975        17     17
1976        18     15
1977        18     20
1978        18     15
1979        18      7
1980        18     10
1981        18     11
1982         8     1
1983         2       0
1984         0       0   


以上である。


私は、上記の釜本の得点成績を見ると、ヨーロッパに行ったら、
「10点以下しか取れないだろう」と思う。
その理由として、釜本の時代の日本の国内リーグは、
「『Jリーグ』が出来る前よりも、更にヨーロッパのリーグとレベルの違いが大きかった」
という事である。
故に、上記の得点成績は、
「当時の日本リーグは、Jリーグが出来た時代より更にレベルが低い時代だった」ということを考慮して考えるべき成績なのである。
そう考えると、釜本がこの程度の成績ならば、私は、ヨーロッパに行っても通用しないと思う。
釜本が、「14試合出場して、30得点」とか、「18試合出場して、40得点」とか、そういうレベルの成績を残していたら、考えるべき余地はある。
しかし、釜本の成績が、上記のように「14試合出場して、14得点」とか、「18試合出場して、15得点」とか、その程度のレベルの成績ならば、ヨーロッパに行ったら、1シーズン、リーグ戦で34~38試合出場したとして、うまく行って10得点ぐらいだろう。
釜本が、ヨーロッパのリーグ戦に参加して20得点以上を取るというのは、この日本時代の成績を見たら、不可能の数字である。
故に、釜本は、ヨーロッパ挑戦していても、得点王争いには加われない。
そのレベルの選手では、全くない。
上述したように、「釜本だけヨーロッパに行ったら見違えるように成長した」という公平でない考えを適用するならば、それは可能である。
しかし、これまでの日本人選手の多くの例から考えると、釜本の得点能力では、そこから予想される得点成績は、ヨーロッパに行っても、「10点取れれば、万歳」というレベルだと思う。



現在、Jリーグには、外国の1部リーグで活躍している選手が、助っ人として来る。
しかし、釜本の時代の日本リーグの外国人助っ人は、主に「ブラジル2部リーグで通用しない選手たち」だった。
具体的に言うと、セルジオ越後カルバリオなどである。
ブラジル1部で全く通用せず、ブラジル2部に居てそれでも出場機会がないので日本に来たという選手たちである。
セルジオ越後は、現在のところ、ブラジル時代、「プロ・リーグで得点した記録が残っていない」。
ブラジル・メディアでも、セルジオ越後が得点した記録を見つけられないのだ。
そして、セルジオ越後は、日本で6得点しか点を取れなかった。
セルジオ越後は、日本時代、「40試合、6得点」という成績だった。
釜本邦茂の時代、このように助っ人のレベルが、現代と違い、とても低かった。
それでもカルバリオは、当時、日本リーグの「シーズン、最多得点記録」を作った。
カルバリオは、釜本の持っていたシーズン最多得点記録、21得点(18試合出場。1974年の記録)を破ってしまった。
カルバリオは、1シーズンで23得点(18試合出場。1977年の記録)を挙げた。
そういう訳で、私は、このような事実からも、釜本がヨーロッパ挑戦しても、成功したとしても 「10点取れれば良い方だ」というレベルであると考える。
そして、私は、多分、成功しないだろうと思う。
レベルの低い時代の日本リーグで、釜本の得点成績がこの程度の得点数ならば、ヨーロッパに行ったら、その得点数は、もっと減少することが予想されるからだ。
また、ラモス瑠偉は、ブラジル時代、センターバックだった。
ラモスは、元々、ディフェンダーだったのだ。
これを知らない日本人サッカー・ファンが、非常に多い。
ラモスは、ブラジル、サンパウロ州1部の中堅クラブで、センターバックを務めていた。
ラモスは、元々、攻撃のポジションをやりたかったが、ブラジルは上手い奴が多過ぎる。だから、ディフェンダーをやっていたのだ。
しかし、日本に来ると、日本人が下手なので、攻撃のポジションでプレーできるのだ。
そして、ラモスは、日本で得点王になった。
という訳で、昔の日本リーグはレベルが低いので、「ブラジル・リーグのディフェンダーが得点王になれるリーグ」だったのだ。
故に、釜本は、ブラジルに生まれて居たら、ラモスと同じでディフェンダーだったかも知れない。
センターバックをやっていたかも知れない。


私が「釜本邦茂の得点能力が低い」と主張する他の根拠は、ドイツ人、フランク・オルデネビッツの証言である。
彼は、1994年に「Jリーグで初のヨーロッパ人で得点王になった選手」である。
彼は、Jリーグについて以下のように述べていた。
「Jリーグは、ドイツ・ブンデスリーガに比べると、ゴールキーパーのレベルが低かった」
である。
釜本邦茂の時代の日本リーグは、ゴールキーパーは全員、日本人だった。
そして、オルデネビッツが参加していた1990年代のJリーグのゴールキーパーのレベルよりも、釜本の時代の日本人ゴールキーパーのレベルは、もっと低かっただろう。
それにも関わらず、釜本の得点数が上記のレベルなのは、「得点数が少ない」と批評されても仕方ないだろう。


という訳で、日本人 サッカー・ファンは、日本のマスコミ、日本の評論家、釜本の言動により、ずっと「釜本偉大論」とか、「釜本のヨーロッパ挑戦、妄想論」を聞かされている。
その結果、釜本の能力を過大評価している。
しかし、私のように地に足をつけ、じっくり釜本の得点成績を見れば、釜本は得点能力が不足している。「そもそも得点数が足りていない」という事が分かるのだ。


私のブログの読者は、それでもまだ釜本の能力を信じている人が居るかもしれない。
私は、そういう読者には、繰り返しになるが、
「きちんと、得点成績を見て下さい。釜本だけヨーロッパに行ったら、得点能力が大幅に上がるという事はないです。妄想を捨てて下さい」
と言うより他ない。




 それでは、皆さん、さようなら。




釜本邦茂、杉山隆一らが銅メダルを取ったメキシコ・オリンピックは、「大会レベル」が非常に低い。
私は、これについてブログで盛んに書いて来た。
私は、過去にアメーバ・ブログもやっていたのだが、そちらで何回も書いたのである。
(注: 現在は、私のアメーバ・ブログは消滅している)。
その甲斐もあってか、昔よりかは日本人サッカー・ファンは、「昔のオリンピックは、レベルが低かったんだ」ということを理解し始めるようになった。
そして、昔のオリンピックの参加選手の内容というのも理解し始めるようになった。
日本人は、私の「説明活動」が実を結んだようで、以下のことを理解し始めた。
1960年代のオリンピックは、
「プロが参加できない」、「出場選手は、下部組織に在籍していた若い選手」、
「出場選手は、プロ契約できないので下部組織にまだ居た。そのようなレベルの低い若い選手」、
「下部組織に居る選手だったので、後にプロになれなかった選手も居た」、
「日本が対戦したフランス、スペインは、下部組織の若手選手と3部リーグのアマチュア選手を組み合わせた代表チームだった。A代表のレベルでは全くなかった」、
「東欧は、若手主体で臨み、23才以下の選手ばかり」、
「1960年代のオリンピックの得点王は、10代の選手ばかり。若い選手ばかり参加していたので、1960年、1964年大会の2つ大会は、得点王が10代だった。18才だった。」
などの知識を身に着けるようになった。

しかし、私がとても疑問なのは、どうして日本のサッカー評論家、アナウンサーらは、誰一人として私のような説明を、日本のサッカー・ファンに全くしないのだろうか?
という事である。
後藤健生、大住良之、西部謙司、湯浅健二、金子達仁、セルジオ越後、小澤一郎、倉敷保雄、八塚宏、下田恒幸などなど、色々、居るが、
どうして誰一人、昔のオリンピックのその出場選手の内容について詳細に説明をしないのだろうか?

むしろ、現在では、サッカー・ファンの方が、ネット掲示板では、
「昔のオリンピックは、レベルが低かったから」と言い出して、ファン同士でその大会レベルの低さを説明し始めているという状態である。

私は、これが非常に奇怪(きっかい)に思う。
私は、こういう事は、サッカー評論家、アナウンサーなどが、放送・雑誌を通じて、きちんと無知なサッカー・ファンに説明しておかないと駄目なことではないか? と思うのだ。

日本では、その説明が行われていないので、釜本邦茂、杉山隆一らが参加した大会レベルが分からず、過大評価が生まれてる。
また、説明が行われていないので反発が起きず、日本サッカー協会が、得点記録に関してFIFA基準を否定し、勝手にJFA基準というモノを作る事ができた。
そして、オリンピック関連の試合の得点を国際Aマッチとして扱い、得点数水増しをして、公式記録とした。
その結果、釜本の得点数は22点も増えた。
しかし、その経緯が、国民に伝えられていない。
私は、日本人サッカー・ファンのほとんどは、昔のオリンピックはレベルが低い事を知らないので、日本サッカー協会がこのような酷い事をやっていても、誰も怒らないのだと思う。
これに関して、日本で怒っているのは、私だけだろう。


まとめると、私は、日本のサッカー評論家、マスコミで仕事をする人間が、
オリンピックの本当の大会レベル。参加者の顔触れ・年齢」という件について、誰も国民に紹介しようとせず、50年以上、それを続けた。
その結果、酷いことが起きていると思っている。
それ故、私は、現在では一部のサッカー・ファン同士のみで、「あの時代のオリンピックはレベルが低い」と説明し合うという状態が起きているのだと思っている。

私は、この状況を見て、本当に日本という国は、不思議で奇怪な国だと思うのだ。
このような事は、普通の国では起きない現象だろう。


  それでは、皆さん、さようなら。

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【FIFA基準があるにも関わらず、
わざわざ独自の新基準に変更するなら、
そこに裏がある。】

よく考えれば、「実体がない記録」が報じられているが、それを信じ、10年以上誰もツッコミを入れないバカな国がある。「日本」だ。恐ろしい程、思考力がない。

JFAの記録捏造 + 極悪ウィキペディア執筆者の工作
+ 「FIFA基準」の記録を、 協会を恐れて伝えないバカ・マスコミ = だまされ続ける日本国民。



 日本代表のフォワード、釜本邦茂の得点記録は、「日本独自でインチキ基準を作り、22点も水増した」。その後、公式記録としている。
しかし、日本人は馬鹿なので、国民はほぼ全員だまされている。

FIFA(国際サッカー連盟)基準」というモノがあり、世界210ヶ国中、約205ヶ国ぐらいは、それに基づき、公式記録を発表している。
FIFAは、1999年に、
1960年代以降のオリンピックは、国際Aマッチと認めない」という声明を出した。
この理由は、1960年代以降のオリンピックは、ほとんどの国が、20才前後の若い選手ばかりが出場しているからです。
この声明がFIFAの基準とされている。
しかし、日本はそれを否定して、勝手に自分達で基準を作り、1988年以前の選手の得点記録を水増ししたのである。
釜本は、基準変更を決定した「小倉純二、名誉会長」ら、日本サッカー協会幹部と懇意である。
また、釜本自身が日本サッカー協会の顧問を務めている。
それ故、「釜本達は、自分達の為に新基準を作ったのでは?」と疑われても仕方のない(実際、そうだろうけど)おかしな決定である。
得点数が多くならないならば、日本独自基準なんて最初から作らない。
普通、「基準を変える」などと言い出す場合、得点数が減る方向の基準なら、わざわざ作ろうとはしない。
だから、これは最初から茶番です。それを日本人は丸っきり分かっていない。
日本人は裏がある事に気づかず、裏の意図を読めてません。

基準を変えた協会幹部は、
「自分の得点を増加する方向に変えたい」

ので、独自基準を作った。
汚い奴らは 、その意図を隠して実行したのです。
日本人は、「思考力」と「常識」が不足しており、目の前で展開されている事のおかしさに全く気づいてません
国際大会に参加して、「記録の基準が、FIFA基準とJFA基準で2つあるのはおかしい」と一切考えないのです。
汚い奴らは、その後、情報統制してます。
マスコミでFIFA基準の得点を日本人に教える事を禁止しています。
マスコミは、日本サッカー協会(JFA)に従っている状態だ。

皆さん、テレビ・雑誌で、「FIFA基準の得点ランキング」を報じている会社を見た事ありますか?
ないですよね?
1社もないんです。こんな馬鹿な国ありますか?
社会主義国みたいですよね?
それぐらい、日本のマスコミ、ジャーナリストは協会の顔色を窺い、もしくは、頭が悪過ぎて、判断力、思考力が全くなく、「FIFA基準の記録を国民に伝える必要はない」と考えている。
とんでもなく頭が悪い人間の集合体なんです。それが日本人です。

「FIFA基準の記録をマスコミが報じない」、そんな馬鹿な国があるだろうか?
「FIFA基準の記録を、協会が国民に紹介する事を避け、秘密(タブー)にしている」。
「FIFA基準の得点ランキング」をマスコミ・記者が伝えない事に、誰一人として怒らないサッカー・ファンが居る国があるだろうか?
それがあるのである。日本である。日本人とは、それ程に頭がおかしい。



国際Aマッチ、JFA基準」という言葉を聞いて
なぜJFA(日本サッカー協会)が、一カ国の独断で国際試合のAマッチ基準を決めているんだ?、そんな権限ないだろ? それなら日本人の都合の良い基準になるだろ。
得点数や試合出場が減る方向には、絶対にしないよな。
何か裏があるな。FIFA基準があるが、なぜ否定するんだ? これおかしいだろ?

と疑問を一切抱かず、
「サッカーファンだが、記録については、一切、深く考えた事がない」
というアホな人間が山ほど居る国が日本です。

日本人というのは、「お上の言う事には、従う」、「お上は信頼できる」と最初から思う気質がある。そのせいか、サッカー界で、日本協会が「JFA基準」というモノを作り出しても、「きちんとした基準だろう。FIFA基準に比肩するモノだろう。日本には日本の理由があって、彼らはこういう基準を作ったんだろう。だから、この基準は信頼できるだろう」
と盲目的に思っているらしい。
しかし、実際は、調べてみると、この基準ほど、インチキ過ぎて非常識でデタラメな基準はない。




【 極悪執筆者 Athleta、別アカウント、Ath02。 】
(埼玉県在住)


マスコミの他に、インターネット界でも、釜本と三浦知良のウィキペディアでは、酷い嘘が書かれている。
日本国民は、インターネットでも、そのウソを読み、信じてしまっている。だまされている事に全く気づいていない。
ウィキぺディアを信用する日本人の「アホ気質」は、本当に問題だ。
ウィキペディアの執筆者にとは、とんでもない悪人がいる。
皆さん、ウィキペディアを利用してだます活動をしている人間が居る事を知れ。
「ウィキペディア」は誰でも書ける。資格は無い。
そして、ウィキペディアのサッカー記事は、少数の人間が大量に書いている。
信頼性は乏しい。何の資格も権威もないバカが、記事を書き、その記事は、専門家に審査を受ける事はない。
だからバカ達が、そこでは自分の好みに合うように事実を歪めるなんてた易い事だ。
なぜなら資格も審査もなく、少数の同じバカ同士で固まり、日本語版ウィキペディアを占拠できるからだ。

日本人は、「参加者は、良心に従って行動しているだろう。異常な奴が居ても、それは他の参加者により訂正されるはずだ。だから、ウィキペディアに書かれている事は、常識的なモノに収まり信頼性があるはずだ」
と思うかも知れない。そのように考え、ウィキペディアを信頼しているかも知れない。
私もそうだった。
しかし、実際、執筆に参加すると、イメージとは全く反対で、本当に筆舌にし難い程の醜悪さで低次元である。そんな良心など見渡してもなく、悪人が1人でも幅を利かせられる世界なのである。
たとえ1人でも、そいつが「管理者」と呼ばれるウィキペディアの幹部と仲が良ければ、自分に反対する意見を書こうとする人間を、管理者を味方につけ排除できる。
これが、ウィキペディアの実態である。
参加者の性善説により「記事の質の向上」、「議論による改善」などは、全く機能も存在もしない。
逆に、ウィキペディアは、卑怯な人間が気に食わないと思えば、相手をいとも簡単に潰して占拠を続けられるという「悪の支配」が蔓延して、どこまでも可能な世界なのである。

そして、その男が汚くてバカだと、「ウソ」が日本国民に伝播される。
Athleta(埼玉県在住)という名前のウィキペディア執筆者 は、最悪だ。
この男は、嘘を書きまくり、日本人をだます工作を実行している。
この男は、2014年にFIFAが小さなニュース記事で「釜本 80得点」と一度だけ報じたのを根拠に、「FIFAが公式に80点と認めた」として、4年前から日本人にウソを徹底的に宣伝しているという悪人である。
釜本のウィキペディアで、「FIFAは80点と認めている」と書いたのは、この男である。
「統計機関RSSSFは、釜本75点(JFA基準)を公式に追認した」と書いたのもこの男である。
統計機関は、
「FIFA基準が各国に通達されたにも関わらず、日本は無視している」
と説明しているのである。全く認めておらず、不満を表明している。
しかし、この男は、その説明をウィキペディアには絶対に書かない。
「75得点を、完全に正当性のある記録」と、日本国民に印象づける為に、「統計機関は、公式に認めた」と全く反対の事、大嘘を書いているのである。
そして、他の人間が「真実」である統計機関の見解なぞ、書こうものならば、こいつが毎回、全削除する訳である。
それは、こいつ自身が、75点の記録を支持しているからだ。
この男は、私と議論した時、ウィキペディアの議論ページで完全に論破された事に怒った。
そして、その結果を強引にねじ伏せ、隠す為に、大嘘をウィキペディアに書いているのである。
こういうバカが意地を張る事で、大嘘が日本国民に宣伝されるという悪夢の結果が起きているのだ。本当に社会というのは、奇妙な事が起き、まかり通る。
「バカは、本当に社会に迷惑をかける」という好例である。


現在、これを訂正しようとする人間が現れると、こいつが登場して来て、「1人で毎回、追い払う」という状態が、4年以上続いている。
この男(Athleta)に占拠され、その結果、日本国民はだまされ続けているのである。



現在、この男は、この件で私に批判されたので、Atho2という新アカウントを作った。そちらで本格的に活動している。
何もやましい事がないならばAthleta名義で活動すればいいが、陰に隠れる為に新アカウントを別の理由を挙げて屁理屈をこねて作った。そして、逃げている。
こういう汚い事を平気でやる人間だ。Athleta と Ath02 は、同一人物である。
これがAth02のアカウントである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E2%80%90%E4%BC%9A%E8%A9%B1:Ath02

これがAthleta名義のアカウントだ。表向き「優良執筆者」と思われているがそれは誤りだ。
この男は、ウィキペディアの活動歴が長く、ルールを熟知している。だから、その知識を悪用して、裏で汚い事ばかりする極悪人である(新アカウントを作り逃げたのは悪用の実例)。
また活動歴が長い為、「管理者」と仲間となっている。
この男は、違う意見の人間が現れると、管理者を味方につけ、相手を潰す(永久追放にする)という事を繰り返している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E2%80%90%E4%BC%9A%E8%A9%B1:Athleta

 

FIFAは、1999年以降、国際Aマッチに関して、公式声明を出していない。
故に、釜本の得点記録が75点 又は 80点などと公式に認めた声明など出していません。
しかし、このウィキペディア執筆者のAthletaという男は、
「FIFAは、2014年の時点で釜本の得点を公式に80点(27点増加)と認めた」と勝手に決めてウィキペディアで説明しているのだ。
この男の主張する理由は、
「FIFA公式サイトで、FIFAの一記者が書いた、『1つの小さな記事』の中で、たった1回、『釜本、80得点』と記述されていた」からだそうだ。
このバカは、1999年以降、何の新しい公式見解が発表されておらず、FIFAの会長が、「基準変更」を発表した訳でもない状況だが、たった一記者が「釜本80点」と書いたというだけで、
「FIFAは、2014年の時点で、公式に80点と認めている」
と決めているのである。
普通の人間は、「これを公式として日本人に説明するのは、問題があるだろ」と思う。
しかし、この『常識のないバカ』には、それが通用しないのである。
そして、釜本のウィキペディアの冒頭に「FIFAは、公式に80点と認めている」と書き、大々的に説明しているのだ。
また、この男は、三浦知良のウィキペディアでも、「JFA基準は正当性があると読者が思う」ように日本人をだます説明を書いている。
世界のサッカー・ファンからJFA基準が認められている印象の説明をして、「釜本の得点数の水増し」に批判が来ないよう工作している。つまり、日本人をだましているのである。
この男については後述する。


【 日本のやった事で、読者が聞いて、奇妙に感じる事例を4つ紹介。 】


まず第一は、本来FIFA基準で日本代表得点1位の三浦知良 が、日本協会がJFA基準を作った為に、2位にされた事だ。

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【写真解説】 1990年代、日本のエース・ストライカー、三浦知良。
 

FIFA基準だと、三浦は55点、釜本は53点である。だから、三浦は正当に1位だ。

しかし、2007年に、日本サッカー協会がFIFA基準を否定した。そして、新基準(JFA基準)を作った。その新基準を、「公式記録とすると決定した」。
その結果、釜本が22点増加されて75点になり、単独1位になった。 
    
つまり、インチキ基準を公式記録とすると決めたので、日本は国際基準で1位選手、三浦知良を2位とする事を決定したのである。
注:Athleta(Ath02)により三浦のウィキペディアでは、「統計機関が、これ(三浦2位)を全面的に認めている」という大嘘が書かれている。
それに日本人はだまされてます。

 
普通の国ならば、「これは酷い」と批判する。
しかし、日本人はバカなので何もおかしいと思わないし、怒らないのだ。

三浦知良の方が、釜本が対戦した国よりレベルの高い国と数多く試合した。
しかし、わざわざ新基準を作って  当時の国際Aマッチでない試合(台湾、フィリピン、マレーシアなど弱い国との五輪予選の全ての試合)を国際 Aマッチ扱いにして、そこでの釜本のたくさんの得点(22点)を追加して、1位にしたのだ。
私は三浦ファンではないが、三浦ファンからしたら理不尽な決定であろう。
私は、なぜ三浦知良がこの決定に対して怒らないのか、とても不思議である。
そして、三浦ファンは、Athelta(Ath02)を処罰(永久追放)すべきだ。



2つ目は、釜本の得点数は、同時代の最高選手、ペレと同じくらいまで増えているのだ。
ペレが77得点だ。なんと日本は22点増やして釜本を75点にした。ペレと2点しか変わらない所まで得点を増加させたのだ。
日本人は、その得点ランキングを「テレビ試合中継」、「サッカー・ニュース」で見て、「釜本は本当に凄い」と感心しているのだ。本当にアホである。

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【写真解説】 サッカー史上最高の選手、ペレ。
1970年、W杯3回目の優勝した直後の一コマ。
 日本は、釜本の得点を偽造集計して、同時代のペレと2点しか変わらない所まで増やした。

ペレは、プロだからオリンピックに参加できなかった。
当時のオリンピックは「アマチュアのみの参加資格」で、ペレには参加資格がなかった。
だから、ペレはオリンピックで得点しようにも、そもそもできない。
故に、日本が「オリンピックの試合を国際Aマッチにして集計する事」は、とても的外れでバカである。
日本は、釜本と同時代の最大のスターが「参加資格のない大会」(オリンピック)で、釜本が得点したモノを勝手に国際Aマッチ集計しているのだ。
そして、ペレと釜本を同じくらいの得点数にして、平気な顔をしているのだ。
日本人の驚くべき無神経さと馬鹿さである。
現在で例えるならば、
「リオネル・メッシが参加できなくて、世界の98%以上の国が国際Aマッチの大会と認めていない20才前後の若い選手ばかり参加しているレベルの低い国際大会があった」とする。
そこで、その大会で日本人選手が得点したモノを、勝手に国際Aマッチ扱いにして得点を増やす。そして、メッシと変わらないレベルの得点数にまで増やして、平気な顔をしているのと同じである。
それを見て、
「この選手は、リオネル・メッシと得点数がほとんど変わらない。この日本人選手はかなり点取っているからすごい選手なんだ」
と思っているのと同じである。


3つ目は、1964年東京五輪で、ハンガリー代表ベネ・フェレンツ(アマチュア選手、19才)は、12点も取り得点王で優勝した。ベネは、欧州予選を含め通算18点取った。
しかし、1点も国際Aマッチとして集計していない。
一方、日本は、1968年メキシコ五輪に参加した釜本(24才)の7得点のうち3得点を国際Aマッチの得点としている。そして、五輪予選の全得点(19点)と合わせ、計22点を勝手に国際Aマッチとして集計している。

(注: 前回大会の1960年ローマ五輪で、デンマーク代表の名FWハラルド・ニールセン [18才] は6点取り得点王になった。
しかし、彼も国際Aマッチ得点に集計してません)。

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【写真解説】ハンガリー代表のベネ・フェレンツ(21才の時)。W杯1966での写真。
ベネは、アマチュア選手だったが世界の超一流選手だった。「W杯1966では、4試合を戦い、4戦連続ゴール」の大活躍をした。そして、この年の世界ベスト・イレブンに選ばれた。
ベネは、2年前の19才の時、既に「ユーロ1964年大会」で、得点王になっていた。
彼は、19才で、既にチームのエースだった。ハンガリーを大会3位に導いた。
ちなみに、「ユーロ得点王、19才」の年齢は、54年経つが(2018年現在)、未だに大会最年少記録です。
また、彼は、「オリンピックの1大会における最多得点記録(12得点)」も持っています。

同時代の釜本より遙かに上手かったアマチュア選手が、オリンピックの試合の得点を1点も国際Aマッチ集計してない」。
しかし、日本は、釜本の得点を、国際Aマッチの公式得点として集計している。
 

世界では、1954年以降のオリンピックは、
10代後半から20代前半のまだ下部組織に居る選手」が大会出場していた。だから、FIFAは、国際Aマッチに認定していない。
しかし、日本は、勝手に「オリンピックの本大会のアフリカの国との試合と、アジア予選の全試合」を国際Aマッチにして集計している。
ベネの国際Aマッチ得点数は36得点です。
(注: ベネの得点が、釜本の53点より少ないのは、対戦相手がレベルが高いからです。釜本より下手なわけではありません)。
ベネ(19才)は、オリンピックに1度だけ参加した。
この東京五輪本大会で 5試合で12得点しました。
そして、オリンピック欧州予選では6得点しました。
オリンピック関連では、合計18得点(内訳は欧州予選で6得点、本大会で12得点)した。 
しかし、これは国際Aマッチではないので、36得点に1点も追加集計していません。
36点プラス18得点=54得点などしていない訳である。
一方、釜本はオリンピックの本大会に2回参加(東京、メキシコ)、アジア予選に3回参加(東京、メキシコ、モントリオール)した。
その得点の合計が、22点である。
2人共、オリンピック関連で約20点ぐらい合計で決めて同じ状況である。
しかし、日本は、勝手にそれを国際Aマッチ集計して、釜本の得点を「53点 プラス 22得点=75得点」とした。22点も増加させています。
2人共、同じ時代のアマチュア選手である。しかし、日本は、FIFA基準を無視して、勝手にこんな事をしているのだ。

恐らく、日本協会幹部は、
「釜本が、ベネ、ニールセンより遙かにうまい選手に見えて嬉しい」ぐらいにしか思っていないでしょう。
彼らは、同じ大会に参加した外国のアマチュア選手(同じ五輪得点王で、釜本より遥かに格上の超一流選手)の得点集計なんてどうでもいいという考えです。
彼らは、ただ自分の得点を増やしたいので、こういう事を勝手にやっている訳です。
自分達を優秀に見せる事しか考えていないんです。
  
 

4つ目は、 韓国代表、チャ・ボングンと、日本代表、釜本邦茂は、「五輪予選の同じ試合で得点」した。
しかし、釜本だけA代表の公式得点として集計している。
また、「韓国がベストメンバーを組めなかった1980年代の試合」を、勝手に日本は国際Aマッチ集計していることだ。
これが、日本代表記録の異常さである。
同じアジアのライバル国との試合で、FIFAが認めていない試合を、勝手に国際Aマッチとして集計しているのだ。

繰り返すが、これが日本代表記録の異常さである。

注: 2014年に韓国も日本と同じく、FIFA基準を否定しました。
「日本と同じくオリンピックの試合を国際Aマッチとする事に決めました」。
私の推測ですが、韓国は日本が否定しているので真似したのかも知れません。

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【写真解説】  1980年頃、フランクフルトで活躍していたチャ・ボングン。
チャ・ボングンは、欧州最高のリーグだったブンデス・リーガで、外国人の最多得点記録(98得点)を作った。
この記録は、1998年まで9年も破られなかった。
そして、彼は、UEFAカップに2度も優勝した。
チャ・ボングンは、アジア史上最高の選手だ。

日本は、独自の新基準を作り、釜本の日本代表の得点を22点増やした。そして、世界の一流選手だったチャ・ボングンの韓国代表得点、58得点より多くした。日本は、「釜本の方が遥かに優秀である」という印象操作を行っている。

1976年3月27日。
モントリオール・オリンピックのアジア予選で、日本と韓国は対戦しました。

韓国で開催され、結果は2-2で終わりました。
チャ・ボングン(23才)が1得点、釜本(32才)が2得点した。
ちなみに、日本は1週間前の3月21日、既にホームで日韓戦を行い、0-2で敗戦していました。
韓国はこの1976年、3月27日の試合は、オリンピック予選なので、国際Aマッチとして扱っていません。
そして、チャ・ボングンの得点を、国際Aマッチの公式得点に集計していません。

一方、日本は、この試合での釜本の2得点を、国際Aマッチ得点として集計しています。
余談ですが、このモントリオール・オリンピック予選は、日本、韓国、イスラエルの3ヶ国で争われ、1チームが本大会出場という大会規定でした。
イスラエルが3勝1分0敗で、勝ち点7で本大会出場を決めました。
韓国は、1勝2分1敗で、勝ち点4で2位でした。
日本は、0勝1分3敗で、1勝もできず、勝ち点1の最下位でした。
 
韓国は、FIFA基準の記録集計です。
故に、五輪予選の試合を国際Aマッチ集計していません。
これは当たり前の事です。しかし、日本人は勝手にこの試合を、国際Aマッチとして集計しています。
FIFA基準だとチャ・ボングンが58得点で、釜本が53得点です。つまり、チャ・ボングンが上です。
しかし、日本はJFA基準を勝手に作り、釜本の得点を22点も増加させて75点にして、日本国内のニュースで、「釜本の方がチャ・ボングンより遙かに上」として毎回、紹介している。
注:FIFA基準でチャ・ボングンが58得点で、釜本が53点で「差は5点」で少ないですが、「チャ・ボングンの58得点は25才までの成績」です。
彼は25才で欧州移籍した為、韓国代表の活動を33才まで中止しました。
33才で3試合だけ出場して、代表引退しました。
チャ・ボングンは既に25才の時点で、34才まで代表チームで活動した釜本の得点記録を追い抜いていました。それぐらい2人は実力が違います。

チャ・ボングンは、1979年にドイツへ行き、プロ選手になった。その為、オリンピック予選に参加できなくなりました。
1980年代、彼もペレと同じ状況になり、ルール上、オリンピックで得点するのは不可能でした。
その為、1980年代の韓国は、オリンピック予選でベストメンバーを組めませんでした(チャ・ボングンが居ない)。
それにも関わらず、日本は、オリンピック予選の日韓戦を国際Aマッチとして集計しています。
「同じ試合で得点しても、釜本だけ国際Aマッチ集計している。
そして、その後、1980年代、韓国がベストメンバーを組めない状態になったが、日本は勝手に、日韓戦を国際Aマッチにしている」。

しかし、そこに何のツッコミも入れず納得しているという日本人。本当に理解不能である。
 
以上、4つのおかしな点から分かるように、JFAが「釜本、75得点」と発表して、マスコミがそれを国民にデータとして紹介し続けているモノは、記録の根拠が、いい加減である。だから、「実体がない」という感じだ。
しかし、日本人はアホなので、この得点数を「正当性がある」と信じている。何も考えず、何も疑わず、「釜本は公式に1位である」と信じている。それ故、日本協会とマスコミ、そして、1人のウィキペディア執筆者にだまされ続けているのである。


【 釜本80得点のミステリー。 】

FIFA基準では、釜本の記録は53点、
日本サッカー協会(JFA)は、JFA基準では75点としている。
この「釜本80点」というのは、意味不明の数字である。
JFAは、汚い水増しを行い53点から22点も増加させ75点にしました。しかし、この「釜本80点」という記録は、更に5点も増加させているという、とんでもない数字です。
しかし、現在、「釜本80得点」と世界のメディアが報じるケースが2、3起きてます。

【1】 [ Japan Footballによるウィキペディア全言語版荒らし。]
このデマ発生原因で唯一推測できる可能性は、以前、釜本ファンの「ネット荒らし」である、「Japan Football」という名前のウィキペディア執筆者が居た。
この男が、
「ウィキペディアの釜本ページの全ての言語版で『釜本、80得点』と記録を書き変え、捏造を行った」、
その結果、生まれた数字という事だ。

JFAは、
釜本がオリンピックで決めた得点で、国際Aマッチ得点と認めてる得点と、認めていない得点がある」。
釜本のオリンピックでの全得点を国際Aマッチと認めると、日本代表得点は合計80点となります(オリンピックアジア予選も含めた得点)。      
それ故、この男は、
「釜本のオリンピック関連の得点は、全て国際Aマッチと認めろ」という考えで、ウィキペディア外国語版の全ての言語版を荒らしました。

これに関して、イタリアとドイツ等、サッカー熱が他よりかなり高い国の外国版では、元の55得点に戻された
(注: ドイツ人とイタリア人は55点に戻しましたが、これも間違いです。釜本の得点は、FIFA基準だと53得点です。彼らは計算間違いしており、釜本の得点はFIFA基準で55点だと思っています)。
ドイツ人は、激怒し、この執筆者Japan Footballを「永久執筆禁止」の措置にした。
これは、一番、厳しい罰です
これにより、この男は、永久追放されたので、ウィキペディアで執筆する事が不可能になりました。日本語版でも永遠に書けません。
そして、イタリア人は3回荒らされて、3回元に戻した。
しかし、その他の言語の版は、現在でも80点のままになっています。

釜本の80得点は全く成り立たない。
なぜなら、メキシコ五輪で「日本代表とフランス五輪代表の試合」(釜本が2得点した)が、得点記録に含まれる事になるからです。
しかし、皆さん、このフランス代表は、ほとんどが20才前後の選手で構成されているアマチュア・チームでした。オリンピックだから当然ですね。
フランスはプロが不参加でした。全くベスト・メンバーではありませんでした。
こんな試合を、フランスは 国際Aマッチだと認めません。
日本サッカー協会ですら「さすがにこの試合まで国際Aマッチにする事はできない」と思い、JFA基準でも除外しています
日本サッカー協会はアフリカ、中東、東南アジア、韓国など国として世界における立場が弱い国とのオリンピック関連の試合は、おかしくても勝手に国際Aマッチ扱いにしています。しかし、強豪国の場合は、遠慮して国際Aマッチ扱いにしないスタンスなんです。それぐらい本当に情けなくて汚い連中なんです。
FIFAは、「釜本80点」など認める訳はありません。
もう一人の悪徳執筆者Athleta(Ath02)
は、バカなので、「80点が公式だ」とウソまで使い、徹底的に4年以上も日本人に宣伝しています。
しかし、Athletaは、「その80点の内容については一切考えた事がない」という、それほどの頭の悪さなのです。
 
【2】 Athleta、別名Ath02により継続されているデマ活動。
Japan footballは「永久追放」になったので、良かったです。しかし、まだこのAthleta(Ath02)という男が活動中の為、世界と日本にデマが流れ続けています。
一刻も早く、この男を永久追放すべきです。

私は、「FIFAが釜本紹介記事で、80点と一度だけ書いた」という件は、よく調べもせずウィキペディアを見てFIFAのニュース記事を制作するレベルの低い記者が、「80点」と書いてある言語の版(英語版では80点のままである。 これも有害執筆者Japan Footballが書き変えたモノだ)を見て、事情も知らず、記事を作った可能性が一番高いと思っている。
ちなみに、2018年にはポルトガルの新聞までだまされて、「C.ロナウドが代表得点で日本人、釜本の80点を抜いた」と報じた。
恐らく、ポルトガルの新聞もよく調べていない。
ウィキペディアのポルトガル語版も書き変えられた80点のままです。
また本当に困った事に、日本のマスコミでも「フットボール・ゾーン」、「ゲキサカ」、「フットボール・チャンネル」の編集長がドアホな為、この海外記事をそのまま報じ、「釜本80点」と日本国民にニュースで伝えた。
これはAthleta(Ath02)が原因である。
この男が、日本語版ウィキペディアに、「公式である」と徹底的にウソを書いて固めているので、日本のアホ編集長達は「80得点」を「おかしい」と一切、疑わなかったのである。
このAthleta(Ath02)という男は、「FIFA基準で53点」だと既に知ってるが、「これはいいモノを見つけた」として、
単なるたった一ニュース記事(一度だけ報じられた)の間違い記述を取り出して、「FIFAの公式認定」と宣伝しているのです。
そして、この執筆者Athletaの更に最悪な所は、ウィキペディアには議論ページというモノがあるのですが、その議論ページを「過去ログ形式」というモノにして、他の利用者が見られないように隠して消した事だ。
注意を払えば存在しているの分かるが、払わないと「過去ログ」表記を見落とし議論ページに辿り着けない。
普通のウィキペディアの議論ページは、誰もが簡単に見られる設定にしてある。しかし、この男は議論ページ上で、「FIFA基準を認めない」と主張をして、私に論破された。それ故、その模様を他の日本人サッカー・ファンに見られない状態にする為に、議論ページを隠した。
これを見られると現在、自分が悪事を働き日本人をだましているのがバレてしまうからだ。
この議論の中で執筆者Athletaはこのように論破された。
「ドイツ人とイタリア人が怒って75点や80点という日本人によって書き換えられた釜本の得点数をFIFA基準の55点に戻している。
だから、FIFAが釜本75点、80得点等を公式に認めたとするのはおかしい」

(注:本当はFIFA基準では53点です。しかしこの議論では55点で間違って議論されています)。
このように、
「釜本80得点は、FIFAが認めて世界の人々が既に認めている事だ」という説明が現実世界で嘘である事が糾弾されています。
これを他の日本人に見られるとまずい為、Athletaは隠した訳です。
この男は、外国人が猛批判して、「永久執筆禁止にした」ほど目茶苦茶な得点数と知っているが、「釜本の得点が増えている事が嬉しい」のです。
だから、この男は、「FIFAが公式に認めた」と主張して、日本語版ウィキペディア上に書いているんです。そして、多くの日本人をだましているのです。
その後、この男は議論ページを隠して、日本国民を徹底的にだましているのです。
そのような事を、平気で行っている酷い人間です。


現在、釜本邦茂のウィキペディアでは、時折、「これはおかしい」と思い、FIFA基準の得点に訂正する日本人サッカー・ファンがちらほら現れます。
しかし、このAthleta(Ath02)がその度に現れ、「独自研究するな」と言い、元の「釜本80点をFIFAが認めた」という説明に戻されます。
何人こいつに削除され、戻されたか分かりません。

ウィキペディアでは、「独自研究して書いてはいけない」(客観事実が大事)というルールがあります。この男はそのルールを盾に反論して元に戻します。
私が、この男に、
「FIFA基準の得点記録を書くのがどうして独自研究なのか? FIFA基準の記録こそ最も客観事実で常識だろ。世界中ほぼ100%、FIFA基準の統計だろ? お前が80点と書いてる記録の方が、世界のサッカー・ファンは認めておらず、怪しいだろ」
と反論して説教しても、このバカは卑怯なのでまともな答えをしません。
無視します。答えたとしても、
逆に、「世界がほぼ100%FIFA基準の統計である証拠を出せ。それが出せないならば、FIFA基準は公式なモノではない」
と難癖である反論します。
日本人は、ウィキペディアを非常に信頼している国民だと思いますが、実際は、こんなバカが主体となり、ページを管理して占拠している事を知るべきです。
この男の主張は、単なる屁理屈です。各国の他の膨大な数のサッカー選手は、現在、ほぼ全てFIFA基準の統計です。他に何があると言うのか?。
有名な統計機関が発表している成績もFIFA基準です。
そうでない場合は「この国は、FIFA基準を無視している」と注釈が付いています。
しかし、このバカ男は、単に自分の「釜本、80点」、「JFA基準 75点」などを書き変えられるのが嫌なので、低次元な屁理屈を捏ね、反論している訳です。
そして、「アホの1つ覚え」でウィキペディアのルールを捻じ曲げ、悪用して、自分に批判して来る人に向かって「独自研究するな」とだけわめく訳です。
現在、この根性の悪いバカにより、良識あるサッカー・ファンは追い払われ続けています。
そして、こいつの
「おかしな得点数、『釜本、80得点』が、日本人にずっと毎日、説明され続ける」
という異常が続いています。

以下が、釜本邦茂のウィキペディアの議論ページです。
これを執筆者Atheltaという卑怯な男が隠して消した。

「過去ログ」という表記の下の「1」という数字をクリックすると議論を見る事ができます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E9%87%9C%E6%9C%AC%E9%82%A6%E8%8C%82
この男は、「世界が、FIFA基準で動いている現実を認めない」という主張を、屁理屈を述べて延々と繰り返しています。
そして、「外国人が怒ってFIFA基準に訂正した」という反対意見は、「無視して答えない」という卑怯な議論姿勢を一貫して行っています。

この男は、これだけ的外れで卑怯な議論をしたのを見られるとまずい為、更に卑怯な行動に出て議論ページを隠した訳です。
皆さん、悪人というのはここまで卑怯です。
骨の髄まで卑怯です。こんな卑怯な奴一人に、現在、多くの日本人がだまされているんですよ。
ちなみに、サッカー選手の得点数で、ウソを書き、ウィキペディア全言語版を荒らして、外国人に大迷惑をかける民族は、世界で日本人だけです。
日本人は、「自分達は、善人」という自己イメージを持っているかもしれませんが違います。
それぐらい日本人は道徳がありません。
そして、自国民に「ウソの得点数」を教えてだまして平気なのも日本人だけでしょう。
元々、日本人は、「公式文書を書き変え捏造する事に抵抗のない民族」なのでしょう。
「日本は、官僚すら文書捏造をやる国」ですから、国民がそういう国民性なのでしょう。


【 執筆者Athleta、別アカウント、Ath02は、「統計機関がJFA基準を認めている」とウソ説明をして、日本国民をだましている。 】

更に、この執筆者Athletaという男は、「統計機関まで追認している」という大嘘を、釜本と三浦のウィキペディアに書いています。
統計機関は、認めていません。
逆に、「日本がFIFAルールを無視している」と、きちんと読者に「日本の国際ルール無視」を説明しています。
この男、Athletaは、日本人に全くウソ・反対の説明をしています。
統計機関は、「日本協会は釜本の得点記録は75点が公式記録だと主張している」としています。そして、その記録を載せた後に、注釈として
「日本は、FIFA基準を無視している。『FIFA基準が先だって各国に通達された』にも関わらず、釜本75得点を公式としている」
と読者にきちんと説明しています。
しかし、この男は、その部分をわざと省き、日本人に説明するのを放棄してます。
逆に、「統計機関は全面的に日本を支持した」と大嘘を書き、「JFA基準は正当だ」というデマを流しています。
統計機関は、ルール無視、独自集計をした日本を積極的に応援するなんて事はしません。
この執筆者Athleta(Ath02)は、「統計機関まで正当なモノと認めた」と日本国民をだます為に嘘を書き連ね、工作しています。
このように、釜本を偉大に見せる為、平気で嘘を書き、日本人をだましているのです。

私は、この男(Athleta、別アカウント Ath02)は、ウィキペディアから追放すべきと思います。
残念な事に、この男はウィキペディア活動歴が長く、管理者の信頼があり追放されてません。
日本ウィキペディアは、とても頭の悪い人間が管理者に就き、牛耳っており、この男にだまされています。
ドイツ人に比べて日本人は本当にバカです。ウソ得点記録、誤報を平気で書き、議論ページまで隠して、多くの人をだます活動をしている人間を放置し続けているんです。

FIFAは1999年以降、公式声明を発表してません
だから、膨大なサッカー選手の中で、FIFAが釜本一人だけ例外として、22点(75得点の場合)や27点(80得点の場合)増やす事を、先んじて認めません。
それは、常識です。しかし、この執筆者Athleta(Ath02)という人間は、根性が悪くて、超バカなのです。だから、そういう説教が全く通用しない人間なんです。
私は、この男1人に、なぜ多くの人がだまされないといけないのか?と怒りを覚えます。


2018年9月までの日本代表得点記録は以下である。

 【FIFA(国際サッカー連盟)基準】
 真実だが日本人には決して紹介されない。
日本では非公式記録で協会とマスコミから存在を否定されている
世界の国々は、日本と違い、当然だがFIFA基準で公式記録を作成して発表している。

1三浦知良       55  
2釜本邦茂       53     
3岡崎慎司       50 
4本田圭佑       38
 5香川真司      30
 6高木琢也      27    
7中村俊輔       24    
7原博美        24        
9高原直泰       23        
10中山雅史        21        
 

【JFA(日本サッカー協会)基準】
テレビ中継等、マスコミでこの記録だけ紹介する。
こうやって情報統制し、国民を洗脳している。

1釜本邦茂        75 (+22)
2三浦知良        55
3岡崎慎司           50
4本田圭佑   38
 5原博美        37(+13)
 6香川真司       30
 7高木琢也       27
 8木村和司       26 (+11)
 9中村俊輔       24
10高原直泰         23

 ()内はFIFAの基準と比べた増加数。


ご覧のように、釜本、原博美など協会幹部の得点は、大幅に増加している。
彼らは、自分達の得点を増やしたいので、自分の友達の協会幹部と評論家に頼んで、勝手に独自の基準を作ってもらったのである。
テレビ局は、この嘘の記録順位を「国際Aマッチ・ゴール・ランキング」として放送している。
 
小倉純二(名誉会長)、後藤健生、大住良之らJFA基準の考案者達は、「FIFA基準を否定する決定」(公式記録として認めない)について、国民に対して意見を聞かず、密室の会議で勝手に決めました。
つまり、
「一部の人間(6人)によって、重大な記録の基準が、いつの間にか世界と違うモノに勝手に変えられた」のだ。
世界には、約210の国がある。その内、たった5カ国ぐらいが、FIFA基準を否定している。
そのうちの1ヶ国が日本だ。
日本人は否定している国の数の少なさと、「FIFA基準否定」が正しい決定かを真剣に考えるべきだ。
世界の僅か数か国(アマチュア選手のみ出場可能な時代のオリンピックで好成績を収めた数ヶ国。例えば、ルーマニア、ブルガリア、スウェーデンぐらいです)は、FIFAルール無視を決定して、独自の協会の基準を公式記録に用いる事を決めました。
しかし、好成績を収めた国がどこも無視した訳ではなく、ハンガリー、ポーランド、チェコなどほとんどの国は、FIFA基準です。
無視を決定したルーマニア、ブルガリアなどは、元々、当時のオリンピック参加選手が、「自分がオリンピックで決めた得点を国際Aマッチにしたい」という欲求をずっと持っていたのでしょう。
その元オリンピック参加選手たちは、引退後、協会幹部となったので、自分の得点記録を増やす為に、基準変更したのだと思います。
そして、日本の元選手も同じ考えで、「日本サッカー協会は、FIFA基準無視を決定した」のです。
日本は、「FIFAのルールを無視した国」だが、それを国民に教えると反発を受ける可能性がある。国民から、「元のFIFA基準にするべきだ」と批判される可能性がある。それ故、彼らは、国民に詳しい説明はしないのです。
批判されるのは嫌だし、面倒なので
こういう独自基準なんて作っている国はとても少ないとか、
なぜ作ったのか? という根本理由などの話」は一切、伝えない訳です。
それにも関わらず、日本サッカー協会(JFA)は、公式サイトで国際Aマッチの用語説明として、「FIFAが認定している試合」と書いているのです。
彼らは、『FIFA基準を否定した』事は、一切、説明せず、「日本は、現在、FIFA基準を全面的に遵守している」という姿勢を見せているんです。この振る舞いは、本当に卑怯で信用ならない組織だと言えます。
彼らは「JFA基準を、世界中が認めている記録だ」と国民に思わせています。私は、これは「協会による組織的捏造・詐欺」と言って、過言ではないと思います。

私は、「記録の基準が、異常」であるにも関わらず、この記録を伝え続ける日本のマスコミ、記者の頭の悪さには、驚倒する。
10年経過しても、誰一人として指摘しないバカさだ。

「当時の最大のスター選手、ペレ」が、プロなので参加できない大会を国際Aマッチとして扱って集計している。
そして、釜本の得点をペレとほぼ同じ得点数まで増やしている捏造記録である。

現在のオリンピックが、なぜ国際Aマッチでないか考えろ!!
「23才以下の大会」だからだ。
昔のオリンピックは、もっと年下で20才前後の大会だった。参加選手の年齢を考えろ!!


お前らは、アホか!!

 

 それでは、皆さん、さようなら。




Jリーグが出来る前の1980年代、奥寺康彦は、ドイツ・ブンデスリーガのブレーメンで「左サイドハーフ」を務め、優勝争いをしていた。
そして、
ブレーメンは、1985年、86年と2年続けて、欧州最高得点率のチーム
だった。
欧州5大リーグ、全94チーム中、1位だった。

ちなみに、奥寺氏は、欧州で1977年から9年も活躍した。そして、1970年代は、ケルンに所属していた。
その時、「ケルンは、1978年は、欧州最高得点率のチーム」だった。
だから、奥寺氏は、「欧州で活動した9年中、3年は、欧州最高得点率のチームに居た」のである。
私が何を言いたいかというと、奥寺氏は、1970年代、欧州最高峰レベルのチームに居て、引き続き、1980年代も欧州最高峰レベルのチームに居たという事だ。
奥寺氏の居たブンデスリーガは、1976~84年まで「UEFAリーグ・ランキング」で1位でした。欧州最高のリーグでした。
奥寺氏は、1986年までブンデスリーガで活躍しましたが、1985年と86年のブンデスのリーグ・ランキングは、それぞれ1985年は、欧州3位、1986年は欧州2位でした
つまり、彼は、キャリアの最後までずっとレベルの高いリーグに居たという事です。

そんな凄いチームで、日本人ミッドフィルダー、奥寺康彦は活躍していたが、1990年代に入り、日本人トップ選手のレベルが大きく低下した。
奥寺と違い、中田英寿のようなミッドフィルダーは、
「欧州最高得点率のチームに所属する事もなければ」、
「優勝争いするチームのレギュラーにもなれず」、
日本人ミッドフィルダーは、下位チームでしか通用しないレベルに下がった。
中田は当時、「欧州2位リーグだったセリエA 」 、ローマで通用せず、ずっと補欠で1年で退団する事になった。
また、奥寺は、30才過ぎても活躍したが、中田は30才前に引退して通用せず終了した。
つまり、日本人ミッドフィルダーのトップは、1980年代と比べて退化した訳である。
2000年代に入り、中村俊輔小野伸二稲本潤一などのミッドフィルダーも台頭したが、彼らも奥寺と違い、欧州最高峰レベルのチームに居た訳ではない。
稲本はビッグ・クラブ、アーセナルに入団したが、レンタルに出され、他のチーム(フラム)でプレイしていた。

そして2010年代、本田圭佑香川真司長谷部誠柴崎岳などのミッドフィルダーが出て来たが、彼らも欧州最高峰レベルのチームで活躍した訳ではない。
香川真司が良い例だろう。
ドルトムントという「欧州3位リーグだったブンデスリーガ」 の上位チームで活躍して優勝もした。
しかし、「欧州2位リーグのプレミア・リーグ」の上位チームだった、マンチェスターユナイテッドに移籍したら、レギュラーは掴めず、通用せずにイングランドを後にした。
つまり、香川は、「欧州3位レベルのリーグでしか活躍できない選手」だったのだ。
それ以上のハイ・レベルのリーグだと、もう通用しない。
本田圭佑は「欧州4位リーグだったセリエA」のビッグ・クラブ、ACミランに移籍したが、活躍できなかった。
ちなみにディフェンダーだが、長友佑都も同じ頃、ビッグ・クラブ、インテル・ミラノに居た。
しかし、この時期のインテルは、長友入団と同じ頃から弱くなり、彼の在籍中、一度も優勝争いをしなかった。
故に、長友は、本当に世界の一流レベルで活躍していたのか? というと疑問である。
長友在籍中のインテルは、大体、毎年、4~9位の辺りの順位で終っていた。
9位(2013年)、8位(2015年)、7位(2017年)などの酷い年があり、「本当にビッグ・クラブなのか?、中堅クラブだろ」という成績の年がしばしばあった。
故に、長友は本当に欧州最高峰レベルのチームに居たのか? というと微妙である。
長谷部誠は、「欧州4位だったブンデスリーガ」(2009年時)で、ヴォルフスブルク時代、1度、優勝した。しかし、それ以外の年は優勝していないし、優勝争いすら1度もしていない。
彼も香川真司と同じで、更にハイ・レベルなリーグ、スペイン・リーグ(欧州1位)、プレミア・リーグ(欧州2位)などでは通用しないだろう。
柴崎岳に至っては、スペイン1部ではなく、2部でばかりプレイしている。
これでは、奥寺と比較する段階にないだろう。

つまり、日本人ミッドフィルダーは、Jリーグが出来て、海外移籍を多くするようになり、欧州挑戦しているが、全員、奥寺康彦に遥かに及ばないレベルの実績で、全員、日本人ミッドフィルダーのレベルを低下させているのだ。
つまり、日本人トップ・レベルの選手は、1980年代からずっと退化している。
全く進歩できていないという事だ。

よく考えれば、Jリーグ発足以降、「欧州1位のリーグで活躍したミッドフィルダー」は1人も居ないのだ。
奥寺のように「欧州最高のリーグの強豪チームに所属して活躍したミッドフィルダー」は、1人も居ない。
中田英寿の時代のセリエAは、既に欧州2位リーグだった。
中田の欧州移籍2年目以降、セリエAは欧州2位リーグになっていた。
2000年以降、スペインが、欧州1位リーグである。
日本のバカ・マスコミは、「UEFAリーグ・ランキング」というのを知らないのである。
だから、当時、マスコミは勝手にセリエAを「欧州最強リーグ」と言い続け、その結果、バカな日本人サッカー・ファン達は、「中田の居た時代、セリエAはずっと欧州1位リーグだった」と、現在でも思い続けているのである。

日本のマスコミは、この酷い実態を国民にきちんと伝えるべきだろう。
日本人は、
Jリーグが出来て以降、なぜここまで日本人ミッドフィルダーのレベルは低下して、奥寺康彦のように欧州最高峰レベルのチームで、その攻撃陣の1人として活躍できなくなったのか」、
を考えるべきだろう。

[ ブレーメン、1984-86、基本システム] 
1984-85シーズン、1985-86シーズン、
2年連続で、「欧州最高得点率」 を達成した。

2年続けて「攻撃成績」 が、欧州5大リーグ、94チーム中、1位だった。

 4-3-1-2 システム

 
 フェラー      ラインダース(ノイバート)
                  
         マイヤー
 
  奥寺康彦        ジドゥカ
 
         メルマン(ボタバ)
 
オッテン  ペッツァイ  クツォップ  シャーフ
 
         ブルデンスキー
 

奥寺氏の「ブレーメン時代のポジションは、ウィングバック」と書く、サッカー評論家は「ニセモノ」 と判断して良いです。
確実に試合を見てないです。
奥寺氏の主たるポジションは、「左サイドハーフ」でした。


 それでは、皆さん、さようなら。



 皆さん、日本代表で史上最多連敗したチームって知ってますか?
 これは、ニュースで紹介されませんよね。気になりませんか?
 私が教えます。

 それは、「1968年、メキシコ五輪で銅メダルを獲ったチームです」。
 あのチームが、日本史上最多連敗、「11連敗」という酷い記録を作りました。
 あのチームは、強くないんですよ。日本人は、本当に誤解をしています。


 それでは、皆さん、さようなら。

【 奥寺康彦、日本史上最高のサッカー選手。私が、日本国民に語られていない奥寺氏の歴史を紹介します。
奥寺康彦は、「ケルン優勝に貢献した選手」、「ブレーメンのレジェンド」です。】


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【写真解説】
ケルン2冠達成(1978年) 記念写真。中段右から2人目が、奥寺康彦
隣(右端)が2年連続リーグ得点王、ユーロ1976年大会得点王のディーター・ミュラー
中段左から2人目がMF クルマン、後段右端が MF フローエ
2人はボランチで「W杯1974年、優勝メンバー」だった。
中段左端がMFノイマン。彼は引退したオベラートに代わる新司令塔。
前列左端が ベルギー代表FW ロジャー・ファン・ホール
前列中央、GK、ドイツ代表、シューマッハ(W杯1986で大会最優秀選手、次点)。
前列右端が CB シュトラック
以上が主力メンバーで、リーグ最多得点、86得点(34試合)、欧州最高得点率(2.5点)で優勝した。1試合当たりの得点率が2.5点でした。 これは、欧州5大リーグ全94チーム中、1位でした。
他国の得点率1位との比較は、以下だ。1978年 ケルン、ボルシアMG(2.5)、レアル・マドリード(2.3)、モナコ(2.1)、エバートン(1.8)、ビチェンツァ(1.5)。
  [ 解説: ケルン、ボルシアMGの2チームが、同率で欧州1位でした ]。

私はウィキペディアに書き、妨害され3回も全削除された。
packingu(超馬鹿男)、プーヤンら利用者が全削除した。 
奥寺のウィキペディアの内容は信用できないと考えて下さい。不正確です。レベルが低いです。
恐らく、試合を見てない人間が書いています。



奥寺康彦は、「僕は呼ばれて、ヨーロッパに行ったんだ」と説明している。
奥寺氏は、後続の日本人選手とは、「移籍の内容・レベル」が全く違う。
彼は「世界の超一流監督、ヘネス・バイスバイラー」に熱望され、最初から「欧州最高リーグの強豪チーム」に入団した。
奥寺が入団したケルンは、昨シーズン、「リーグ戦5位」で、「ドイツ杯、優勝」チームだった。
奥寺氏の時代は、ドイツが欧州最高のリーグだった。現在と全く違う。
現在、ドイツ・ブンデスリーガは、1990年以降、欧州1位リーグになっておらず、30年近く、欧州3位、4位のリーグと化しており、長期間、レベル低下中だ。
奥寺は他の日本人と違い、欧州3位以下のリーグ、例えば、現在、日本人の多くが移籍するドイツや、下位チーム、小クラブに移籍したのとは全く違う。
つまり、奥寺の入団した当時のケルンは、「欧州最高のリーグの強豪チーム」だったのだ。
現在のケルンと同じに考えてはいけない。

また奥寺は、中田英寿、香川真司と違い、ライバルが出現しようと、本来と違うポジションを要求されようと、大体、いつも勝利して先発で出場した。
また彼らと違い、全く一発屋ではなかった。
34才でも「世界の一流選手」で衰えず、最後まで通用したまま、日本に帰国した。




奥寺康彦、日本史上最高のサッカー選手。
日本がワールドカップに出場する20年前、既に世界トップレベルに居た。 



奥寺康彦。  1952年、秋田県出身。


【所属チーム】

1970-1977 古河電工
1977-1980 ケルン 
(70年代後半は強豪。W杯1978とユーロ1980で、ドイツ代表に最も多く選ばれたチーム)。
1980-1981 ヘルタ・ベルリン
1981-1986 ブレーメン 
(80年代中頃は強豪チーム。得点成績は、欧州最高だった。ドイツでは、バイエルンと2強だった)。



奥寺康彦は、欧州リーグに挑戦した7人目のアジア人である。
「プロ化以降とするならば、奥寺は6番目に挑戦したアジア人選手」である。

一番最初は、1920年代、バルセロナで大活躍したフィリンピン人、FW、パウリーノ・アルカンタラ
ちなみに、当時のスペインは、アマチュア・リーグでした。まだプロ化していませんでした。1929年からプロ化しました。
アルカンタラは、リオネル・メッシに抜かれるまで、「FCバルセロナで得点数がクラブ歴代1位の選手」だった。成績は、395得点(399試合)です。
(注: これは、公式戦と親善試合の合計です。公式戦だけならば、アルカンタラの得点数は少ないです)。
アルカンタラは、公式戦のみだと、143得点(141試合)です。
しかし、アルカンタラはフィリピン生まれだが父親がスペイン人だった。そして、3才で既にバルセロナに移住して、同地で育った。
彼はアジア人初だが、中身はスペイン人だった。

2番目以降は全員プロ選手でした。
イラン人のフォワード、ホセイン・サダギアニ(Hossein Sadaghiani)。
彼は、1930年、ベルギー2部のシュルルロワSCに入団した。
そして、2年間で「42試合、28得点」の活躍をした。


3番目は、イラン人の左ウィング、ボユク・ジュディカル(Boyuk Jeddikar)。
彼は、1957ー58シーズン、ドイツの1部のチーム、「BFCビクトリア1889ベルリン」に在籍した。
しかし、家庭の事情により途中でイランに帰国した。彼は9カ月間、活動した。その後、ドイツには戻らなかった。
彼の成績は不明です。


4番目は、イラン人のウィング、パルビズ・クーゼカナニ(Parviz Koozehkanani)。
彼は、1957年にケルンに入団した。「2試合0得点」だった。活躍できなかった。1年で退団した。
翌1958年、同じくドイツのレバークーゼンに入団した。「4試合0得点」だった。また活躍できなかった。
この後、イランに帰国した。


5番目は、香港人のフォワード、チャン・チ・ドイ(Cheung Chi Doy)。
彼は、1960~62年の間、イングランド1部リーグのチーム、ブラックプールに所属した。2シーズン在籍して「2試合出場、1得点」の成績だった。活躍できませんでした。
ちなみに、彼は香港人だが、台湾代表で活躍しました。
台湾代表では、「35試合出場、17得点」の成績でした。


6番目は、イラン人のフォワード、モハマド・レザ・アデルカニ(Mohammad Reza Adelkhani)。
彼は1966~72年の間、ドイツの2部のチーム、ロートバイス・オーバーハウゼン、バッパーターラーSVボルシア、バッテンシャイト等で活動した。
そして、1972年にイランに帰った。
イラン代表では、「17試合2得点」の成績だった。

まとめると、アルカンタラは欧州で活躍したが、親がスペイン人で3才からスペインで育った人物だった。中身はスペイン人だった。
そして、その後、イラン人が4人、香港人が1人挑戦した。
アジアでは、イラン人ばかりが欧州に挑戦していた。
しかし、1部リーグでは誰も活躍できなかった。
イラン人はボユク・ジュディカルが1部で活動したが、9カ月間でイランに帰った。
そして他の選手は、ベルギー2部、ドイツ2部で活動するのが限界だった。
故に、私は、実質的にアジア人で挑戦した最初の成功者は奥寺であると思う。




日本の馬鹿マスコミが、「アジア選手が世界に遅れていて徐々に進歩した」と語る歴史観は大間違いで嘘である。
奥寺は、欧州最高のリーグで、1位や2位チームの助っ人だった。
韓国人フォワード、チャ・ボングンは、その最高のリーグで「外国人最多得点記録」(98得点。1998年まで9年も破られなかった)を作った。
アジア人は、1970年代後半、日本と韓国の2人が欧州挑戦して、当時の欧州最高のリーグ、ドイツ・ブンデスリーガで簡単に大活躍した。
約10年もの長い間、活躍した。
アジア人にとって昔は、欧州のトップクラスで活躍するのは簡単だった。
しかし、1990年代から、急激なレベル低下が始まって通用しなくなった。
三浦知良、中田英寿、小野伸二、中村俊輔、アリ・ダエイなど、2流選手の登場により、一気にガタ落ちした。
日本の黄金世代は大嘘で、1980年代の日韓2人と違い、欧州最上レベルで通用しなくなった。
その後も、香川真司、遠藤航、パク・チソン、ソン・フンミンなどの選手達が、昔のアジア人のレベルの高さを超えられない状態が続いている。





【奥寺の評価 & 成績。】

奥寺康彦は、2014年、アジア・サッカー連盟が創設した、『アジアの殿堂』に、日本人で最初に選ばれた。
日本からは奥寺と澤穂希の2人です。

2014年、ブンデスリーガから『史上最高の日本人助っ人選手』に選ばれた。
               


奥寺康彦は、(欧州最高のリーグ時代)ブンデス・リーガで、優勝1回、2位 3回、5位3回、6位 1回。 6位より下が無い。
ずっと上位チームに居た。
(リーグ2位3回のうち、2回、勝ち点は1位だった。得失点差で2回優勝を逃した)
ドイツ杯は優勝1回、準優勝1回、ベスト4が1回で、傑出した成績だ。



奥寺は、「欧州時代9年中3年は、欧州一の攻撃力を持つチーム」に居た。(ケルン1978年、ブレーメン1985、86年)。 凄過ぎる話だ。 

奥寺が在籍した、1981年のヘルタ・ベルリンは、「123得点(42試合)」を挙げ、
ブンデス2部、シーズン最多得点記録」を作った。(2019年、現在)。
凄い。
これは、2部での成績だけど、偉業であろう。
ちなみにヘルタ・ベルリンは、「123得点」もしたが、「2部3位で、1部昇格できませんでした」。
珍しい話です。
しかし、ドイツ杯では、2部チームでしたが準決勝進出して、皆を驚かせました。
昇格失敗しましたが、この年のヘルタが優れたチームだった事は確かです。

奥寺が所属したチームは、「攻撃成績」が素晴らしい。
奥寺は得点能力が高いミッドフィルダーではなかったが、クロスを上げアシストで貢献していた。また、前線に飛び出すとヘディングで競り勝つ事が多かった。
彼は、チームの攻撃力が良くなる要因を作っていた。
  
                                        
奥寺は、優勝争いのライバル、ビッグ・クラブ、バイエルン・ミュンヘンとの対戦成績は、
6勝3分け3敗(リーグ戦)。大きく勝ち越した。 
ちなみに、韓国人のチャ・ボングンのバイエルン戦の成績は、5勝4分け10敗(リーグ戦)です。



UEFAリーグ・ランキングで、1976~1984年迄、ブンデス・リーガが欧州1位だった。(注:1985年は欧州3位、1986年は2位だった)。
この期間は、奥寺康彦の居た頃と丁度、重なり、
彼はそこで1位、2位の強豪チームで外国人助っ人だった。  
欧州は、1980年代は、外国人枠2人だった。しかし、奥寺は欧州最高リーグの強豪チームに長い間、所属して活躍した。
ちなみに、奥寺氏は、1985、1986年は、「ドイツ最高齢助っ人」だった。
中田、本田、香川、パク・チソンらは、外国人2枠なら上位チーム在籍は無理だった。恐らく、欧州移籍すら不可能だったろう。
当時、外国人枠がたった2人だったので、ブラジル、アルゼンチンでは「代表主力のみ」が欧州移籍できた。
残りの代表選手は国内に居た。
ちらほらと代表選手クラスじゃない選手も欧州に居ました。しかし、昔は、基本的に代表主力クラス、南米のスターが行く時代でした。
だから「欧州で助っ人」だった時点で、奥寺は相当、凄かった訳たが、日本人はそこを理解していない。



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【写真解説】 
国内リーグとドイツ杯優勝、2冠達成(1978年)を祝う、奥寺康彦。
ケルンは14年振りのリーグ優勝だった。
奥寺の活躍以来、ケルンは40年以上リーグ優勝していない2018年 現在)。
ケルンでは、未だにこの2冠優勝は歴史上、最高の出来事とされている。
この時代、2冠達成は難しくて珍しい事で今より偉業とされた。
このチームは、ドイツ史上、2冠達成した3つ目のチームで、歴史的チームとされている。
2冠達成は、1937年のシャルケ、1969年のバイエルンに次ぎ3チーム目だった。
20世紀中では、あと1986年のバイエルンのみで僅か4チームです。
現在まで2冠達成チームはリーグ史、83年で15チームある(2018年現在)。
しかし、2000年以降の18年間で11チームも生まれた。
つまり、21世紀に入って、2冠達成は容易になったのである。
奥寺は、「ケルン史上最強」と評されるチームのメンバーだった。

ヘネス・バイスバイラー監督は、
奥寺は優勝を果たす為に、最も重要なゴールを決めてくれた。
サッカー選手はサッカー選手です。日本でもドイツでもどこでも才能は生まれるものです。奥寺は素晴らしい才能があり、彼を使うことができて幸せです」
と優勝当時、述べた。
彼は祝勝パーティーで、優勝を決める活躍をした奥寺に向かって敬礼をしたそうだ。


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【写真解説】 
右が、ケルン史上最高の監督名将ヘネス・バイスバイラー。
当時、世界屈指で、ケルンの前はFCバルセロナ監督を務めた。
左がボランチ、ハインツ・フローエ(W杯1974年優勝メンバー)。2冠優勝を祝う2人。




【 奥寺が、リーグ残り3節、3試合連続ゴールを決めて優勝をもたらす大活躍をした内容。 】
は以下である。

1977-78シーズン、第32節アウェー、カイザースラウテルン戦で、ケルンは、1ー0でリードしていた。後半37分、左CKを得た。
このコーナーキックのボールをニアサイドに居た奥寺が、すらすヘディングで決めた。ケルンは2-0で勝利した。

第33節ホーム、シュツットガルト戦で1対1の同点の時、
後半35分、
奥寺が決勝ゴールを挙げた。
これでケルンは、2-1で勝利した。
この決勝ゴールは、まず、右サイド後方からの味方のクロスを相手CBがヘディングで跳ね返した。
そのボールをペナルティー・エリア中央、奥寺が、ダイレクトで左足でシュートして決めた。
この得点は、ケルン優勝の為に非常に大きかった。
世間では、奥寺氏が最終節に決めたヘディング・ゴールが有名なので、そればかり話題になる。
しかし、私が、奥寺氏がメディア出演した時の様子を見ると、奥寺氏本人は、このシュツットガルト戦の決勝ゴールの重要さを、日本のサッカー・ファンにもっと理解して欲しいようである。

最終節アウェー、ザンクトパウリ戦で、ケルンは5-0で勝利した。
この試合、奥寺は後半15分と41分にヘディングで2ゴール決めた
後半15分、右CKをニアでヘディング、後半41分は、右サイドからのクロスを左サイドで決めた。
(後半41分のゴールは、2014年、「ケルン歴代ゴール第2位」に選ばれた。
そして、同年、ブンデス・リーガから、「リーグ史上最高のヘディング・ゴール」に選ばれた。
ちなみに、当時、「月間ベスト・ゴール」に選ばれました。)
奥寺は優勝に貢献するゴールを3試合連続で決めた。
ケルンは、ボルシアMGと同勝ち点でリーグ終了をした。しかし、得失点差で3点上回り優勝をした。



【動画解説】
2014年、奥寺康彦のヘディング・ゴールは、「ブンデスリーガ史上最高のヘディング・ゴール」に選ばれた。
これは、「ケルンの優勝が掛かった試合で決めたゴール」でした。だから、高く評価されました。




【動画解説】
これは、「奥寺康彦氏のリーグ戦、初ゴール」の映像です。
これは、「アジア人がドイツ・ブンデスリーガで決めた最初のゴール」でした。



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【写真解説】 ケルン時代、ウィングでヘルタ・ベルリンと戦う奥寺康彦。





【 私が考える奥寺康彦の凄いポイントを、9つ紹介。 】

まず最初は、「世界の一流選手になれる環境で育っていないが、それを実現した事」だ。
当時の日本は遅れていて、しかも奥寺氏は中学からサッカーを始めた。
奥寺は、中学校に入学するまで、サッカーというスポーツをよく知らなかった。
中学入学後、初めて「サッカー・ボール」というのを間近でよく見たそうだ。
奥寺氏は、中学時代、最初、卓球部に入部した。
奥寺氏は、小学校時代、時々、卓球で遊んでいた。それが理由で卓球部に入部した。
しかし、1年生は、台で打たせてもらえず、苦痛だった。
そんな時、奥寺少年が卓球場から外を見ると、サッカー部が練習していた。
奥寺氏は、「あれがサッカーっていうのか。たくさん走って嫌なスポーツだな」と最初、思ったそうだが、「卓球部に居るよりか良さそうだ」という事で、サッカー部へ転部したそうだ。
奥寺氏は、「最初の頃は、トゥー・キックしかできなかった。インステップが難しく、習得するのに時間がかかった」と話している。
奥寺氏は、小学校時代、全くサッカーをやってないのだ。
これは、相当に不利な話だ。現代の世界のトップ選手で、そんな人は1人も居ないだろう。
奥寺氏が、小学校時代からサッカーを始めていたら、確実にもっと良い選手になっていただろう。特に技術面で、もっとハイレベルな選手になれただろう。
私は、その点はとても残念である。しかし、日本では、時代がそうだったので仕方ない事だ。
また、奥寺氏の著書によると、奥寺氏の中学校には、最初、
「ハンドボールのゴールしかなく、サッカーのゴールが無かった」そうだ。
昔の日本は、環境は悪く、用具が揃っていなかったのだ。
その後、顧問が、近所の鉄工所に頼み、サッカー・ゴールを作って貰ったそうである。
それ程、当時の日本は、「サッカー競技の普及」が全く進んでいなかったのである。
そして、奥寺氏が中学2年の時に、「日本で初のサッカー雑誌」が刊行された。
つまり、「情報面においても、当時の日本は遅れていた」訳である。
テレビを点けてもサッカーなどやってないし、活字でもサッカーを報じる書物が全くない。
奥寺氏は、10代の時、
「テレビを点けて、一流選手のプレイを見て参考にする。影響を受けてマネをする」という現在の少年が、一番、サッカーをうまくなる手段の1つを持っていなかったのである。
現代の少年ならば、更に充実しており、ユーチューブ等でも様々な試合、技術を見て、上達に役立てる事ができる。
また、昔の南米選手は、ペレ、マラドーナ等、貧乏ゆえ、家にテレビが無くても、親に連れられ、「スタジアムに行って一流選手のプレイを見る」という事をしていた。
また「学校から帰宅後、プロ選手の練習を観に行く」というのも可能だったそうだ。
昔は、南米は、それ程、セキュリティーが厳しくなく、練習見学をできたそうだ。
南米の名手の中には、「それがとても参考になった」と話す人も居る。
奥寺氏には、そんな事はできなかった訳である。
日本は、サッカー不人気国で、日本には世界の一流選手など1人も居なかったからである。
レベルの高い試合など、日本には無かったからである。
当時、奥寺氏は、世界の視点で考えると、「環境的には、相当に不利な選手であった」と言えよう。
そんなサッカー後進国過ぎる環境で、奥寺少年はサッカーを始め、
「欧州最高のリーグの優勝争いするチームで、助っ人として長年、活躍した」訳だから、ほとんど彼の成功は、「あり得ない話」というレベルだろう。

また、奥寺氏は、高校卒業後、社会人チーム(古河)に入団したが、当時、「練習が、2日に1回」だった。
また、奥寺氏には、「夜勤明けの練習」という過酷な日があった。
奥寺氏は、夜勤明けに仮眠した後、練習をしていたそうだ。
私は、現在の選手は仕事もせず、毎日練習しているが、全員、奥寺以下の実績しか残せないのは、本当に不思議である。
また、奥寺氏は20才から1年間、深刻な腰痛に悩まされた。この腰痛は、入院・手術をするレベルで、周囲に「引退宣言」をしていたそうだ。
当時、「もう、俺、サッカーできない。終わった」と、半ば諦めていたそうである。
その後、奇跡的に腰痛が治り、再びサッカーをする事ができた。
つまり、奥寺氏は、社会人時代は、練習は2日に1回の為、練習量は少なかった。そして、腰痛に悩まされ、1年間、棒に振った。
「フル・パワーでサッカーをできない」という状況に追い込まれ、入院までしたという選手である。
つまり、「他の選手に比べ、かなり練習時間が不足していた選手」である。
しかし、奥寺氏は、その後、「欧州最高のリーグの強豪チームで、助っ人をこなした」のである。
しかも奥寺氏は、34才まで通用して、通用したまま日本に帰国したという「余裕の活躍」であった。
こんな話は他にあるだろうか? 私は聞いた事がない。
私は、奥寺氏の成功は、本当に「あり得ないレベルの話だ」と思う。


2つ目は、奥寺は1985年、86年、2年連続で、欧州5大リーグで「高齢、外国人助っ人3位」だった。ドイツでは、最高齢助っ人だった。
[ 1986年、欧州、高齢助っ人 順位。 ] 
1位 デリオ・オニス 38才(フランスで得点王 最多5回。アルゼンチン人、FW)
2位 ウバルド・フィジョール 36才。(W杯1978優勝。アルゼンチン代表 名GK)
3位 奥寺康彦、    34才 3月12日生。(日本人、MF)。
4位 バヒド・ハリルホジッチ  5月15日生。(フランスで得点王2回。ユーゴ代表)
5位 オスバルド・アルディレス 8月 3日生。
(W杯1978優勝。アルゼンチン代表、名MF。トッテナム所属)。
6位 ダニエル・パサレラ  33才  
(W杯1978優勝。アルゼンチン代表、名CB。インテル所属)。

7位以降は、同じく33才でファルカン(ローマ所属。ブラジル代表、MF)等が居た。
この頃、他は超一流だらけだった。 
奥寺は、1980年代、欧州で最も長く活躍した外人助っ人の1人だった。

奥寺の凄い点、3つ目は、欧州9年間で、イエローカードがたった7枚 (313試合出場)。退場ゼロ
奥寺は「ファウルせずにボール奪取できる達人」
(欧州で、長谷部67枚、稲本33枚、長友29枚、内田19枚 [内田は奥寺の半分の試合数])、遠藤航、32枚。)
奥寺氏は、「僕はボール奪うのがうまかったからかな(笑)。警告が少なかった」と語っている。
だから、レーハーゲル監督は、奥寺氏をセンターバック起用して、欧州最高の選手、カール・ハインツ・ルンメニゲ(バイエルン所属)のマークを任せた場合もあった。
さすが世界超一流の守備能力、「世界のオク」だ。
奥寺氏の警告枚数の少なさ、7枚は、MF、DFでは、サッカー史上最少レベルである。
ちなみに、奥寺氏は、ドイツ時代、ルンメニゲとの対戦成績は、
5勝1分1敗(リーグ戦)で圧勝している。


よく、こう書くと、
「奥寺の1980年代と、今ではジャッジの基準が違う。今の方が昔よりイエローカードが出易い」
と批判して来る人間が居る。
そういう人間の為に、奥寺氏のチームメイトで、名選手のイエローカード枚数を教える。
DM、ベルント・シュスター 108枚(534試合)
DM、ハインツ・フローエ   28枚(464試合)
DM、ベルンハルト・クルマン 22枚(453試合)
DM、ミルコ・ボタバ     93枚(880試合)
CB、ブルーノ・ペッツァイ  57枚(584試合)
OM、ノーバート・マイヤー    40枚(398試合)
 
 奥寺は、たった7枚(313試合)だ。「文字通り」、桁が違う差なのだ。
 
 つまり、奥寺氏は「時代が原因で、イエローカードが少なかった」のではなく、同時代の名選手(チームメイトで代表クラス)と比較しても、断トツで警告を受ける事が少ない選手だったのだ。

奥寺の凄い点、4つ目は
数多くのポジションを務められる事だ。超ユーティリティー選手だ。
中田英寿、本田圭佑、香川真司は強豪クラブに移籍するとベンチに座ったが、奥寺はこの優れた特徴により、1980年代、欧州最高のリーグでも先発で活躍し続けた。
この長所は他の日本人選手と格の違いを示した。
中田は複数のポジションをこなす能力がない為、ローマでベンチ生活となったが、奥寺はフォワード、サイドハーフ、ボランチ、両サイドバック、センターバックができる戦術センスに長けた名選手だった。
奥寺はフォワード、ミッドフィルダー、ディフェンダー全てこなせる事ができた。
更に両足が器用なので、左右両サイドのポジションでプレイするのが可能であった。
奥寺はグラウンドの前から後ろ、左右まで数多くのポジションをこなせる、とても珍しいタイプの選手だった。だから奥寺は先発で通用した。
ケルン時代は、両ウィング、センターフォワード、左サイドハーフ、ボランチ。
ヘルタ・ベルリン時代は、左サイドハーフ、ボランチ、右サイドバック。
ブレーメン時代は、両サイドハーフ、両サイドバック、更にセンターバックで起用された試合まであった。
奥寺はグラウンドのどこでもプレイする事ができた。
ブレーメン監督、名将オットー・レーハーゲルは、
奥寺はどんなポジションでも起用すれば、すぐに自分のモノにしてしまう。色々なポジションができる。監督にしてみれば理想的な選手だよ
と称賛していた。
レーハーゲルは対戦相手に応じて、奥寺を起用するポジションを幅広く変える事ができた。
またレーハーゲル監督は、
奥寺が左サイドハーフでサイドの攻撃、守備に貢献する事に加え、中盤でチームのバランサーとしても働き、他に俊足を飛ばして敵のカウンター攻撃を防いだりと、豊富な運動量で色々な役割をこなして広くプレイする特徴を、
「奥寺を得たら3人選手が居るのと同じ。奥寺は3人分の仕事ができる名手」
とも称賛していた。
また当時、
「奥寺は本当に頼りになる選手なんだ。
私は今まで、奥寺ほど頭脳的なハードワーカーの選手を、戦力に持った事がない。
チーム全員が奥寺の貢献度を高く評価している。
奥寺は技術とスピードを兼ね備えた選手だが、チームの為に率先してハードワークをする選手なんだ。私はそこを一番評価している」
と語っていた。
2013年のNHKの取材では、
「奥寺を獲得したら予想通り素晴らしい選手だった。
奥寺はどこのポジションでもこなせる事ができた。
奥寺は闘争心があり、怪我の恐れをもろともしないで戦うタイプで、申し分のない選手だった」
と語った。
ブレーメン時代の奥寺は、サイドからクロスを上げ、アシストでチームに貢献をしました。
そして、戦況の読みに優れた絶妙な攻撃参加を得意としていました。
ドリブルで仕掛ける事は少なかったですが、前線に突然、顔を出し、攻撃参加する「鋭さ」は非凡でした。
奥寺は、試合の流れを読むのがうまい。試合の流れを読む事で言うと、例えば、敵をだます為に、「試合中、敢えて消える」ことがうまいと思います。気配を消して、少し消えます。その後、現れます。
その他の特徴は、奥寺は、ヘディングが強く前線に飛び出して来た際、空中戦で競り勝つシーンが多かったです。
この部分は他の日本人と明らかに違う所でしょう。
彼は、ドイツ人と遜色がないくらいフィジカルの強さを持っていました。
また奥寺は対人守備が強く、守備力が高い選手でした。



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【写真解説】 
1987-88シーズン優勝トロフィーを持つブレーメン史上最高の監督名将オットー・レーハーゲルブンデスリーガ最多試合、指揮記録830試合」を持つ。
その他に監督として、ブンデスリーガの最多勝利、387、最多引き分け、205、最多敗戦、228、最多得点、1473、最多失点、1142の記録を持っています。
レーハーゲルは、1981~95年まで14年間もブレーメン監督を務めた。
奥寺は1986年、ブレーメン退団した(奥寺在籍中は、2位が3回で優勝できなかった)。
2年後、1988年、レーハーゲルは初優勝した(注:クラブ史では1964年以来、2度目)。
彼は再び1992-93シーズンにリーグ優勝した。ドイツ杯では1991年、1994年に優勝。
また1992年、「欧州カップ・ウィナーズ・カップ」優勝した。ブレーメンに初の国際タイトルをもたらした。
彼はこの後、1998年にカイザースラウテルン監督でリーグ優勝をした。
その後、ギリシャ代表監督としてユーロ2004年に優勝した。


奥寺の凄い点、5つ目は、
欧州チャンピオンズ・カップでアジア人初ゴール(しかも準決勝で)決めた事だ。
今後、多くのアジア人が欧州最高の舞台でゴールを決めるだろうが、最初の扉を開いたのは奥寺康彦だ。


奥寺の凄い点、6つ目は、最後まで欧州で一流だった事だ。
中田英寿、香川真司は欧州移籍直後に活躍して、その後は大きく下回る活躍しかできない一発屋だったが、奥寺は衰えず、34才でもブンデス2位チームで主力だった。一流と二流の違いだ。
奥寺こそ真の一流選手と呼ぶべきだろう。
奥寺は34才で通用したまま帰国したのだ。そこを日本人は丸っきり分かっていない。
長谷部が活躍していても、フランクフルトという中堅クラブで、まるで優勝争いに加われていない。
奥寺は、「優勝争いするチームに居て、最後まで通用して帰国した」のだ。
「長谷部が上回った」などというおかしな事を言う日本人がたくさん居るが、長谷部のチーム(フランクフルト)がいつ優勝争いしたんだ?
しかも、今のブンデスリーガのレベルは欧州何位なんだ?
私は、「奥寺の時代のように欧州1位や2位のリーグ・レベルではなく、4位とかそんなレベルだろ、そこを忘れてないか?」と反論したくなる。

奥寺氏の凄い所、7つ目は、
1986年、奥寺氏の居たブレーメンは、「『欧州最高得点率』を出した凄いチーム」だった。欧州5大リーグ、94チーム中、1位でした。
奥寺氏は、
34才と高齢だったが、その優れたチームの攻撃陣の1人としてバリバリ活躍していた」 事だ。
この年は、「リーグ戦34試合中、33試合」に出場をした。これは、チーム2位の出場数だった。



奥寺の凄い点、8つ目は
「ブレーメンの外国人選手の試合出場(リーグ戦)」、歴史上2位(当時)159試合
を作った事だ。毎年30試合前後、先発した
2018年現在、奥寺は9位です。32年過ぎてもまだベスト10内だ。
退団時(1986年)、これを上回るのは1970年代に活躍したデンマーク代表主将、
CB ペル・ロントゥベッドしかいなかった。
ロントゥベットは、7年在籍で、194試合 出場。(現在4位)。
ちなみに、彼は、1970年代、「デンマーク代表、最多出場 75試合(当時 1位)」も作った名手です。
 奥寺は、契約延長オファーを拒否して日本帰国した。しかし、そのままドイツに残れば、当時「ブレーメンの外国人試合出場記録1位」を作れた。
私は、この件は少し残念に思う。
奥寺氏は、1899年創設の長い歴史を持つクラブで、当時、歴代助っ人ベスト3に入る地位を築き、日本に帰国した。
奥寺氏は、ケルン、ブレーメン、2つのクラブで名を残した選手である。


奥寺の凄い点、9つ目(最後)は、
日本復帰直後1986年、古河電工(現在のジェフ千葉)の一員として、アジア・クラブ選手権(ACLの前身でアジア王者を決める大会)に参加して、日本初のアジア王者になった事だ。
古川電工は、サウジアラビアの首都リヤドで、
アル・ヒラル(サウジアラビア)、アル・タラバ(イラク)、遼寧FC(中国)と、決勝リーグで対戦して、3連勝した。
奥寺は、地元サウジアラビアのアル・ヒラル(準優勝チーム)戦に4-3で勝利した際、34才でハットトリックの大活躍をした。
「アウェー・中東クラブ戦で、ハットトリックした日本人」は、未だに奥寺だけである。
更に、「アジア人で、決勝でハットトリックした選手」は、未だに奥寺だけです
多分、日本人で決勝でハットトリックする選手は、永遠に出て来ないだろう。
日本代表がアジア・カップ優勝できず、アジアで一番になれない弱い時代、日本のアジア・クラブ初王者が奥寺の大活躍によってもたらされた。
奥寺は「余力のあるうちに日本サッカーに貢献したい」と言って、契約延長オファーを断って日本復帰した。その言葉通り、偉業を成し遂げた。
日本サッカーでは、欧州のパイオニアも、アジアでのパイオニア(開拓者)も奥寺康彦だったという事だ。

ちなみに奥寺は、日本復帰後、日本代表の「最高齢得点記録」も作った。
35才と187日(注: 現在は2位。1位はラモス
瑠偉です。36才と85日です)。
他に、奥寺氏は、日本代表では24才の時、1976年のムルデカ大会(アジアの国際大会)で、8得点(7試合)で得点王になり、準優勝した。




【 奥寺康彦、ケルン入団の経緯。 】 
 
奥寺(25才)は世界的名将、ヘネス・バイスバイラーにしつこく勧誘されて、欧州へ渡った。既に世界レベルの能力を有していたのだ。
バイスバイラーは欧州最高のリーグ、ブンデスリーガで既に3回優勝していた。他に、ドイツ杯は2回優勝、UEFAカップでは優勝1回、準優勝1回していた。
当時、世界のサッカー・ファンは誰でも知ってる名将だった。
バイスバイラーは、ボルシアMG監督時代、W杯、ユーロで優勝したドイツ代表スターと仕事をして優勝した。
ネッツァー(後に、レアル・マドリードでも司令塔)、ハインケス(ブンデスリーガ得点記録、歴代2位)、フォックツ、ボンホフ等だ。
その後、バイスバイラーは、バルセロナ監督を1年務めた。ちなみに、リーグ戦の順位は2位だった。
その時の所属外国人は、欧州史上最高の選手と評されたヨハン・クライフだった。
他にヨハン・ニースケンス(オランダ代表、W杯準優勝)らが居た。
彼はそのような超一流選手とずっと仕事をして来た監督だ。
バイスバイラーはスーパー・スター、クライフと揉めた為、僅か1年でバルセロナを去った。
その後、バイスバイラーはケルン監督に就任した。そして就任1年目でドイツ杯優勝へ導いた。
会社勤務の奥寺は、このような経歴を持つ世界の超一流監督から電話で直々に、「レギュラーで起用したい」とまで説得された末、欧州挑戦を決意した
奥寺は、日本代表遠征でケルンの練習に参加した。その際、バイスバイラー監督に評価された。そして、勧誘された。
その時、奥寺は、突然のことに驚き過ぎて、足がガタガタと震えたそうだ。しかし、回答を保留して日本に帰国をした。
奥寺のケルン入団が決まった背景には、当時のケルンのチーム事情も関係していた。
ケルン就任2年目、バイスバイラー監督は攻撃が駒不足の状況に陥り、選手を探していた。
1977年、ケルンは、W杯1974年優勝チームのドイツ代表司令塔でもあった、ヴォルフガング・オベラート(33才)が、ドイツ杯優勝で有終の美を飾り、引退してチームを去った。
またウィングの名手、ハーネス・レアー(35才)が引退間近で、その後釜を探していた。
レアーは、ケルンのクラブ最多得点記録166得点(プロリーグ化以降の記録で1位です。現在も1位)を作った
(166得点は当時リーグ史上4位。2018年現在で11位。また彼は、1968年、27得点で得点王になった。ドイツ代表ではW杯1970年でチームは3位)。
そして、ケルンには既に外国人助っ人のデンマーク代表FW、プレーベン・エルケア(20才)が居た。
エルケアは、後に『バロンドール』という「欧州最優秀選手賞」で、3位(1984年)、2位(1985年)に選ばれた世界的名選手。
W杯1986では、ブロンズ・ボール( 大会最優秀選手投票で3位)に選ばれた
エルケアは、度々、規律違反を起こしていた。その為、厳格な性格のバイスバイラー監督は怒り、チーム構想外扱いにして、新外国人選手を探している状況でもあった。
そんな時、日本から訪れてケルンの練習に参加したウィングの奥寺康彦の存在が、バイスバイラーの目に留まったのだ。奥寺は丁度、レアーと同じウィングの選手で、外国人助っ人も探していた監督にとって適材の選手だった。
このようなチーム事情が背景にあり、アジア・サッカーの歴史に残る奥寺の移籍は決まった。
リーグ開幕2カ月後から加入した奥寺は、すぐに先発の座を掴んだ。
その後、奥寺はリーグ終盤3試合連続ゴールの大活躍をして、2位のボルシアMG(ユップ・ハインケスとアラン・シモンセンが居た)を振り切り、優勝決定の立役者になった。
これでバイスバイラーは自身4度目の国内リーグ優勝を達成した。
この年、ケルンはドイツ杯2連覇も達成した(奥寺は決勝で先発した)。
当時、ブンデス・リーガは欧州最高のリーグだった。
故に、ケルンは世界有数の強豪チームだった。
日本人、奥寺はその一員で活躍した。



【 1970年代後半、ケルンは一流選手が揃うスター軍団。 】

ケルンには若きミッドフィルダー、ベルント・シュスターが現れた。彼は、1980年のバロンドールで2位となった。
ちなみに、シュスターは後にバルセロナ、レアル・マドリード、アトレチコ・マドリードのスペイン3大クラブ全てで司令塔を務めた。1980年代を代表する名手の一人だ。
19才シュスターは、既に強豪ケルンで司令塔だった。
他にもW杯優勝、準優勝やユーロ優勝した名選手がゴロゴロ居た。
ドイツ代表正GK、ハラルト・シューマッハ、
ボランチのフローエクルマン(W杯1974年 優勝メンバー)。
FW、ディーター・ミュラー(1976-77、1977-78年、2シーズン連続得点王)が居た。
また攻撃的MF、ピエール・リトバルスキーが現れた。
更にイングランド代表FW、トニー・ウッドコックまで加入した。        
当時のケルンはスター軍団で代表選手が5、6人居た。
そこで奥寺は、外国人助っ人として活躍した。


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写真解説】 ケルンのボランチ、ベルント・シュスター
20才でバロンドールで2位になった。ドイツ代表では、既に主力だった。
ケルンでは、ボランチのシュスターがゲームを作り、ウィングとサイドハーフを務めた奥寺は、彼のパスを受けて攻撃していた。ケルンは、他にもフローエ、クルマン、リトバルスキーなど、世界一流ミッドフィルダーを擁していた。


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【写真解説】
ケルンの当時最大のスター、元ドイツ代表ウィング、名手ハーネス・レアー
ケルンに14年間もエースとして在籍した。リーグ史上歴代4位(当時)通算166得点の記録を残して引退した。奥寺はこの選手の後釜に期待されて入団した。
奥寺は、シーズン終盤に大活躍して、ケルンを優勝させた。
レアーは2冠優勝シーズンの序盤は先発していた。しかし、奥寺が開幕2カ月後から加入した為にレギュラーを奪われ、それ以降はずっと控えとなり先発出場がゼロになった。そして、この年に引退した。


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【写真解説】 
ケルンのエース・ストライカー、ディーター・ミュラー
1970年代後半、2年連続リーグ得点王に輝いた。この時代、欧州屈指のセンターフォワードだった。
ミュラーは、リーグ通算177得点。 歴代4位で引退した。
(ケルンの同僚だったハーネス・レアーの得点記録を抜いて引退した。2018年現在で、まだ歴代8位)。
ドイツ代表ではユーロ1976年で得点王に輝いた(ドイツは準優勝した)。
W杯1978年大会では4試合2得点。ドイツ代表で通算12試合9得点。
ユーロ1976年で得点王になり得点率も高かったが、代表活動期間は3年間だけで短かった。
奥寺はウィングでミュラーと攻撃陣を形成して、アシストをした。


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【写真解説】 奥寺のケルン時代のチームメイトの写真。
一番左が CF、ディーター・ミュラー
一番右が   ロジャー・ファン・ホール(ベルギー代表ウィング)、
中央がボランチのハインツ・フローエ
フローエはドイツ代表でW杯1974年優勝、ユーロ1976年で準優勝した。
W杯1978年開催時、ベッケンバウアーは、「フローエはドイツで一番優れた選手だ」と称賛した。
奥寺は、当時、ドイツ最高の選手とチームメイトだった。


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【写真解説】 これはハインツ・フローエの銅像である。
フローエは、スタジアム前に唯一銅像が立てられる程、人気と実力のあった選手だ。
写真一番左は、クラブ副会長(2018年現在)、名GKだったハラルト・シューマッハ。
余談であるが、ケルンではFW、ハンス・シェーファー、FW、ハーネス・レアー、
MF、ヴォルフガング・オベラート、MF、ハインツ・フローエの4人は、クラブ史で、最もサポーターから慕われたヒーローである。
現在、「シェーファーの銅像も作るべきだ」という声が上がっている。

奥寺はケルン加入当時について
「ケルンの選手と力の差をほとんど感じなかった。彼らはテクニックやパスのうまさを持っていたけど、僕は彼らにないスピードを持っていた。
彼らのパスを受けて、ウィングでゴール・チャンスを作るのが自分の仕事だった。
他の選手とチームにおける役割が違っていて重ならなかった」
と語っている。
身体能力が高かった奥寺は、世界のスター軍団であったケルンのメンバーになっても、他の選手とそれ程、力量の差を感じていなかった。
そして、自分の持ち味であるスピードが、チームのスタイルに適合した。


【 当時のケルンは外国人助っ人も一流。 】

当時、ケルンにはベルギー代表、ロジャー・ファン・ホールが居た。
彼は、1975-76シーズンUEFAカップ準優勝したクラブ・ブルージュのフォワードだった。ケルンが外国人選手のドイツ史上最高移籍金額で獲得した選手だ。1970年代、ケルンは財力があった。
ファン・ホールは、加入一年目でドイツ杯1977年優勝に貢献した。
他に前述のプレーベン・エルケアも居た。
しかし、彼はチーム構想外状態だったので、翌1977-78年シーズンの開幕2カ月後に奥寺が加入すると、年明け1月で退団した。
その後、ケルンは2冠優勝した。奥寺とファン・ホールが先発して優勝をした。
1年後、1979-80シーズン第4節(1979年9月1日)、シュツットガルト戦で、ファン・ホールが大怪我をした。この後、ファン・ホールは、シーズンを全休した。その為、ケルンは急遽、1979年の欧州チャンピオンズ・カップで優勝した、ノッティンガム・フォレストのイングランド代表FW、トニー・ ウッドコックを獲得した。ドイツクラブ史上最高額の移籍金で獲得した。
そして、1979-80シーズン第15節、ボーフム戦(1979年11月30日)、ウッドコックは、デビューをした。
ケルンの外国人助っ人は、奥寺とウッドコックになった。
ウッドコックは、高い移籍金に沿う活躍をした。
ちなみに、彼はケルン退団後、アーセナルのエース・ストライカーとなり、3年連続でチーム得点王になった。アーセナルではレジェンドの一人だ。
ケルン時代の奥寺は、欧州チャンピオンズ・カップ優勝チームのフォワードで、イングランド代表だった一流ストライカーと、外国人2枠を占めて欧州で戦うという、当時のアジア人では考えられない活躍をしていた。


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【写真解説】 
1980年、ケルン外国人助っ人3人の集合写真。(試合出場は2人のみ)
一番右(選手)イングランド代表FW、ウッドコック(24才)。
イングランド代表、42試合16得点。
ケルンで130試合39得点。アーセナルで131試合56得点。
中央がスイス代表主将、司令塔MF、ルネボッテロン
(26才)。
左が奥寺(28才)だ。
世界の一流選手と奥寺は共闘し、そして先発出場の競争をしていた。
一番右は、カールハインツ・ヘダゴット監督。





ケルン、欧州チャンピオンズ・カップ、ベスト4。 】

2冠優勝の翌1978-79シーズン、ケルンは欧州チャンピオンス・カップに参戦した(現在の欧州チャンピオンズリーグの前身で、欧州一を決める大会)。
そして、ケルンは準決勝まで進み、イングランドのノッティンガム・フォレストと対戦したが、惜しくも敗れた。
合前、この対戦は事実上の決勝戦と言われていた。
奥寺は準決勝第1戦のアウェー戦で、3-3の同点に追いつくゴールをカウンターから決めた。イングランド代表、伝説的名GK、ピーター・シルトンから得点した。
これはアジア人が欧州チャンピオンズ・カップで決めた初ゴールだ。
ケルンは第1戦を3-3で引き分け、有利な状況で第2戦を迎えた。
しかし、第2戦(ホーム)で0-1で敗戦した。
この試合に勝利したノッティンガムはこの年、優勝した。
決勝戦の相手はスウェーデンのマルメで、この当時、かなり格下と評価されていた。
奥寺は今でも、
「準決勝を勝てば、決勝の相手はマルメだったので欧州王者になれる可能性は高かった」
と悔やむコメントをしている。
この年、リーグ戦は6位だった。
私は、ケルンがこの低いリーグ順位になった原因は、欧州チャンピオンズ・カップにエネルギーを注いだ影響もあったと思う。
翌1979-80シーズン、ケルンは不調でリーグ戦5位だった。
しかし、ドイツ杯ではスター軍団の意地を見せ、再び決勝に進出した。
しかし、格下のデュッセルドルフに1-2で敗れて予想外の準優勝に終わった。
この試合、奥寺は後半20分から左サイドハーフで出場した。
既に監督がヘダゴットだったので、奥寺氏は先発を外された。


【 奥寺、2部ヘルタ・ベルリンを経て、1部ブレーメンへ入団。 】

1980年、奥寺は、バイスバイラー監督の後任のカール・ハインツ・ヘダゴット、更に名将リヌス・ミケルスから、「構想外」の扱いを受けた。
ヘダゴット、ミケルスの2人は、奥寺より、スイス代表MF、ルネ・ボッテロンの先発起用を選んだ。
奥寺は、昨シーズン、計33試合も先発出場した。しかし、
昨シーズン後半の監督交代後、ヘダゴット監督になってからは、突如、控え扱いにされた。
しかし、ヘダゴットは僅か計20試合で解任された。(注: この20試合には、リーグ戦以外の試合も含まれています)。
1980年9月、開幕1カ月で解任された。
その後、W杯1974で準優勝した、名将リヌス・ミケルスが監督就任した。
ちなみに、ミケルスは、バロンドール受賞者を決める、フランス・フットボール誌から、「サッカー史上最高の監督」に選ばれた名将です。
しかし、ミケルスも奥寺を構想外、扱いにした。
ヘダゴットの時は、ベンチ入りをしていた試合もあったが、ミケルスは、奥寺をベンチ外に扱い、更に冷遇した。
だから、奥寺は、ミケルスに直接、起用されない理由を質問した。しかし、あやふな対応をされてはぐらかされた。奥寺は失望をした。
この当時、外国人枠は2人だった。奥寺は、ミケルス監督が、他の外国人選手2人(ウッドコック、ボッテロン)を自分よりも優先的にプレーさせる事が分かったので、この先、ケルンに居ても出場機会は得られないだろうと考えた。
それ故、奥寺は何より試合に出る事が大事と考え、開幕2カ月で2部のヘルタ・ベルリンへの移籍を決断した。
この時、奥寺氏の元にはベルギー1部のチームからもオファーがあったそうだが、新たに他の外国語を覚えるのが大変なのと、ドイツで3年住み、慣れていたので、2部チームでもドイツに残る事を決めたそうだ。
しかし、その後、ケルンに居たボッテロンは、奥寺に遙かに及ばない成績でドイツを去った。
だからヘダゴット、ミケルスの2人が、奥寺を外したのは間違いだったのだろう。
そして奥寺は、ヘルタで主に右サイドバックで、25試合8得点の活躍をした。チームは2部3位で終了した。
また「ドイツ杯では、2部チームだが準決勝進出」の驚きの快進撃をした。


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【写真解説】 
1980年、ヘルタ・ベルリン時代の、奥寺康彦。
 ヘルタ・ベルリンは、123得点(42試合)を挙げ、「ブンデス2部、シーズン最多得点 記録」を作った。
未だに、このヘルタ・ベルリンの記録は破られていない(2019年、現在)。




奥寺の2部リーグでの活躍は目を引き、翌シーズン、1部のブレーメンへ移籍した。
ブレーメンでも世界の一流選手と共に戦った。
CB、ブルーノ・ペッツァイ(オーストリア代表。1980年代前半、欧州最高のセンターバック)、
CB、クラウス・フィヒテル(元ドイツ代表。W杯1970、3位。ブンデスリーガ出場数、歴代4位、552試合)。
FW、  ウーベ・ラインダース(W杯1982準優勝)、
ドイツ代表エース・ストライカー、ルディー・フェラー(W杯1986準優勝、W杯1990優勝)、  
MF、ノーバート・マイヤー(ユーロ1984で、ドイツ代表10番の司令塔)、
GK、ディーター・ブルデンスキー(ドイツ代表。ブンデスリーガ試合出場数、歴代17位。478試合)。
そして、ドイツ最後の年は、
名FW、 マンフレート・ブルグスミュラー(リーグ得点数歴代4位、213得点)。
名DM、ミルコ・ボタバ
(ユーロ1980優勝。ブンデスリーガ試合出場数、歴代5位、546試合。ミッドフィルダーの中では、歴代1位の試合出場数)と共に戦った。



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【写真解説】 
1984年7月30日撮影。

1984-85シーズンのブレーメン。
順位は2位だった。

主力メンバーは前列左端、奥寺康彦(33才)。その隣、FW、ラインダース。
前列左から3番目 司令塔MF、マイヤー。
前列左から5番目がボランチのベノ・メルマン。
前列左から6番目、GK、ディーター・ブルデンスキー。
後列左から2番目(選手)FW 、フランク・ノイバート。
後列3番目CB、ペッツァイ。
後列5番目CB、リゴベルト・グルーバー。
後列右から2番目(選手)ドイツ代表エースFW、フェラー。
後列右端はレーハーゲル監督。


ブレーメンは1984-85、1985-86シーズン、2年連続リーグ最多得点で、2年連続「リーグ戦1試合の平均得点率」が欧州最高(2.6点、2.4点)だった。欧州最高の攻撃成績だった。 欧州5大リーグ全チーム [94チーム] 中、1位でした。
この1985年は、ブレーメンは87得点(34試合)で「得点率2.6」だった。
他国の1位と比較すると
ブレーメン(2.6)、バイエルン(2.3)、
エバートン(2.1)、バルセロナ(2.0)、ボルドー(1.8)、ユベントス(1.6)。
ちなみに、レアル・マドリードは(1.6)だった。

翌1986年は、ブレーメンは83得点(34試合)で得点率2.44。
レアル・マドリードと同率1位。 
バイエルン(2.4)、リバプール(2.1)、パリSG(1.7)、ローマ(1.7)より上。
ちなみにバルセロナ(1.8)だった。

当時ドイツは人材豊富で、スペイン強豪クラブより攻撃力があった。
ちなみに1985年の欧州リーグ・ランキングで、スペインはなんと欧州8位だった。
翌1986年は、欧州5位だった。
それぐらいこの頃は、低レベル・リーグだった。
スペインに比べると、奥寺氏の居たドイツ・ブンデスリーガの方が、遥かにレベルが上だった。
ブンデスリーガは1985年は欧州3位で、1986年は欧州2位だった。


ブレーメンは、この頃、「欧州最高の攻撃力」だったので、「大量得点試合」を数多くした。
1983~86年の3年間で、「5得点以上の大勝試合」は、以下である。
これら全試合に奥寺康彦は出場をした。


【 ブレーメン  1983-84 】 (4試合)

02d.  5-2  ボーフム
15d.  8-1  オッフェンバッハ
18d.  5-0  マンハイム
28d.  5-2  ユルディンゲン


【 ブレーメン 1984-85 】 (5試合)
03d.  6-2   ケルン
09d.  5-2   ハンブルガー
13d.  7-1   カールスルーエ
17d.  6-0   ドルトムント
31d.  6-1      カイザースラウテルン 


【 ブレーメン 1985-86 】 (5試合)
02d.  8-2  ハノーバー
14d.  6-1  ユルディンゲン
17d.  6-0  シュツットガルト
24d.  7-3  デュッセルドルフ
30d.  5-0  レバークーゼン

凄い攻撃力 」である。 


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【写真解説】左は、ドイツ代表FW、ルディー・フェラー。右が奥寺康彦。ブレーメン試合後の写真。
奥寺は日本復帰1986年まで、彼と4年間共に戦い、ブレーメンを強豪に変えた。
フェラーは137試合97得点(1982-87年の僅か5年在籍)を挙げ、当時、クラブ史上最多得点記録を作った。フェラーはブレーメン史上最高の選手だ。
奥寺は左サイドからクロスを上げ、フェラーの得点王(1982-83シーズン)に助力した。
ちなみに、現在クラブ得点数1位は、ペルー人、クラウディオ・ピサーロ、204試合 104得点。歴代2位は、1990年代に活躍した、ドイツ人、マルコ・ボーデの379試合、101得点です。
また、フェラーは、1980年代中頃からドイツ代表エース・ストライカーとして、10年以上もの長い間、活躍した。彼は、90試合47得点(当時、ドイツ歴代2位)を記録した。
当時、ドイツ一番の人気選手だった。
つまり、奥寺康彦という選手は、ケルン時代は、ディーター・ミュラー、ブレーメン時代は、ルディー・フェラーにクロスを上げていたので、
ドイツ時代は、ドイツ代表のセンターフォワードにばかりクロスを上げていた選手」という事である。
「世界で一流のセンターフォワードにばかり、クロスを供給していた」という事だ。
奥寺氏は、1986年、日本帰国したすぐに、ドイツ時代について、
「ドイツでプレーしていた時は、周りが上手い選手ばかりだった。だから、プレーしていて面白かった。味方にパスをすると良いリターンをくれる。クロスを上げればフォワードが決めてくれる。スムーズにプレーできるので面白かった」
と述べている。



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【写真解説】 
1980年代、ブレーメン守備の要、「オーストリア史上最高のセンターバック」、ブルーノ・ペッツァイ。
1980年代前半、欧州最高のセンターバック」。
ペッツァイは、身長188センチで空中戦に強いディフェンダーでした。
また彼は、存在感が大きく、チームに冷静さを与える事ができる、他と格の違う選手だった。
彼は、フランクフルト在籍時代、UEFA杯1980年に優勝しました。
ペッツァイは、フランクフルト時代は、バロンドール投票(欧州最優秀選手賞の投票)で、
14位(1980年)、11位(1981年)、12位(1982年)になった。
1980年代前半、バロンドール投票で、センターバックでは最も順位が高かった。「欧州最高のセンターバック」だった。
またペッツァイは、当時、世界選抜で先発した。
世界選抜では、フランツ・ベッケンバウアーとセンターバック・コンビを組んで出場した時もあった。
それぐらい凄い選手でした。
そしてオーストリア代表では、W杯1978、1982年で活躍しました
ブレーメン時代、ペッツァイは、奥寺と2人で「外国人2枠」を占拠しました。



【 1980年代、ブレーメンは強豪チーム。 】

ブレーメンは、フェラー、奥寺、ペッツァイらの活躍で優勝争いする強豪となった。奥寺の在籍中、リーグ2位に3回もなった
惜しくも、優勝する事はできませんでした。
しかし、優勝チームとほぼ互角レベルの実力を有していた。

1981-82シーズン、ブレーメンは5位だった。2部昇格1年目、いきなり5位になった。
ドイツ杯では準々決勝でバイエルン(この大会、優勝)と戦い、延長戦までもつれた末、1-2で敗れた。名手、パウル・ブライトナーの2得点で負けた。
この年、ブレーメンの外国人選手は奥寺一人だけだった
奥寺は、このシーズン、右サイドバックだった。しかし、有望株の若手サイドバック、トーマス・シャーフがデビューした。その為、ポジション変更を頼まれた。その結果、翌シーズンから左サイドハーフになった。

1982-83シーズン、ブレーメンはハンブルガーSV(同じ北ドイツ最大のライバル)と勝ち点1位で並び終了した。しかし、得失点差[ 8差]で負け2位に終わった。
ハンブルガーはこの年、欧州チャンピオンズカップ優勝、国内リーグ優勝をして2冠達成をした。
ちなみに、ハンブルガーは国内2連覇も達成した。
この頃、ハンブルガーは欧州最強チームだった
この年、ブレーメンは26節で2位になり、最終節までハンブルガーと争った。その内容は、残り3節は(32節、33節、最終節)、勝ち点が全く同じだった。しかし、惜しくも得失点差で負けて優勝できなかった。
ちなみに、奥寺は、ハンブルガーと直接対決 (北ドイツダービー)では、通算5勝2分3敗で勝ち越した

この年も、ブレーメンの外国人選手は奥寺一人だけだった。
翌シーズンから、新外国人助っ人、DF、ブルーノ・ペッツァイが加入した。

1983-84シーズン、ブレーメンは、優勝したシュトゥットガルトに勝ち点わずか3差で、5位だった。
この年は、勝ち点3差の間に上位5チームが入って終了した。歴史的混戦の優勝争いが起きた。



【 1980年代中頃、ブンデスは、ブレーメンとバイエルンの2強時代。 】


1984-85シーズン、ブレーメンは欧州最高得点率(2.6点)で最高の攻撃力だった。しかし、バイエルンとの競争に敗れた。勝ち点4差で、リーグ戦2位で終えた。

翌1985-86シーズン、ブレーメン(再び欧州最高得点率2.4で1位。 レアル・マドリードと同率1位)は、またもバイエルンと熾烈なリーグ優勝争いをした。
この年、ブレーメンは、第14節からずっと首位を走った。しかし、最終節で敗戦してバイエルンに逆転優勝された。
勝ち点は1位だった。しかし、得失点差 [ 9差]で負けた。再び3年前と同じく得失点差で負け、2位で終った。
リーグ終盤の状況について詳しく説明しますと、首位のブレーメンは、シーズン終盤、第33節(残り2節)で、2位バイエルンとホームで直接対決をした
この試合は0-0で進み、試合終了間際ロスタイム、ブレーメンはPKを得た。
しかし、このPKをDF、クツォップが外してしまい優勝を逃した。
このPK失敗は、現在でも「ブンデスリーガ史上、最も有名なPK失敗」と言われている。非常に有名なシーンとして語り継がれている。
あれが決まっていれば奥寺にとって2度目のリーグ優勝であった。
次の最終節で敗戦してしまったブレーメンは、バイエルンと勝ち点で並ばれた。その結果、得失点差で負け、逆転優勝された。
ちなみに、この年、バイエルンは、ドイツ杯も優勝して「歴史的2冠」を達成した。翌シーズンは欧州チャンピオンズカップで準優勝した。
しかし、奥寺は、ブレーメン時代、バイエルンとの直接対決は、4勝3分2敗(リーグ戦)で勝ち越した。
このように奥寺は、欧州強豪リーグで熾烈な優勝争いを毎年していた世界の一流選手だった。

奥寺は、ドイツ最後の年は、もしあのPKが決まっていれば、リーグ優勝していた訳だ。そうだとすると、「対、バイエルン戦」の成績(リーグ戦)は、ケルン、ブレーメン時代の合計は、通算7勝になっていた。
現在、奥寺は、バイエルン相手に、リーグ戦の成績は、「通算6勝3分3敗」だ。これでも十分、凄い。
しかし、タラレバの話で恐縮だが、もしPKが決まっていれば、通算「7勝2分け3敗」になっていた。凄い数字だ。私は、そうならなかった事が残念です。



【 奥寺康彦、ブレーメンで、UEFAカップに挑戦。 】


奥寺は、ブレーメン時代、UEFAカップに4回出場をした。しかし、国際大会の成績は良くなかった。
奥寺のブレーメンは、ベスト16が1回が最高だった。他は、2回戦で1度敗退、1回戦で2度も敗退した。
皆さまに最初に説明しておくと、昔のUEFA杯はリーグ2~5位チーム参加だったので今より遙かにレベルが高かった。
昔は、欧州チャンピオンズ・カップは、「リーグ優勝チーム1チームのみが、参加資格」だった。そして、「リーグ2~5位」がUEFAカップに参加した。
その後、1997年以降のUEFAカップと、現在のUEFAヨーロッパ・リーグは、
「欧州5大リーグでは、リーグ戦、5~6位チーム参加の大会」となった。
だから、かなりレベルが低くなった。昔とはかなり内容の違う大会である。
「小野伸二がUEFAカップ優勝した(2001年)」、
「長谷部誠がヨーロッパ・リーグ、ベスト4進出(2018年)」等、
日本のマスコミは快挙としている。しかし、私は、奥寺の時代のUEFAカップとそれらが同じ大会だと考えるのは、実質的には間違いではないかと思う。

上述したが、奥寺の居たブレーメンは、ベスト16が1回が最高で、2回戦で1度敗退、1回戦で2度も敗退した。
1982-83年、ダンディー・ユナイテッド(R16)、
1983-84年、ライプツィヒ(2回戦)、
1984-85年 アンデルレヒト(1回戦)、
1985-86年、オデッサ(1回戦)に敗れた。
ブレーメンは、「欧州最高の得点率」、バイエルンにも勝ち越し、「ドイツで2位3回の強豪」だったが、国際大会では格下に足を掬われ、毎年、予想外の敗退を繰り返した。

ブレーメンは、早期敗退ばかりだった。しかし、奥寺は全4回出場して、毎年、不運に遭遇していた。
読者の皆さまは、何だか私が奥寺が所属していたのでブレーメンの肩を持ち、言い訳がましい事を言っているように聞こえるかも知れない。しかし、これは事実なのである。
奥寺が参加した各4シーズンで、ブレーメンに起きた詳しいトラブルの内容は以下である。
1982-83シーズン、UEFAカップで、
ブレーメンは、ラウンド16、(1982年、11月23日、12月7日開催)で、
ダンディー・ユナイッテド(スコットランド) に敗れ、大会敗退した。
ブレーメンは、第1戦、敵地で1-2で敗れ、第2戦、ホームで1-1で引き分け、2試合合計、1敗1分けで敗退した。
この時、ブレーメンはFW、ルディー・フェラーに次ぐ、エース級のFW、ウーベ・ラインダースを欠いていた。
ラインダースは、「W杯1982準優勝チームのメンバー」の実力者だった。
この頃は、フェラーとラインダースの2人が、ブレーメンの2トップだった。
彼は、国内リーグ戦、第6節、「ケルン 対 ブレーメン」戦(1982年9月18日)で、前半34分に負傷して交代した。
この後、彼は、翌年1983年3月1日、
第20節、「ボルシアMG 対 ブレーメン」戦まで、半年近くも長期離脱した。
その為、「UEFAカップ、ラウンド16」 の試合(1982年、11月23日、12月7日開催)に出場できなかった。
つまり、ブレーメンは主力フォワードの1人を欠くというトラブルに見舞われていたのだ。

翌1983-84シーズン、2回戦でライプツィヒ(東ドイツ)に敗れ、大会敗退した時は、第1戦、敵地で既に0-1で敗れた。ホームの第2試合で、ブレーメンは攻撃的に行き、勝利したい所だった。
しかし、第2戦で、前半36分、ボランチのベノ・メルマンが太腿裏を故障して負傷退場した(恐らく肉離れ)。
司令塔の才能も有する、チームの核、メルマンが抜けた影響は大きく、ブレーメンは挽回できなかった。第2戦を1-1で終え、敗退した。

1984-85シーズン、UEFAカップ1回戦、アンデルレヒト(ベルギーのビッグ・クラブ)戦は、ブレーメンは敵地で0-1で敗れ、ホームで2-1で勝利した。
惜しくも「アウェーでの得点数の差」で、負けた。
第2戦、ブレーメンは、ホームで2-0で勝っていた。
そのまま行けば2試合合計で、勝利だった。
しかし、後半18分、MF、ウォルフガンク・ジドゥカが「オウン・ゴール」をした。2-1となってしまった。
そのまま試合終了した。その結果、ブレーメンは、「アウェー得点数の差」で負けて大会敗退をした。

1985-86シーズン、ブレーメンは、UEFAカップ1回戦で、再び敗退した。オデッサ(ウクライナ)に敗れた。
第1戦、1985年9月18日、敵地で、ブレーメンは、1-2で敗戦した。
第2戦、1985年10月2日、ホームでの試合で、挽回、逆転勝利したい所だった。
しかし、5日前、国内リーグ戦、1985年9月28日、
「ブンデスリーガ、第9節、ボーフム 対 ブレーメン戦」で、
エースFW、ルディー・フェラーが、ボーフムのMF、フランク・ベナテリから酷いファウルを受け、前半38分で、負傷退場した。この後、フェラーは、約2カ月間、戦列を離脱した。
チームのエースで、一番の得点源を失った事は、ブレーメンにとって甚大な被害だった。
5日後のUEFAカップ1回戦、第2戦、「ブレーメン 対 オデッサ」戦で、ブレーメンはフェラーを欠いた状態で戦った。
その結果、ブレーメンは3対2で勝利したが、「2試合合計の得点失点差」でオデッサに上回られた。これにより、1回戦で敗退した。
やはり、この試合、ブレーメンにエース・ストライカー、フェラーが居なかった事は、どう考えても影響していただろう。
失礼だが、私は、フェラーが居れば、ブレーメンはオデッサのような知名度の低いクラブは、容易に倒せて、1回戦突破はできただろうと思う。
 

結果だけ見ると、ブレーメンのUEFAカップでの成績は酷い。早期敗退ばかりだ。

しかし、ブレーメンは毎年、主力が試合直前や試合中に故障離脱したり、他に試合中、オウン・ゴールをしたりと、毎年、怪我のトラブルや不運に見舞われていた訳だ。
また、毎年、僅差 又は、「1勝1敗。同得点でアウェー得点数の差で敗れる」等、非常に接戦の末、敗れている。
1984-85年、アンデルレヒト(ベルギー)、
1985-86年、オデッサ(ウクライナ)に1回戦で敗れた年は、
共に「1勝1敗で、同得点で『アウェー得点数の差』 で敗れている」。

私は、奥寺のUEFAカップの試合を幾つか見た。
チーム成績は悪い結果に終わったが、彼のプレイは及第点で、得点機を演出していた。  
皆さんには、チーム成績はさておき、奥寺氏のパフォーマンスは「さすが助っ人と思う内容であった」という事を、お伝えしておきたい。


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【 1980年代、ドイツ2強、外国人助っ人紹介。 】


1980年代中頃、ブンデス2強、ブレーメンとバイエルン両チームの外国人助っ人計4人の顔触れは、ブレーメンは奥寺ペッツァイだ。

一方、バイエルンは、ベルギー代表、ジャン・マリー・パフ


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【写真解説】 
ベルギー代表、GK、ジャンマリー・パフ。

パフは、W杯1986、ベスト・イレブン」、 「 1987年、世界最優秀ゴールキーパーに選ばれた。
バロンドールで最高6位(1983年)。



もう一人がデンマーク代表 ミッドフィルダー、セーレン・レアビー

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【写真解説】 
バイエルン時代、セーレン・レアビー。(1986年、ブレーメン戦)。


レアビーは、バロンドール投票で、1985年は、12位。1986年、13位でした。
1986年は、ボランチで、欧州1位の順位です。
彼は、欧州最高レベルのボランチでした。また、「欧州チャンピオンズ・カップ、1979-80シーズン、得点王」の経験もありました。
という訳で、他の3人は凄い顔触れです。しかし日本人は、そこに奥寺が居た凄さを分かっていない。
当時の「ドイツ2強の助っ人」は、このように世界の一流選手達だった。
上述しましたが、奥寺は、ブレーメン時代のバイエルンとの対戦成績は、4勝3分2敗(リーグ戦)で勝ち越した。

そして奥寺は、1985-1986年シーズン後、日本に帰国した。
代わりに入団した新外国人は、現在でもノルウェー史上最高選手と評される、CB、ルネ・ブラツェットだ。
彼はバロンドールで最高15位。
当時ブレーメンは強豪で、助っ人レベルは高かった。
奥寺はアジア人なので当時、バロンドール選考対象ではなかった。しかし、ケルン、ブレーメンの外国人レベルがこれ程、高いならば、長年、そこで活躍した奥寺も同様に高い。
しかし、私は、日本人は奥寺の活躍した位置が分かっているかと疑問に思わざるを得ない。


【 奥寺康彦、在籍2チームの布陣。 】

ケルン2冠達成チームは、CFディーター・ミュラー、
ウィングが奥寺康彦とファン・ホール、
10番がノイマン、ボランチがフローエとクルマン。
DF陣は右SBコノプカ、CBがシュトラック、ゲルバー、左SBツィマーマン。
そしてGKがシューマッハ。
翌シーズンから歴史的名手のシュスター、リトバルスキーが一軍デビューした。

ブレーメンは、FWフェラー、ラインダース(ノイバート)。
MF10番マイヤー、右ジドゥカ、左に奥寺、DMがメルマン(ボタバ)。
DF陣は、右SBシャーフ、CBペッツアイ(フィヒテル)、グルーバー(クツォップ)、
左SBオッテン。
GKブルデンスキー。
ドイツ代表は4、5人居たが、代表で長く活躍したのはフェラーだけだった。
ブレーメン時代、奥寺は主に左サイドハーフでプレイした。


【 奥寺、世界のスターと対戦  & 凄い戦績。負け越しゼロ。 】

奥寺の時代、ブンデスリーガは、UEFAリーグ・ランキングだけでなく、個人賞という側面でも一番だった。
1980年前後は、ブンデス所属の選手がバロンドールを最も受賞した。
現在と違い、ドイツ人がバロンドールを受賞していた。
ノミネート候補30人中の約3分の1が、「ブンデス所属選手」という年が数回あり、最も候補者の多いリーグでもあった(注: 1986年からセリエAが欧州1位リーグになった)。
1980年前後のブンデスリーガは、ドイツ人選手のレベルが高く、一番華やかな時代だった
ブンデスリーガ歴代最多得点、1~4位までは、未だにこの時代の選手達だ(2018年現在)。
また1970~80年代のドイツ代表は、「W杯、ユーロ」で優勝、準優勝をよくして非常に強かった。
当時、ゲルト・ミュラー(リーグ得点王、歴代最多7回)と カール・ハインツ・ルンメニゲ(リーグ得点王3回)の2人が、バイエルンの2大エースとして君臨していました。彼ら2人はドイツ代表でもエースで活躍した。
奥寺はケルン時代にフォワードで、この2人が居たチームと対戦して2-0で勝利しました。
奥寺は得点できませんでしたが、試合は勝ちました。そして、この年は優勝しました。
あの時代、日本人の奥寺がミュラーと対戦して勝利したのは凄い事です。
一方、ブレーメン時代、奥寺氏は、監督から「ルンメニゲをマークしろ」と特別にセンターバック出場をした試合まであり、その時は守りで戦いました
上述しましたが、奥寺はケルン、ブレーメン時代を通じて、ルンメニゲに通算5勝1分1敗(リーグ戦)で圧勝した

また、1981年10月28日に、W杯1974で優勝し、バロンドールも2回受賞した、皇帝フランツ・ベッケンバウアーとハンブルガーSVとの「北ドイツ・ダービー」で対戦しました。
奥寺は、ラジオ番組で、
「ベッケンバウアーは晩年(36才)で体のキレがあまり良くなかった」
と語っていました。
この試合は奥寺のブレーメンが3-2で勝利しました。
全盛期ではなかったといえ、
公式戦でベッケンバウアーに勝利した事がある日本人は奥寺だけです。
またバロンドール2年連続受賞して、全盛期のイングランド代表エース、ゲビン・キーガン(ハンブルガー)や、同じく受賞者のアラン・シモンセン(ボルシアMG)ともリーグ戦で対戦していました。
他にもW杯1990年で優勝して、同年、バロンドールを受賞した、ロータ・マテウス(ボルシアMG、バイエルン所属)と対戦した。奥寺氏は、通算4勝3分3敗で勝ち越した。
また、ユルゲン・クリンスマンとの対戦も、3勝1敗で勝ち越した。
奥寺氏は、ドイツ時代9年間で、 「ドイツ1部リーグ戦、計27チーム」との対戦成績で、(注: ドイツ・カップの試合は含んでいません)、負け越しゼロ。
奥寺氏は、
 「ハンブルガー、カイザースラウテルン戦のみ、タイで終りました」。   
 奥寺氏は、ハンブルガー戦は、6勝2分6敗。カイザースラウテルン戦は、5勝5分5敗。
この2チームとの対戦成績は、タイに終わりました。
それ以外の25チームには、勝ち越しました。
更に、奥寺氏は、ほぼ毎年、優勝争いをした。上述しましたが、「リーグ戦で、6位より下で終わったシーズンがない」。
1部リーグ在籍、8年中5年は、優勝争いをした。
(注: チャ・ボングンは、ドイツに10年も居たが、リーグ戦で一度も優勝争いした事はない)
 奥寺氏は、 バイエルン・ミュンヘン、ボルシアMG、シュツットガルト、ケルン、ドルトムントなどの強豪チーム相手に、全て勝ち越しの成績で終った。
これは当たり前です。
なぜなら奥寺氏は、「1位や2位チームでずっと外国人助っ人だった」 からです。
故に、ドイツ代表のエース格が居た強豪チームにも勝ち越しの成績でした。
そして、「リーグ戦では、負け越しゼロ」という凄い成績でドイツ生活を終えました。
このように奥寺は、欧州最高のリーグで、欧州最高の選手と戦っていました。


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【写真解説】 
右がドイツ史上最高FW、ゲルト・ミュラー
(当時、W杯最多得点記録14点を作った。他に、ブンデスリーガ得点王、史上最多7回。バロンドール受賞1回)。
左がカール・ハインツ・ルンメニゲ(リーグ得点王3回。バロンドール受賞2回)。
1970年代後半、バイエルンはドイツ史上最強フォワード・コンビを有した。
奥寺はケルンで、この2人の居たバイエルンと優勝争いをした。
ちなみにミュラーは、ケルンが優勝した年に「7回目の得点王」になった。




【 奥寺が凄い理由。 】

奥寺以降の選手が「黄金世代」と評されたが、欧州最高リーグの強豪チームで毎年30試合先発した訳ではない。
小野伸二、中村俊輔は欧州6位以降のリーグ、香川のブンデスは欧州3位のリーグだった。
中田がローマで優勝した時、セリエAは欧州2位リーグだった。中田の移籍2年目以降、セリエAは欧州2位だ。
しかも中田は補欠だ。下位チームでしか活躍してない。
日本の歴史で、「欧州最高リーグで優勝した選手は、未だに奥寺康彦だけです」。彼はハイ・レベルな世界で最も長く活躍した日本人だ。
奥寺の欧州1位リーグ在籍期間は、通算7年。2部に約半年、居たのを除いても6年半、居た。
注:彼の欧州9年のうち、最後の2年、ブンデスは欧州1位リーグではなかった。

最後に、「アジカン」というウソつき馬鹿男の話は、信じないで下さい。

 それでは、皆さん、さようなら。



参考資料です。これは、「奥寺康彦は、FCバルセロナ主催の大会に参加して優勝していた」という話です。
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これは、他の記事です。これは、アジカンという「ウソつき馬鹿男」の問題について書いています。 
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